111...
まさかここまでとはな。降谷に重ねてしまうほどよく似ている安室が先ほど言った、死に際の赤井が呟いたとされるその言葉。なまえは何度も頭の中でそれを反すうしながら、隣で息を潜めているコナンの横顔をじっと見つめていた。彼が考えた鉄壁とも呼べる最善の作戦。それが今まさに安室によってすべてを覆され、こちらの状況は依然として不利な方へと傾いているように思える。あの優作でさえなまえには後手に回っているようにしか思えなくて、コナンがここからどうやって形成を逆転するというのか、その道筋が残念ながら彼女にはまったく見えてこなかった。ただ刻一刻と、無情にも物語の集結へと向かって時間だけが流れていくような気がする。
右耳につけたインカムから聞こえてくる声色が少し焦りを含んだものに変わったのも、ちょうどそのときのことだった。ジョディとともにいる男性の捜査官が「少し飛ばしますよ」と言ったかと思うと、急にノイズが激しくなり、彼らの乗る車が速度を増しているということがよくわかる。その理由は彼曰く、後ろから妙な車がつけてきているから。おそらく、赤井の身柄を拘束するために、人質としてふたりを確保しようとしている組織の車に違いなかった。
なまえはその話を聞いたとき、それこそがコナンが事前に教えてと言っていた「大きな動き」であるとして認識し、すぐさま隣にいた弟にその事実を伝えようとした。しかしその瞬間、自分の容体の悪さを思い知らされるような頭への激しい疼痛が、稲妻で身を貫くかのごとく走って。話しかけることで自分の不調がバレるのではないかと危惧し、なまえは思わず口を噤んでしまう。
安室に追い詰められている今のこの状況を打破するために、焦りを浮かべたコナンが今も必死になって策を講じていることは明白で、なまえはそれを邪魔してまで自分が重荷となって彼の足を引っ張ってしまうことが嫌だった。それに、今すぐコナンにそのことを伝えたところで、来葉峠にいる彼らを助けられるのは、今も車に隠れて同乗している赤井しかいない。
痛む頭でいろいろ考えた結果、なまえは結局、コナンに車のことを告げることができなかった。代わりに、まるで神にもすがるような思いで赤井に届くはずのない言葉を呟く。
「何してるの、秀一……」
お願いだから、何かしゃべって。早くふたりを助けて。じゃないと、この胸が今にも押しつぶされてしまいそうで。もう何も、考えることもできないよ。
case111. 決死のチェイス
一方、優作扮する沖矢と安室の対決もいよいよ大詰め。圧倒的に形成有利な安室は得意げに足を組んで、客人としては些か横柄な態度を取りながら、沖矢にその鋭い刃の切っ先を向け続ける。
「そこから先は簡単でした。来葉峠の一件後、その少年の周りに突然現れた不審人物を探すだけ。そこで、ここへたどり着いたというわけです」
「……」
「あの少年と、この家の家主である工藤優作がどういう関係かはまだわかっていませんが、あなたがあの少年と工藤なまえのおかげでここに住まわせてもらっているのは確かなようだ」
突然、名指しされたコナンとなまえは別室のモニター前でわずかに息を飲んだ。まるですべてを見通しているかのような態度を見せ続ける安室は、披露する自分の推理に絶対的な自信を持っているらしく、余裕の表情で机の上に自身のスマートフォンを意味ありげに置いてみせる。
「連絡待ちです」
「……」
「現在、私の連れがあなたのお仲間を拘束すべく追跡中。さすがのあなたもお仲間の生死がかかれば、素直になってくれると思いまして」
それに対して、沖矢は何も言わない。いや、何も言えないの間違いだろう。安室はそんな風に見下して思いながら、自分にとって最良たる朗報が聞きたくて、その連絡を今か今かと待ち遠しく感じていた。たった二匹のネズミを捕まえるために、安室が来葉峠に送り込んだ車は計五台。さすがにもう捕まえていたとしても、おかしくはない頃合いである。
ただ、自分の仲間が彼らを捕まえる前に、眼前にいるこの忌々しい能面のような男から、手放しで投了してもらった方が気分がいいことは確かであった。
「でも、できれば連絡が来る前に、そのマスクを取ってくれませんかね? 沖矢昴さん。いや、FBI捜査官……赤井秀一」
テレビから流れる授賞式の大きな歓声が、ある意味虚しく思えるほどの沈黙。その静けさが向かい合って座っているふたりを、まるで突き刺すみたいに痛々しく包み込んでいた。
安室はその沈黙こそが彼の答えであることを確信し、不可抗力的に口角を上げて笑ってしまう。もうこれで赤井秀一は終わりだ。来葉峠に送り込んだ自分の仲間がFBIの人間を捕まえるのも時間の問題であることだし、さすがの彼も仲間を人質に取られれば、もうどこへも逃げられないと諦めるだろう。愛しいなまえに手を出さなかっただけ、こちらに慈悲があったと思っておいてもらいたいくらいだ。
けれど、その長い沈黙の後。先に口を開いたのは、まるで何の痛手も負っていないとでも言うように不敵に笑った沖矢昴の方である。
「君がそれを望むのなら、仕方ない」
そう言うと、沖矢は安室の指示に素直に応じるように「右手」を使ってマスクを外す。ただしマスクといっても、もちろん有希子が施した変装に使っている特殊なマスクではない。博士が作った、変声機のつきの口と鼻を覆うためのマスクである。
外気に素顔を晒した沖矢は、まるで何も悟らせないほど無表情でじっと安室を見据える。それは、なまえの父である優作だからこその彼への挑戦だった。
「何のつもりだ?」
当然、それを見た安室は今までで最も苛立った様子でそう言った。どこまでも白々しく、どこまで逃げようとする。どれだけあがこうが、もう無駄だと言うのに。
早々に過去の自分の罪を認めて、笑顔のなまえを一日でも早くこちらの手元に返して欲しい。安室はそんな怒りに震えながら、固く拳を握る。そう、だってお前は。お前はあの日、公安だとバレて焦っていたヒロを追い詰めて、廃ビルの屋上で見殺しにした。お前ほどの男がなぜヒロの自殺を止められなかったんだ? 公安とFBIという所属は別にしても、潜入している身としては同等だとわかっていたはず。そして、後に自分が組織の目を欺いて死んだと偽装してみせるなら、あのときヒロの死の偽装も手伝って、今もあいつを生かしておくこともできたんじゃないのか!? なあ、答えろよ! 赤井! お前にわかるか!? 何もかもを失ったこの虚しさや孤独が……! 永遠に報われない日々を生き続けるこの地獄のような苦しみが!
……僕が僕よりも大切にしていた親友のヒロを、なまえを。もう僕に返してくれ。
しかし、優作はあくまでもコナンと決めた打ち合わせ通りに淡々と事を進めていく。安室の激昂する顔色に、その悲痛な胸の内を悟りながらも。
マスクを外して沖矢としての顔を晒してしまえば、もちろん再びそれをつけるまで、優作は彼と直接話しをすることができない。なので、約束通り二回の空咳で別室にいる息子にバトンを託し、そこから先はコナンが沖矢として安室との対決を担うことになる。
「少々風邪気味なのでマスクをつけていいですか? 君に移すといけない」
「そのマスクじゃない。その変装を解けと言っているんだ、赤井秀一!」
「変装? 赤井秀一? さっきから一体、何の話をしているんです?」
沖矢は心底、何を言っているのかわからないとでも言うような言葉で彼を責めた。それを聞いた安室は一旦、自分の落ち着きを取り戻すことを努める。声はできるだけ荒げたくはない。なぜならこちらの動揺を誘うのが、赤井のやり口だとわかっているから。だから、安室はその怒りを血が滲むほど拳を握りしめることでなんとか昇華しようと躍起になる。でも。でも。
安室の怒りとは対照的に、テレビの向こうでは、ついに最優秀脚本賞が発表されようとしていた。まさに日本中がその様子を固唾を飲んで見守っているのが予想できるが、それは工藤家にとってもひときわ特別な時間で。コナンも、なまえも。優作も、そして有希子も。それぞれの思惑を孕んだまま、それぞれが神妙にそのときを待っていたのである。
「それでは続いて、最優秀脚本賞の発表です。映えあるこの賞に輝いたのは、なんと、映画の脚本を手がけたのはこれが初めてだというベストセラー作家……」
「……」
「ナイトバロンシリーズでお馴染みの、ミスター、ユウサク・クドウ!」
作品のタイトルは『緋色の捜査官』です! プレゼンターが盛大に場を盛り上げるかのごとく読み上げた名前とともに、一躍、脚光を浴びるのは澄ました笑顔を浮かべる優作。拍手に応えるかのように手を上げてゆっくりと席から立ち、栄光ある舞台へ登壇する姿が眩しい。
しかし、本当の彼は。今も沖矢昴としてこの工藤邸にいて、まるで獣の如く捨て身で牙を剥く安室と懸命に闘っている最中なのであったが、そんなことを知る者はマカデミー賞の会場には誰もいないだろう。
そして、同じく。ここから本当の意味での逆転劇を見せられることになるとは、安室は想像もしていなかったのである。
来葉峠でカーチェイスをしていたジョディとキャメルも、依然としてかなり追い詰められた状況にいることには変わりなかった。挙句に戦況は悪化の一途を辿っており、追っ手が張った車のバリケードを避けるため無理やり岩に乗り上げた際、タイヤとホイールがダメージを受けてそこから空気が漏れ出しているという始末。そうした理由で、キャメルが握るハンドルが規則的に右に取られてしまう分、その運転は峠特有の急カーブ過多の道では命を伴うほど危険なものとなり、背後に差し迫る追っ手を気にしながらの走行では逃げ切れるかどうかの自信が彼には既にない。
しかし、それでもまだ後部座席で隠れている赤井は頑なに口を割らず、もどかしくも仲間を助けるタイミングして、そのときだと頃合いを見定めてはいないようであった。
一方、再び工藤邸。安室は自身の仲間がたかがネズミ二匹の拘束に想定以上の時間がかかっていることに業を煮やしながら、涼しい顔をして再びマスクをつけ直した沖矢に対して、そのずうずうしい腹の内を尋ねる。
「一体、何を企んでいる?」
「企む、とは?」
「ざっと見た感じだが、玄関先に二台、廊下に三台、そしてこの部屋には五台の隠しカメラが設置されているようだ。この様子を録画してFBIにでも送る気か?」
「……」
「それとも。別の部屋にいる誰かが、この様子を見ているのかな」
それはもちろん赤井の死の偽装を助言し、おそらくこの状況も逐一監視していると思われる江戸川コナンに向けられていた発言であった。この対決の前に、テレビ横のスピーカーに極小の穴を開けて仕込んでおいた小型のカメラ。そのレンズに安室は堂々と視線を送り、別室でモニタリングしていたコナンとカメラ越しに目を合わせる。隠しカメラや盗聴器の類はもちろんバレることも予想していたが、台数までぴたりと言い当てられてしまうとは、一緒にモニタリングをしていたなまえもさすがに思っていなかった。
はっきり言って見くびっていたのかもしれない、組織の一員であるバーボンを。なまえはそう思い、半ばもう諦めにも似た気持ちを抱いていた。彼女では考えられる手立てが既にない。来葉峠組も、こちらも。悔しいくらい八方塞がりなのである。
「そもそも僕と似ているんですか? 顔とか、声とか」
「ふんっ、顔は変装。声は変声機」
「変声機?」
「今日の昼間、この近辺を回ってリサーチしたんです。隣人である阿笠博士の発明品で、評判がよかったのに急に販売をやめたものはないかってね」
安室はチョーカー型変声機について、調べたことを得意げになって語り出した。喉の振動を利用して自在に声を変えられるというそれは、ストーカーの迷惑電話に対しては確かに役に立つ。そしてチョーカー型というその名の通りの特徴から、今もハイネックを着用している沖矢昴がそれをつけているということも、安室にとっては笑ってしまうくらい見え透いた事実であった。
「もうだめ!」
なまえの耳元で、突然、ジョディがそう叫んだ。どうやら背後に迫っていた組織の車に追いつかれてしまったらしく、状況を嘆いてのとっさの叫びだったのだろう。その発言は奇しくもなまえの気持ちをも代弁するような言葉で、同じくこの工藤邸の二階の小部屋で彼女もそう叫んで顔を覆ってしまいたいくらいだった。
安室が立ち上がり、沖矢に近づく。そして、その手はゆっくりと彼の首元へ。
「そう。大きさはちょうど、そのハイネックで……隠れるくらいなんだよ!」
しかし、そのときは突然に訪れた。安室が沖矢の首元に指をかけて暴くのと、なまえの右耳につけたインカムから聞き慣れた声が届いたのは、ほぼ同時。
「屋根を開けろ」
「!」
「開けるんだ、キャメル」
赤井秀一。その声を聞いた瞬間、なまえの目から一筋の涙が溢れていった。この一件が片づくまで、絶対に泣かないでおこうと決めていたのに。赤井の声を聞くだけでこんなにも安心できるなんて。なまえは自分でも、そんなこと思いもしていなかった。
モニターの中でも、安室は想定していたチョーカー型変声機のついていない沖矢の首元を見て、心底驚いているようであった。自信を持っていたはずの推理が急に崩れ去り、それが自分の慢心であったことを知って、大きく動揺していたのである。
そのうち、先ほど机の上に置いていた安室のスマートフォンがようやく一報を受け入れて鳴り出した。しかし、安室はその音にも反応できないほどこの状況に愕然としており、逆に沖矢が促すようにその電話のことを指摘する。
「あの、電話鳴ってますけど?」
安室は生返事をしながら、激しい動揺を必死に押し殺して「まだだ」と思った。この電話がFBIを捕まえたという仲間からの報告であれば、まだこちらの勝機は確実にあるだろう。彼は懸命にそう思い直し、まるですがるように応答ボタンを押して耳元に当てる。
だが、その報告は期待していた朗報ではない。
「どうした? 遅かったな……え? 赤井が!?」
その電話は待ち望んでいた来葉峠に送り込んだ仲間からの連絡ではあったが、FBI捜査官たちを捕まえたという報告ではない。彼らが追っていた車の中に、赤井秀一が乗り合わせているという信じがたい一報なのであった。