112...
なまえは赤井の声に安堵してぼろぼろと泣きながら、右耳のインカムから流れてくる音声を必死になって拾っていた。彼の指示でキャメルが車のサンルーフを開けたことにより、吹き込む風の音が激しくなって聞き取りにくくなることを危惧したからである。けれど、さすがは博士自慢の高音質を誇る集音機。たとえどんな風の中であっても胸元につけた赤井の声だけは、まるで遠くから彼女のことを励ますみたいにはっきりとその耳に聞こえてくる。
来葉峠にいたジョディとキャメルもまた、この状況をなまえと同じく泣きたくなるほど歓迎し、彼に驚いてひと度後方へと下がった追っ手の車に安心しきっていた。奴らはさっそく赤井の登場を報告するために、この舞台に差し向けたバーボンと緻密な連絡を取っているらしく、バックミラー越しに忙しなく電話をかけている様子が伺える。怪しげなスーツ姿の彼らが一様にその表情に浮かべているのは、当然、激しい「焦り」であった。
しかしFBIの彼らもまた、いくらその死に不信感があったとはいえ、今まで散々生きていないと思っていた仲間の彼が、突然、しかも、自分たちが乗っていた車の中から生きて現れるとは夢にも思わず、仲間でありながら依然として戸惑いの気持ちが大きいことも事実であった。何しろ聞きたいことがありすぎて。けれど、それを今すぐ詳しく尋ねることができないということは、さすがの彼らにもわかっている。
そして、それは説明する側の赤井も同じ。とにかく今は後方に追ってくる五台もの猛々しい狼たちを、先に排除しない限りは道も開けないだろう。三人は互いの総意として、それを十分に理解し合っていた。
故に、赤井は運転手であるキャメルに次の指示を繰り出したのである。それも実に端的に。信頼を込めて。
「五秒だ」
「え?」
「もう少し行くと二百メートルのストレートがある。そこに出たら、ハンドルと速度を固定しろ。このくだらないチェイスに蹴りをつけてやる」
「了解!」
「っていうか、アンタどこで何をやってたのよ。なんで、車に乗ってるわけ!?」
「すべては思惑通りだよ。あのボウヤのな」
相変わらず困惑気味のジョディをいなすように赤井はそう言うと、黒い手袋を装着して、持参した拳銃の装弾を改めて冷静にチェックしていた。その拳銃はもともと、死体偽装に用いることとなった組織の末端・楠田陸道のものであり、赤井は彼が自殺に使用したそれを今まで大切に保管していたのである。そして昨晩、あの江戸川コナンにこの作戦の全貌を聞いたときから、今日、これを持ち出すことはあらかじめ決めていて、彼は背後に差し迫る堅物たちとの商談のきっかけにしようとしていたのであった。
「あのボウヤって、まさかコナンくん?」
「ああ。俺の身柄を抵抗なしで確保するには、俺と繋がりの深いお前たちのどちらかを拘束するはず。人知れずそれを実行するには、FBIの仲間から離れる車での外出中。俺の死に不信感を持ち始めていたジョディならおそらく、この来葉峠に来ると的中させていたよ」
まるで千里眼のように物事を見通してしまうコナンとやりとりをした内容について、赤井は簡単にジョディにそう説明した。あの少年がここまで筋書きを読んでいるとは非常に恐ろしいことではあるが、味方にすれば心強い。今頃はバーボンとの対決を、計画通りにその盤面ごとひっくり返していることだろう。そして、そんな彼に一任してきたなまえと大事な話をするために、赤井は彼女との愛しい生活を送っていたあの家に絶対に帰らなければならないのだ。
だからこそ一刻も早く、この闘いを終わらせる。赤井はそう決心し、胸元につけたスピーカーに唇を寄せて、一度強く握りしめた。まるで彼女を抱きしめる代わりのように。
赤井は再び首を曲げて背後に差し迫る車に視線を投げると、睨むようにその様子を注意深く観察した。次に気にかけるのは車内にいる人間の動向ではなく、その運転の癖である。どんなに周到なこちらの計画も、相手に不測の事態が起これば、意図せず逆にその計画を崩されてしまいかねない。だからそのリスクを最小限にするために、特に最前を走る車両のドライビングテクニックは見定めておく必要があったのだ。
この車の揺れの規則性は既に把握済み。楠田の拳銃も、昨日、時間をかけて丁寧にメンテナンスをしたために今は心強い相棒となって力を貸してくれることだろう。後は自身の腕の問題だが、それは心配ない。
「キャメル! 次の右カーブを抜けたら二百メートルのストレートだ」
「了解! 右カーブを抜けたら、ハンドル、速度、固定します!」
「無茶よ! タイヤのエアー漏れで車が揺れているのに! 拳銃の照準を合わせるなんて!」
すると、赤井はキャメルが座っている運転席に背中を預け、反対に後部座席に足をかける。月明かりに黒光りする古い拳銃は、既に後方に向かって構えられ、その銃口を威嚇のように相手に向けた。
「問題ない。規則的な振動なら計算できる」
車はいよいよ運命の右カーブを抜ける。キャメルは赤井に合図を出すかのように「ストレート!」と激しい風の中で大声を張った。それに答えるように「了解」と事務的に呟いた彼は、先頭車両の右前輪に照準を合わせて静かに片目を閉じる。
一、二、三……。半ば無意識的に秒数をカウントアップするキャメルの声を聞きながら、赤井は鋭く狙いを定める。速度、振動、相手の癖、車間、位置、その照準がすべてオールクリアとなってピタリと一直線上に交わったとき。彼は迷いなく、その引き金を引いた。
長い期間を経て、来葉峠に再び銃声が響いた。それは以前のように人を傷つけるためのものではなく、大切な人を守るための、銃声。その瞬間、前輪に弾丸を撃ち込まれた先頭車両がコマのように回転しながら後続車たちを一挙に巻き込み、激しいクラッシュ音とともに五台の車が仲良く玉突き事故を起こして遠ざかっていく様子が三人の目に映る。衝突による火柱は出ておらず、負傷者は出たかも知れないが、おそらく死人は出ていないだろう。いや、むしろ、あのまま激戦のカーチェイスを続けていた方が、先にどちらかに死人が出ていたに違いない。
「追ってこないってことは、振り切ったようね」
「さすが赤井さん……っ!」
ジョディとキャメルはこれでようやく心からほっとしたように、赤井のことを称賛した。しかし、次に彼が出した指示は、耳を疑うようなものだったのである。
「キャメル。……戻れ」
「ええ!?」
「了解!」
「ちょっと、嘘でしょ!?」
どうして、と。ジョディは信じられないといった様子で赤井に何度もその理由をしつこく聞き返していた。その判断を全面的に信頼しているキャメルは、赤井のことなので何か策があるに違いないと思い、ふたつ返事ですぐさま次のカーブでUターンを決める。そして、先ほど赤井が発砲したポイントまで、こちらも満身創痍となった車を素直に走らせるのである。
コナンの計画では、確かにジョディとキャメルを救出する目的も赤井は担っていた。だが、本当の狙いはここからなのだ。
今も工藤邸にいるバーボン。それに、月夜の来葉峠に現れた赤井。因縁めいたふたりの居場所は違えども、まるでその平行線を重ね合わせるように彼らが直接対決をするときがとうとう訪れようとしていたのだ。
case112. 時はもう巻き戻せない
その頃の工藤邸では、未だにテレビから賑やかな優作の受賞風景が垂れ流されていた。なまえはジョディと同じように赤井が「戻れ」と命じたことをその痛む頭で困惑し、そして安室は。信じがたい戦況報告を仲間から受けて、激しくその声を荒らげていたのである。
「赤井が拳銃を発砲!? それで、追跡は!?」
「それが、走行不能車両続出で……!」
「何でもいい! 動ける車があるのなら奴を追え! 今逃したら、今度はどこに雲隠れするか……!」
するとその瞬間、沖矢が珍しく割に大きな咳払いをした。それは本当に風邪気味であることを証明するというよりも、安室の声のボリュームが些か大きいことを家人として注意するためのものである。
「少々静かにしてもらえますか? 今、この家の家主が大変な賞を受賞してスピーチをするところなんですから」
まあ、会ったことはありませんけどね、と。沖矢に扮した優作は、またもそんなジョークをのうのうと言ってのける。もちろん、それがジョークだと伝わるのはこの計画を知るほんのひと握りの人間たちだけなのだが、絶対的な自信のあった推理が外れて動揺を隠せない今の安室には、その発言がヒントになっているということも残念ながらわかるわけがなかった。今、彼の目の前で呑気にテレビなんかを見ている謎多き大学院生・沖矢昴が、まさかその画面に映る工藤優作の変装であるなんて。そんな事実、安室でなくとも誰も想像つかない。
それに、赤井本人が来葉峠に姿を表したということは、赤井と沖矢はそもそも最初から別人で、沖矢に至っては無条件に「白」であるということがもう既に証明されたも同然であった。なまえと彼が交際しているという事実は安室にとって腹立たしいことに変わりはないが、彼が赤井ではない以上、執拗な詮索を続ける筋合いはもうない。それが意味するところはつまり、コナン側の勝ちだ。
一方、優作のジョークはともかく。彼が安室に静かにして欲しいと頼んだのは、実のところ失礼ながらも多少本心から出た言葉であった。自分に成り代わって、慣れないシークレットブーツに耐えながら頑張り続けてくれている妻の有希子が、この世界的大舞台でどんなスピーチを見せてくれるのか。夫として、彼女の久しい女優ぶりが今からとても楽しみだったのである。
「えー……ただいまご紹介に預かりました。工藤優作です」
有希子、改め、優作のスピーチは、騒然としていた全員の耳に静かに落ちるみたいに入っていった。なまえもコナンも。優作も安室も。そして、安室が所持している盗聴器から工藤邸の外で必死に音を拾っていた彼の「本当の」仲間たちにも。受賞できたことへの感謝の意と、彼が書いた脚本『緋色の捜査官』のモデルとした人物に妻がぞっこんであることをおもしろおかしく話す世界的大作家のスピーチを、まるでこの物語のフィナーレのように、ある意味でふさわしい思いを抱きながら聞いていたのである。
繋がったままになっていた安室のスマートフォンから声が聞こえてきたのは、そんなときであった。
「しかし、追えと言われてもこの状況では……」
自分より上役である彼に意見するようにそう言ったのは、来葉峠で事故車を前に途方に暮れていた彼の仲間のひとりであった。突然、降って湧いたように現れた赤井秀一に激しく車を大破させられ、叱責の対象となりそうなこの状況をどうするか考えあぐねていたのである。
そんな彼らの目の前に現れたのは、一台の車。眩しいライトのせいで最初はわからなかったが、その車が停車した瞬間、彼らは思わず息を飲む。
なぜならそこにいたのは。突然の発砲でこの事故を引き起こした張本人である、赤井秀一。その男が揚々と現場に舞い戻ってきたからだ。
「大丈夫か?」
「あ、赤井……!?」
まさか逃げ果せたはずのFBIが乗った車が帰って来るとは思っておらず、その場にいた全員が一路、赤井の再登場を信じられない気持ちで出迎えた。しかし、そこはさすがはプロ。すぐに彼を包囲するように数名が冷たい銃口を向けたが、当の赤井はどこ吹く風。撃たれることなどまったく怖くはないとでも言うみたいに涼しい顔をして、彼らに本題である商談を持ちかけるのだ。
「悪く思わんでくれよ。仕掛けて来たのはアンタらの方だし。ああでもしなければ、死人が出かねぬ勢いだったからな」
「……」
「そこで提案だが、今、アンタが持ってる携帯とさっき発砲したこの拳銃。交換してはくれないか?」
工藤邸にいたなまえは赤井がそう言った瞬間、彼がキャメルに「戻れ」と指示した意味を理解した。
赤井は今から安室との直接対決をしようとしているのだ。優作とコナンのコンビネーションに打ち負かされた安室に対して、まるでとどめを刺すかのように。
その推理は、結論から言えば半分は的中していた。しかし、赤井の腹づもりは単にそれだけが理由というわけではない。
武器となる拳銃を赤井から奪えるのならと、堅苦しい背広を身にまとったその男は彼から持ちかけられた何とも要領を得ない交渉に素直に応じた。そして、ふたりが取引を行った後。赤井は一瞬、受け取った携帯電話の画面に表示されていたミュートボタンをタップし、ある思惑からほんの短時間だけ安室に自身の声を届かせなくする。そして、そこでようやく初めて、なまえにだけ聞こえるような小さな声で、一方的に胸元の集音器に言葉を落とすのである。
「なまえ。今から俺が話すことをよく聞いておけ」
「!」
「愛してる」
そう言うと、彼は再び同じボタンを押して。なまえの心の準備を待たずにミュートを解除すると、まるでこの状況を心から楽しむみたいに宿敵に声をかけ始めた。
「久しぶりだな、バーボン。いや、今は安室透くんだったかな?」
安室は当然、その声に言葉を失くした。仲間の報告を信じていなかったわけではない。しかし、ずっとその亡霊を追っていた彼であるからこそ、絶対にその声を聞き間違えることはなく、赤井本人がそこに存在しているということを改めて強く認識したのだ。
「君の連れの車をおシャカにしたお詫びに、ささやかな手土産を授けた。楠田陸道が自殺に使用した拳銃だ。入手ルートを探れば、何かわかるかもしれん」
ここは日本。そういうことは我々FBIよりも、君らの方が畑だろ? そう赤井が平然と言ってのけた言葉に、さすがの安室でも声を詰まらせる。一方、頭ごなしに「聞いておけ」と赤井から言われていたなまえには、もちろんその会話の意味がわからなかった。
安室透は組織の一員。そこに所属している彼に、楠田の拳銃を返してしまう意味がわからない。しかも、入手ルートを探る? 日本が畑? 赤井が急に何の話をしているのか、なまえにはまったくもって理解ができなかった。
だが、とてつもなく嫌な予感がしている。頭の内側から、どんどんと叩くような。猛烈な頭痛とともに。
「まさかお前、俺の正体を……」
先ほどまであんなにも威勢がよかったはずの安室は急に小声でそう言ったかと思うと、赤井は続けざまに、とどめの刃を突き返す。
その脳裏には、一瞬だけ、なまえの泣き顔が思い浮かんだ。けれど、もう。時は巻き戻せない。
「組織にいた頃から疑ってはいたが、あだなが『ゼロ』だとあのボウヤに漏らしたのは失敗だったな? 降谷零くん」
「!?」
「ゼロとあだなされる名前は数少ない。調べやすかったよ」
これまでの話にまったくついていけていなかったなまえでも、その名はさすがに耳を疑った。今、赤井は、降谷零と言ったか。本当に? けれど、その本名も、ゼロというあだなも、家族ですら知らないはず。なまえだけしか知らない大切な「ふるさと」なのに。どうして赤井が。いや、それ以前に。
じゃあ、やっぱり安室は零だったってことなの? あんなにも会いたくてたまらなかった、零が、こんなにも傍にいたってことなの?
頭がまったく追いついてこなかった。赤井さえ知っていた事実を、自分だけが知らなかったなんて。降谷との記憶と、安室のことを好きだった思い出がまるで走馬灯みたいにぐちゃぐちゃになって蘇ってきて、そのどれもが今さら同じ彼だったなんて。信じられないよ。何がどうなってるの?
追いつけないまま、いつのまにか赤井の話はどんどんと先に進んでいたらしく、彼は空気の流れを断ち切るように前置きをして最後に安室への忠告のような言葉を投げかける。ただ、これだけは言っておく、と。
「目先のことに囚われて、狩るべき相手を見誤らないでいただきたい。君は、敵に回したくない男のひとりなんでね」
一方の安室は、その忠告を一度は黙って受け止めていた。恥ずかしい話ではあるが、それは理屈としては一理あるかもしれないと腑に落ちるように思ったからである。自分が追い求めているのはこの愛すべき日本を脅かす、組織の内情。本当に狩るべき相手は彼らであって、確かに赤井ではない。なまえだって、本当はただの大学院生の恋人でしかなかったのだから。
しかし、次に赤井がつけ加えるように口を開いた発言で、安室の心には再び紅蓮の炎が燃え盛る。切り出した言葉の先には、もうひとりの旧友がいた。
「それと……彼のことは今でも悪かったと思っている」
「!」
「よし、キャメル。車を出せ」
悪かったと思っている、だと……? ふざけるなよ。それでヒロが帰ってくるなら、お前の謝罪なんてどれだけだって聞いてやる。でも、ヒロはもう二度と帰ってこないんだよ。幸せだった三人の、甘酸っぱいレモンスカッシュのような日々も。ふるさとも。何もかも。もう二度と僕の手元には帰ってこないのに。お前だけがのうのうと生き延びて。そんな理不尽があってたまるか。
僕にはもう、なまえを追う理由もなくなってしまったのに。
工藤邸の応接間で、安室は静かに打ち震えていた。しかし、それはその上階にある小さなモニタリングルームでも、同じ状況が起こっていたのである。
なまえはその後、安室が「勘違いでした」と苦笑いで帰っていくまで何も彼らの会話を聞いていることができなかった。ただ、彼が降谷であるということ。そして、彼もまたかつての赤井と同じ。その牙で組織に噛みつこうと、身を隠して危険な潜入を果たしている者であるということ。それが事実であることを次第に理解しながら、激しい震えを止められずにいる。未だにずっと、嫌な予感が収まらないからだ。
右耳のインカムからはもう何の音も聞こえてこなかった。どうやらもう必要がないとして、赤井が捨ててしまったのかもしれない。でも、今すぐに彼からその説明が欲しかった。
ねえ、秀一。あなた、誰のことを悪かったと思っているの?
「おーい、もういいぞー!」
下階から、呑気な沖矢の声が聞こえてきたのはちょうどそのときのことだった。その声を皮切りに緊張を緩めたコナンはうんと伸びをして、あー疲れた、とひとりごちてうなだれる。
そして、姉がどんな反応をしているのか心配して視線を合わせようとしたその瞬間、なまえは今まで自分を保っていた糸が途端にぷつりと切れてしまったかのように椅子から転がり落ち、大きな音を立ててその場に倒れ込んでしまったのだった。真っ青な顔で激しく呼吸し、大量に発汗して苦しんでいる様子は見るからにただ事ではなく。その後、何も知らずに部屋に入ってきた優作とともに、ひどくうなされている彼女を急いで自室へと運ぶことになったのである。