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百貨店で起こった爆破未遂事件に巻き込まれたせいでかなりの無駄足を食らってしまったが、それでもきちんと夕飯の時間に間に合ったのは、比較的簡単なメニューをなまえが想定して買い物をこなしていたからだった。
「うわー、いい匂い!」
蓋を取るや否や一気に立ち込めるスパイスの香りに、沖矢もつい、いつも以上に笑顔になる。
日本の一般的な家庭料理の中で最もポピュラーな食べ物。そう言えば、もうおわかりだろう。みんな大好き、カレーライスである。
「にしても、高級肉を使ってカレーとは。光栄というか、なんだか少し勿体無い気もしますが」
「いいのいいの。昴くんには日頃から夕飯作ってもらってお世話になってるんだし。今日の昼も、奢ってもらって申し訳なかったし。たまにはいいお肉食べて英気を養ってもらわないと!」
そう言いながら、なまえは耐火ミトンをしてオーブンを開けた。そこには自慢のレモンパイがちょうどいい色で焼き上がっている。これで、夕食はデザートまで完成。ちょっとしたホームパーティ気分だ。
「そちらもいい感じですね」
「ええ」
「あれ、なまえさん。カレー皿はどこに……」
いつもの位置にないようですが、と困惑したような沖矢に、なまえは待ってましたとばかりの笑みを浮かべる。そして、あらかじめシールで引き換えておいた例のユルリックマプレートを二枚、箱から出して、沖矢に差し出した。
実はこれが、メニューを決めるときの一番の決め手になった。かつては沖矢が絶対に嫌がるだろうと思って意地になって集めていたシールだったけれど、結果的には、初めてお揃いの食器を持つ、いいきっかけになったのだと思う。
「じゃーん。昴くん、どっちがいい?」
寝そべってる方か、寝てる方! と、どちらも大差ないクマのイラストがプリントされた皿を並べられ、沖矢は正直、笑いをこらえるのに必死だった。そして、この愛らしい女性のことがますます気に入ってしまう。今すぐ抱きしめてしまいたいくらいに。
「……寝てる方で」
「はい、了解!」
case12. 回顧する古い謎解き
ごちそうさまでした、と元気よく手を合わせた後、ふたりは満腹になった腹をさすって食後の余韻を楽しむことにした。カレーの中に入った肉は良すぎるくらいで、口に入った瞬間、溶けていったし、なまえが作ったレモンパイも甘さ控えめで非常に口当たりがよかった。両方とも作りすぎてさすがに食べ切れなかったので、明日、博士の家におすそ分けに行こうという話になり、無駄なく決着がつく。にしても、少し食べ過ぎた、かもしれない。
沖矢は、工藤邸に住み始めてからカウンターの上に置くようになっていたバーボンウイスキーをおもむろに手に取った。なまえと一緒にいるときに飲むのはこれが初めてだったが、既に中身は半分ほど減っている。これを少しずつ飲むのが毎晩の楽しみなのだと彼は嬉しそうにそう言うと、宝石のようなカッティングが施されたグラスに注ぎ、なまえにもどうかと勧めてきたが断った。彼女はあまり酒には強くない体質だったからだ。
「前に一緒に食べにいったレモンタルトも十分美味しかったですけど、なまえさんの作るレモンパイには敵わないですね。いくらでも食べられてしまいそうです」
「そう? これ、みんなに好評なんだ。……ただ」
「ただ?」
「あ、いや。今まで一度だけはっきり『嫌いだ』って言われたことがあって。そのときはすごくショックだったなあって。あとからすぐに『嘘だった』って謝られたんだけど」
なまえはそう言いながら、過去を懐かしむように睫毛を伏せる。一瞬にして曇ったその表情を晴らせたいと思った沖矢が、優しく彼女に語りかけた。
「その話、詳しく聞いても?」
「いいですよ」
なまえはそう言って、淹れていた紅茶を口にする。
ことの起こりは、高校一年生の秋。今日と同じようにレモンパイを作って、降谷と諸伏に初めて持って行ったときのことだ。
「じゃーん」
「けーん」
「ぽんっ!」
快晴の屋上。天高く、馬肥ゆる秋。
降谷零、諸伏景光、工藤なまえの三人は心地よい秋風が吹く中、とりわけ真剣にじゃんけんをしていた。何を賭けているかといえば、なまえが作って持ってきていたレモンパイ。大きさがどれも意図せずまちまちだったので、それを賭けてじゃんけんしているのである。もちろん、作ってきたなまえ本人は参加しなくていいと言ったが、友人たちがそれを許すはずがない。ふたり揃って公平無私の、道義心溢れる強い人間だからである。
ちなみに勝ったのは諸伏。彼は真っ先に一番大きなピースを手に取った。
「やっりぃ! 見たか、ゼロ!」
「うるさい」
「零はどっちにする? 味は一緒だけど」
「じゃあ、こっち」
親友に負け惜しみを言いながらも、ちゃっかり大きな方を選んで頬張る降谷になまえは笑った。だが、それを見るなりすぐにむすっとした顔を返されるので、慌てて表情を元に戻す。ふん、と降谷はそっけなくそっぽを向いて、それでもパクパクとたった三口ほどで食べきってしまった。なまえにはやっぱりそれが可愛く見えて、つい隠れて笑ってしまう。
そうして密かに降谷を笑っていると、諸伏がなまえをいきなりむぎゅうと強く抱きしめてきたのだった。
「へ?」
「なまえーっ! これ、美味すぎっ!」
「そ、そう?」
「うん! 甘い物結構苦手だけど、これはさっぱりめで食べやすいし。何よりなまえが作ったのかと思うと嬉しくて、何倍も美味く感じる!」
また作ってよ、と諸伏は持ち前の明るさで気軽に言った。なまえにはそれがとても嬉しくて、毎日でも作ってあげたいと思うほどの幸せを噛みしめる。孤児院にいたときや、中学時代はずっとひとりでいたけれど、友人に喜んでもらえることがこんなにも嬉しいことなのかと、初めて身にしみて感じることができた瞬間だった。
「……」
諸伏は降谷とは違って感情をわりに素直に口に出すタイプで、今思うと、それは彼にとって何でもない味の感想だったのかもしれない。けれど、なまえはそれを真に受けて、何度かレモンパイを作っては学校に持ち込み、昼の休憩のときに仲良く広げて三人で食べた。
甘酸っぱい、青春の味がした。
けれど、事件は突然起きた。その日も持ってきていたレモンパイを前に、いつも通りじゃんけんの準備をした興奮気味の諸伏。それに対し、降谷が突き放すように言ったのだ。
「いらない」
その、やけに冷えた言い方が鼓膜に貼りついたように耳に残った。
「え……」
「なんだよ、ゼロ。食べないんだったら、オレが全部食っちまうぞ」
「いいぞ、食えば?」
「ど、どうしたの、零?」
「別に。ヒロに食べてもらった方が、そのレモンパイが喜ぶんじゃないかと思って」
レモンパイが、喜ぶ? 降谷が何を言っているのかさっぱりなまえにはわからず、思わず無言になって呆然と立ち尽くしてしまう。しかし、そんな風に硬直していたなまえに対して、彼はぶっきらぼうにこう続けたのだ。
「最初から、僕は嫌いだったんだよ」
「……」
「今後は好きなヒロのために、レモンパイでもなんでも作ってあげれば」
大げさかもしれないが、その言葉に心が粉々になってしまったような気がして。なまえは耐えきれず、泣き顔を見せないようにその場から逃げ出したのだった。
「それからすぐに驚かすための『嘘だった』って謝られたんだけど、どうも当分はトラウマになっちゃって。卒業までは作れなかったなあ」
「どうして再び作れるように?」
「弟にしつこくせがまれたっていうのもあるけど。でも一番は突然、その『嫌いだ』って言ってきた彼が卒業式の日に私にこう言ったの。『久しぶりにあの味が恋しい』ってさ。自分勝手でしょ? でも、単純だから、たったそれだけでまた作れるようになっちゃった」
なまえはそう言うと、ようやく少しの笑みを見せた。その顔に沖矢は安堵しつつ、まるで封印していた謎を解き明かすかのように彼女に尋ねる。
「なまえさん。その男の子が、どうして突然あなたの作ったレモンパイが『嫌いだ』なんて言ったのか、本当にわからないんですか?」
「え?」
「彼はあなたのことが、好きだったからですよ」
その言葉には、恋愛に免疫のないなまえでもさすがにどきりとした。零が自分を好きだった? むしろ零はいつも怒ってばっかりで、何ひとつ好かれていたという自信もないのに。
しかし、沖矢はその証拠を突きつける。相変わらずの探偵口調で。
「他の男子にせがまれて作っていたものを食べさせてもらうのは、ついでのような気がして嫌だった。そして、おそらくあなたが、レモンパイをせがんだ彼のことが好きだと勘違いをしていて、好意を寄せている彼のために作っているとその子は思い込んでいたんでしょう。だから『嫌いだ』なんて言って、あなたの気を引こうとしたんですよ。その彼は」
「そんなこと……」
「さて。古い謎解きも終わったことですし、あと数時間で日付も変わるのでデートはこれにておしまいにしましょう。まるで魔法が解けるようで少々惜しいですけどね」
未だ、沖矢に突きつけられた真実が上手く飲み込めず、なまえは呆然とコーヒーの波面を見つめていた。本当に? でも、全然信じられない。零が、私を好き。そんな馬鹿な。
沖矢が一度、咳払いをした。なまえはやっと我に返り、カップを洗うために立ち上がる。すると沖矢がそれを制して、座ったなまえに上から迫るように見つめた。
「なまえさん。最後にデートの記念品をいただいてもよろしいでしょうか」
「デートの記念品?」
すると、沖矢はそっと彼女の髪を耳にかけ、頬に軽いキスを落とす。そこから一気に熱が広がるような。熱源のようなキスだった。
「おやすみなさい。いい夢を」
そのキスのせいですっかりなまえの中の降谷に対する疑心は消えてしまった。正直、それどころではなくなってしまったからだ。