14...


 家に帰るなりドタドタと音を立てて走り出し、はやる気持ちを抑えきれないままなまえは沖矢がいるであろうダイニングへと向かっていた。ここ最近はもう慣れた温かな食事の匂いにも、几帳面に揃ったスリッパにも、ぴかぴかに磨かれた手すりにも、そのすべてに彼の痕跡が見えて苦しくなる。

 信じたくない。だが、手元のカードには十分すぎるほどの証拠が揃っていた。


「昴くん!」


 まるで不安を払拭するように彼の名を大きな声で呼びながら、音を立てて扉を開け放った。そこにはいつも通りきちんとエプロンをして、鍋の蓋を手にきょとんとした沖矢が、不思議そうな顔でなまえを見つめている。今朝会ったときから風邪気味で、たまに咳をしていること以外はあまりに日常的すぎて、なまえは思わず言葉を失くしてしまった。


「おかえりなさい、なまえさん。ごほっ……ごほ……どうしたんですか? そんなに慌てて」
「あ、いや……」
「もしかして、お腹空いてますか?」


 冗談めかしながら平常運転の笑みを繰り出す沖矢をなまえは見ていられなくて、カウンターの上に置かれたバーボンの酒瓶に視線を逸らした。今日は朝から喉の調子が悪くて病院に行っていたので、僕も食事を作るのが遅くなってしまって。どうせならなまえさんと一緒に食べたくてこうして待っていたんですよ。と、彼は普段通り。何気ない世間話を優しい声音でする。いつもなら心地いいと感じる独特のトーンにも、今のなまえには恐ろしい狂気を孕んでいるようにさえ聞こえた。

 変装している人が、はたして気軽に病院になど行けるのだろうか。身分証や保険証を偽造しているならともかく、弟の新一や隣人の灰原哀でさえ、病院で処置をしてもらうことは一旦、躊躇する。それを、言葉は悪いがただの喉風邪で通院という危ない橋を渡るとは考えられない。

 なら、どうして彼は嘘をつく必要があるのだろうか。思い当たる答えはやっぱり、ひとつしかない。

 昼間は「バーボン」として、組織のメンバーとともに行動しているからなのでは? なまえはそう思い、意を決してキッチンにいる沖矢に近づいた。

 正直、位置的にキッチンは最悪な場所だった。周りには凶器になりやすいものがたくさんあるし、そもそも得物を持たれなくとも女の自分が大柄の彼に立ち向かうことは不可能に近い。だから一か八かを賭ける。もしここで死ねば、姉の死を彼らに繋がるヒントに変えて新一が絶対に解き明かしてくれるはず。……それに、こちらに何も策がないわけではない。


「なまえさん?」
「かがんで」
「え?」
「いいから。早くかがんで」


 二度目はきつく、睨みつけるように言った。そして、未だ不思議そうな顔をしている彼は、首をひねりながらも要求通り軽く膝を曲げる。なまえはそこにつけ入るように彼にすっと手を伸ばした。

 その顔が変装であることは、出会った翌日の朝から確かめた水滴の方法で既にわかっていた。しかし、同じ手が二度通じるような相手ではない。なまえもそれをわかっていたし、同じ手数を踏むつもりも初めからない。きっと、沖矢もそう思っていただろう。そこに隙を見たのだ。

 伸ばした手は予想通り軽く避けられ、顔には届かず彼の肩に着地した。しかしとっさになまえは目を閉じ、すぐさまその肩についた手の反動で彼の頬に自分の唇を寄せる。それはまるで、先日のデートの記念品として献上されたキスのように。

 これがなまえが考えた、彼の顔に直接触れて確かめる唯一の方法だったのだ。


「!」


 これにはさすがの沖矢も相当驚いているようだった。だが、彼はすぐに体制を立て直し、なまえの手を強引に取って乱暴に壁際に追いやる。強く背中がぶつかるドンという鈍い音が、軽い痛みとともにやけに鼓膜に反響して聞こえたように思えた。

 沖矢は笑っている。その顔はしてやられた、という顔だ。



case14. 急速なキスで息の根を止めて


 そうして、ふたりはしばらくそのままの距離で睨み合っていた。鍋にかけられた火が強いのか、ふつふつと沸騰する音が聞こえてくる。それ以外には、たまに沖矢が喉の調子を気にする声と、激しく脈打ち始めた自分の鼓動が聞こえてくるばかりである。なまえはそれを隠すよう、努めて冷静に口を開いた。


「あなた、誰なの」
「……」
「正直、初めて会ったときから違和感があった。だからわざとあなたの顔についたパンくずを払うなんて嘘をついて、水滴がついたままの手であなたの顔に触れようとしたのよ。結果は思った通り。人工マスク特有の水を弾く耐性。昔、母の特殊メイク技術で聞いたことがあったから、すぐに気づいた」
「……」
「ハイネックを好んで着ている理由は喉元にある変声機か何かを隠すためかしら」


 沖矢は何も言わない。肯定の意か。なまえは余裕を見せつけるために不敵に笑いながら、さらに攻撃するように言葉の弓を放ち続ける。


「けど、あなたは私に危害を加える素ぶりは一切見せなかった。むしろ優しく、信頼を得るような言動ばかり。まあ、それが何かを意図した演技であれば別だけど、演技じゃないのなら、なぜ? 組織の人間なら、私なんてすぐに殺せるでしょう? それに私はあの『赤井秀一』の検案書を書いた監察医でもある。何か情報を聞き出すならもっと手っ取り早い方法もあったはず。なのに、いつまでもそうしない」


 つらつらと言葉を重ねているように見えるかもしれないが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。ここ最近は勝手に、まるで高校時代に戻ったような気分になっていたのだ。お互いの名前を呼んで。タメ口で話して。かつての友人である降谷と諸伏のように、信頼できる人が傍にいてくれるが故の「強さ」が自分の手元に戻ってきたような気がしていたのだ。

 何者かもわからない沖矢を信頼して、馬鹿みたいに。

 気を抜くと泣いてしまいそうではあったが、意地でも涙は見せたくなかった。代わりに血が滲みそうになるほど唇を強く噛んで、そこに残った感触を必死に消す。人肌ではない、温かさも一緒に。

 見かねた沖矢は逃さないように彼女を自分の腕で囲ったまま、分厚い親指でその痛々しい唇をなぞった。そして赤く腫れたそこを愛しげに眺め、しみじみと呟く。


「キスで見抜くとは。粋ですね」
「……」
「けど、それを今、あなたに教えるわけにはいかないんですよ。ここから先はまだこちらのエリアなんですから」


 そう言うと、彼は静かに指を三本立てた。それからまるで奇術師が種明かしをするような口ぶりでこう言う。何も教えられないのもあなたには癪でしょうから、と。


「いつかあなたが答えてくれた質問の数と同じ、三つだけこちらの情報を教えて差し上げます。ひとつめは、僕が神に誓ってあなたの恐れているような人物ではないこと」
「……神に誓ったところで、それは証拠にはならない」
「ええ。でも、僕はあなたが人一倍に神を信仰していることを知っています。その神様に誓うほどですから、その想いの強さで承知していただきたい。……今は」


 今は。強調されたその限定的な言葉に、悔しくて再び唇を噛んだ。そしてそれは再び、愛しげになぞる沖矢の指で制止される。


「ふたつめは、僕があなたの好物を『レモン』だと聞いたのは実はあの少年からじゃない。なまえさん、あなた自身からであること」
「え?」
「そして、最後に」


 すると沖矢は再びなまえに迫り、壁に押しつけて獲物を仕留めるような鋭いキスをする。強引に口内を割って入ってくる乱暴な熱い舌に、似合わないほど甘いレモンの味。生々しくて、自分の欲を押しつけるような、今までで最も沖矢昴らしくない身勝手な行動だった。


「んっ、は……」
「今日の僕のキスがあなたの好きなレモン味だということ」


 離れた彼の赤い舌の上に、見せつけるように黄色い半透明のキャンディが乗っている。どうやらのど飴のようで、離れた唇に薄荷の風味が移っていた。


「さあ。気をとりなおして、食事にしましょうか? 僕の可愛いルームメイトさん」


 一連の出来事をまるで何事もなかったかのように流し、咳をしながらまたいつもと同じように配膳作業を始める彼を、なまえは口を押さえながら背後で睨みつけていた。

 殺された、と思ったのだ。急速すぎる本物のキスで。

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