15...
沖矢との一件の後は当然ながら以前のような信頼感を彼に抱けるはずもなく、なまえは出勤や帰宅時間をわざとずらしてなるべく彼と顔を合わさないように努めていた。日が昇り始めた早朝に家を出て、深夜に帰宅。毎日倒れ込むように床には伏すものの、一貫して眠りは浅い。結果、余計な疲労がどんどん蓄積し、仕事のストレスと合わさって、ここ最近はずっと体調不良が続いている。しかも、誰かからまるで「証」のように移された喉風邪はしつこいほど長引いて、なかなかあの出来事を忘れさせてはくれない。
一方の、奇人である沖矢の態度は至って普通。見かければまるで何事もなかったかのように挨拶してくるし、夜中になまえが帰宅すれば、いつだってコンロの上にはわざわざ彼女のために残したと思われる美味しそうな料理が鍋に入って置かれていた。それでも、なまえは意地を張るようにそれらを無視し続け、距離ばかり取り続けていたのである。感じる必要のないはずの寂しさと罪悪感を、一挙に抱えながら。
それはまた、休日も同様だった。沖矢と同じ家にいるのが気まずくて、なるべく予定を入れるようにして部屋を空ける。と言っても、図書館の開館から閉館までホームズを読み続けるくらいしかできることもなく、その行動は孤児院時代と何ら変わりない。そうこうしているうちに、自分は何も成長していないのだと思い知らされるような気持ちがして、ついには誰かに会いたくなった。

思いつきのように毛利蘭を誘ったのは、休暇前夜のことだった。いきなりのことだったのに彼女は察したように快く承諾し、今日は久しぶりにふたりきりで毛利探偵事務所の下階にある「喫茶ポアロ」でお茶をしようということになっている。前々からなまえは新一のガールフレンドとして蘭のことは大好きだったが、一年前、ニューヨークで出会った世界的大女優シャロン・ヴィンヤードでさえ、生前、友人関係であった有希子に話して聞かせるくらいには蘭のことを気に入っていたという逸話もあり、その理由も今のなまえには十分に頷けるほどよくわかった。毛利蘭は何の駆け引きもなしに、人の痛みと自然に寄り添うことができる女性だから。……だから、本当にあの推理オタクには勿体ないくらいの天使だと思う。
喉の痛みに耐えかねて、約束の前にドラッグストアに寄った。そこで偶然目についたスティックタイプのレモン味ののど飴に、なまえの視線は釘づけになる。
仕留めるように乱暴なキスの後、沖矢の赤い舌の上に乗っていた半透明の黄色い飴玉。透き通った宝石みたいに見えて、正直、美しいと思ってしまった。なんて。
いつもなら迷わずそれを買っていただろうとは思うものの、それを手に取る気にはなれず、隣に陳列されたただの薄荷味を手に取ってレジへと向かった。蘭との待ち合わせ時間はあと十分に迫っていた。

case15. 「いらない」
「なまえさーん! こっちです!」
遠くから笑顔で駆けてくる蘭に、なまえは安堵するように片手を上げて答えた。事前にメールでやり取りしていた「ふたりきり」という言葉の通り、今日はコナンが一緒ではないらしく一段と安心する。こんな顔を見られたら、あの探偵にはきっと自分が落ち込んでいることが容易にバレてしまうだろうなと気を揉んでいたからだった。
「お待たせしてすみません! 午前中はちょっと園子と会っていたので」
「ううん、こちらこそ。突然誘ってごめんね」
「いえ! 園子、ちょうど予定があったみたいで。なまえさんに会いたいって残念がってました」
「そっか」
女子高生に会いたがってもらえたことが純粋に嬉しくて、なまえは少しはにかんで笑う。しかし、その理由はすぐに蘭が口にした。
「で。なまえさん、沖矢さんとは最近どうなんですか?」
「え?」
「園子からふたりの恋の進展を聞いてこいって言われちゃって! 前に米花百貨店で事件があったとき、沖矢さんにも会ったんですけど『なまえさんを待たせてるから』ってあんまり話せなくて。そのとき、おふたりはデートだったんですよね?」
饒舌に話す蘭になまえはたじたじになった。女子高生という年齢を考えても色恋沙汰に敏感になる気持ちは十分にわかる。だが、今はそれを思い出したくもない。あまりに楽しくて、つらくなるから。
「……なまえさん?」
「あ、えっと。今、ちょっと彼とは喧嘩中で」
「えっ! す、すみません。そんなこと全然知らずに私……」
「ううん。蘭ちゃんが悪いんじゃないし大丈夫。それに、もともと私と彼は別にそういう関係じゃなかったしね」
「そうですか……」
しゅんとした蘭をなだめるように、なまえは頑張ってこの場を取り繕った。瞬間、少し咳き込んで再び蘭に心配そうな顔を向けられる。
「風邪ですか?」
「そうみたい。ただの喉風邪だろうけど、なかなか治りが悪くて」
そう言いながら、なまえは買ったばかりののど飴を口に入れた。蘭はその様子を見ながら思う。風邪にも拘わらず外に出る予定を入れたがっていたのは家にいたくないからで、よっぽど冲矢とはひどい喧嘩なのだな、と。
沖矢となまえの恋を応援していたのは、実は蘭と園子だけではなく、コナンも同じだったと蘭は感じていた。米花百貨店で爆弾騒ぎの後、沖矢と偶然出会ったとき、彼は心配そうに「なまえさんを見かけませんでしたか」と尋ねてきたのだった。あれは相当大切にしていると見えて、あとでコナンと顔を見合わせて「お似合いだね」と話していたことを思い出す。その後、うまく合流できたらしい彼らが手を繋いで帰るところもばっちり見ていたので、その熱愛ぶりにこっちが赤面したくらいだ。だから、当然うまくいっているものだろうと思い込んでいたというのに。
コナンくん、がっかりするだろうな。蘭はそう思いながら、隣を歩くなまえの横顔を見つめた。
普段からしっかり者で冷静沈着ななまえは、昔から人に弱みを見せることはほぼない。なまえを音信不通にしているひどい友人たちがいるらしいという話を新一から悪口混じりで聞いたことはあるが、それでもその人たちを理由にして彼女が泣いたり、弱音を吐いてみせたりすることはなかったとも彼から聞いた。それほど強い彼女を、切れ者の沖矢ならしっかり甘やかして、サポートしてくれると思っていたが。
「蘭ちゃん?」
「えっ」
「あれ、聞いてなかった?」
「あ、ごめんなさい……!」
蘭はそう言って、歩き出しながらなまえの話に意識を集中させた。話題は蘭が昨日メールで話していた「紹介したい人」についてだ。
「で。その毛利探偵の弟子の人が、この後ポアロに来るわけ?」
「いえ。実はその人、探偵事務所の傍に近いからっていう理由でポアロでアルバイトを始められたんです。合間に自分の探偵業もやっているみたいですけど、父の仕事にも今後は見学に来て助手をやるみたいですよ」
「すごいね。ポアロに探偵に助手、三足のわらじか」
なまえはそう言いながら、その弟子なる人物に心の中で悪態をついていた。まあ最後の助手は小五郎の助手と言うより、結果的には新一の助手ということになるのだろうが。にしても、眠りの小五郎の正体を見抜けなくて当然とは言え、なんだかへっぽこそうだなあ、その弟子。
なまえがそんなことを思いながら到着したのは約束の喫茶ポアロ。蘭は先に回って扉を開き、キョロキョロとその弟子がいるかどうか確認しているようだった。
「いらっしゃいませーっ。あ、蘭さん! なまえさんも! お久しぶりです!」
「こんにちは、梓ちゃん。こちらこそ久しぶり」
「梓さん、こんにちは! 今日は安室さんいらっしゃいますか?」
「ええ、裏にいますよ。呼んできます」
そう言いながら、ポアロの看板娘である榎本梓はバックヤードに向けて「安室さーん」と大きな声でその弟子である人物の名を呼んだ。客として来たふたりは適当な席に座り、メニューを広げる。最初からコーヒーと決めていたなまえは何気なくポアロの奥へと続く出入り口に目をかけた。
そこから出てきた人物に、息ができなくなった。
「安室さん! ご指名です!」
「何ですか、それ」
照れながら出てきた「安室」と呼ばれた人物。それはどこからどう見ても、かつての旧友である降谷零。その人だったのだ。
「なまえさん、ご紹介します。彼がこの度、父の弟子になった『安室透』さん」
「はじめまして」
はじめまして。そんな白々しい言葉を自分に向けてくる残酷な人に、なまえは硬直して何も言い返せなかった。ただただ寒くて震えが止まらない。何を思ってこの人は、突然こんなところにいるの。
「で、こちらが東都監察医務院で監察医をやっていらっしゃる……」
「蘭ちゃん!」
とっさになまえは叫ぶように彼女の名を呼ぶと、一際、大きな音を立てて席を立った。周囲の視線が突き刺さるように感じるが構っている暇はない。今は一刻も早く、ここから逃げ出したかった。
「ごめん。やっぱり体調悪いから、帰る」
そう言い残して返事も待たず、なまえは颯爽とポアロから飛び出した。しかし、それを背後から追いかける音が聞こえてきたかと思うと、安室と呼ばれた男が荒々しくその細い腕を掴む。
瞬間、顔を見上げたなまえを窓越しに見て、蘭と梓は驚きのあまり息を飲んだ。あれほど強いと思っていた彼女が、大粒の涙をぼろぼろと流していたからだった。
「……体調が悪いのなら、ポアロで少し休んでいきませんか。何か誤解されているようですし」
安室はなぜか「誤解」という言葉を用いてなまえにそう言った。しかし、彼女はその手を強引に振りほどいて歪む視界で精一杯に彼を睨みつけながらはっきりと答える。
「いらない」
「!」
その、やけに冷えた言い方が鼓膜に貼りついたように耳に残った。安室は再び走り出した彼女の背中を追うことができず、振り払われた手を呆然と見つめている。
彼はそのとき初めて気がついたのだ。その言葉の持つ、本当のつらさを。
「……いらないって言われた方は、こんなにも、傷つくものなんだな」