17...
それは今から数年前。まだなまえがアメリカで学生をしていたとき、一時帰国を機に久しぶりに三人で集まることになった小さな居酒屋にて。
「死んだ人間を見るなんて怖くないのか?」
酒に酔って蕩けた表情を浮かべた諸伏からなまえへ。それはまるで切り込むように繰り出された他愛のない質問だった。確か降谷はちょうどトイレに立っていてその場にはおらず、珍しく彼と狭い個室でふたりきりだったと思う。本当は怖くて泣いてんだろー? とか、さっさと白状しろよな、とか。赤い顔で茶化してくる諸伏に水を勧めながら、とりあえず「泣くほど怖いことは何もない」となまえは心配させないように凛として答えた。
高校生のときから揃って警察官志望だったふたりのサポートになれるのなら、と志願した監察医という職業。正直に言えば、吐き気を催すほどひどい現場に出くわすこともあるだろうし、病気や伝染病などに感染するリスクも十分に高い仕事だ。けれど、当時の自分を必死に突き動かしている原動力は本当に彼らの存在だけだったし、何なら今も、それは同じ。
「怖いときは怖がればいいし、泣きたいときは泣けばいいんだよ。なまえはそういうの、下手なんだから。オレもゼロも、いつだって肩貸してやる」
「……」
「で。本当に死んだ人間なんて見て怖くないんだな?」
結局、そのときはうまく答えられなかったけれど、さまざまな経験を積んだ今のなまえになら、答える自信と覚悟がはっきりと心には生まれていた。
確かに生きている者から見れば死者とは非常に恐ろしい存在だ。この日本という守られた平和な国で、何か事件や事故に巻き込まれた死体が路上に転がっているとすれば間違いなく悲鳴ものだろう。それは「死」を経験した人間がこの世にいないため。人は自分の未経験であることや得体の知れないものを、自然と恐れる傾向にあるから。
でもね、ヒロ。今の私はこう思うよ。
「生きている人間の方がよっぽど恐ろしい」
警察から送致されてきた他殺疑惑のある死体を解剖中に、なまえは立会いの誰にも聞こえないように小さくそう呟いた。人間を一番多く殺している動物は、また同じ人間である。生きている人間だからこそ、心理的にも身体的にも他者を簡単に傷つけ、殺めてしまえるんだから。
解剖室から出て、白衣に着替えを済ませると時刻はすっかり十時を回っていた。沖矢がいるあの家に早く帰るのが嫌で、絶対的に自分を傷つける心配がない死体と対峙する時間が増えている。今も音信不通状態が続く彼らにすがって、縛りつけられている仕事というものを、逆に利用するようで心も痛むけれど、今はそれに逃げるしか道がないのが彼女の正直なところだった。
あとは検案書にサインを書いて提出すれば、仕事は終わり。これから長い夜を持て余すのが憂鬱でなまえは窓を流れる雨垂れを見つめながら、大きなため息をついた。
今日はどこにも行けそうにない。雨でバイクは置いて来たから。
「……くん、工藤くん!」
「あ、はい!」
所長に話しかけられていることに気づかず、なまえはしばらく窓辺で外を眺めながらぼうっと突っ立っていたらしかった。取り繕った笑みを慌てて貼りつけて、自分は元気であるというアピールしようとしたが、もう遅い。肩をポンと叩かれて受けるのは「ボンヤリするな」という、最も気まずい無言の注意……かと思いきや。所長は何やら笑顔を向けて、玄関の方を指さしたのだった。
「おもてに、お客さん来てるけど」
「え?」
「早く行ってあげなさい。彼、君の解剖が終わるまでずっと待っていたみたいだから」
そう言うと、所長はのそのそと歩いて行ってしまった。彼、とは? なまえは怪訝に思いつつ、言われた玄関の方を眺めて仕切りガラス越しに息を飲む。
警察関係者と話をするために設置されたデザイン性の高い円テーブル。そこには、まるで眠るように目を閉じて椅子にもたれかかる金髪の青年がひとり。
降谷零。いや、安室透がそこにはいたのだった。
case17. 安室透という男
あるときは喫茶ポアロのアルバイト。あるときは私立探偵。そして、またあるときは毛利探偵の助手。と、三つの顔を合わせ持つ安室透なる人物は、先日した精一杯の拒否にも懲りず、こんな場所までわざわざ会いに来て、何の用か解剖が終わるまでずっと待っていたということらしかった。これにはさすがのなまえも逃げられず、ガンガンと鳴り始める頭痛を抱えながら彼への対応を心づもりしなければならなくなる。ただでさえ沖矢のことで頭がいっぱいなのに、余計な処理能力を使って頭の中はパンク寸前だった。
でも。そっちがその気なら上等だ。
なまえはそう思い直し奥歯を噛みしめると、その宣戦布告を受け止めるために堂々と白衣のままおもてに出た。すると、気配で気づいたらしい彼はうっすらと目を開け、見知った色の瞳でこちらを捉える。そして、軽く迎え入れるように笑みながら立ち上がると、彼特有の勝気な顔つきに一瞬変わった。が。
上から下まで彼女を観察するように一瞥したかと思えば、ふと何やら考え込み、安室透はまるでナンパ師のそれのようにこんなことをのたまってきたのである。
「白衣姿、素敵ですね」
「は」
「ああ、失礼。子どもの頃、よくしていただいた女医の方をつい思い出してしまいましてね。彼女も常に白衣だったものですから」
実は僕の初恋だったんですよ、と照れたようにそう言う彼に、なまえは相当な違和感を覚えた。当然、あのツンケンした降谷からそんな話を聞いたことはなく、仲のいい諸伏でさえ彼の初恋について言及したことはない。それに、彼女の思っていた降谷の性格と、安室透なる人物の性格はまったく違っているように感じたのである。
なまえはそのとき、はじめてその可能性について思い当たった。もしかしたら、彼らはよく似ているというだけで、実はまったくの別人なのかもしれない、と。
「先日は突然帰られてしまったのですごく気にしていたんです。蘭さんからこちらにお勤めだと聞いて、一度、顔を見に。改めて、僕の名は安室透。これでも、私立探偵をやっています。以後、毛利探偵の周りでお会いすることもあるかと思うのでお見知り置きを」
「あっ、そう……」
「もう退勤の時間ですか? よろしければ僕の車でお送りしますよ」
身構えていた分、彼の発言は全体的に肩すかしのように思えたが、言っている提案はどう考えても気まずいのでその申し出は何としても断りたかった。よく似た人であっても、そうでなくても、降谷と同じ顔をした男とふたりきりになるなんて絶対無理だし、話すことも特にない。それに、もし別人だったとしても、失礼ながら彼といる間中ずっと旧友である「降谷零」を重ねて見てしまいそうで、現に今も、先日のポアロであったように気を抜けば泣きそうになる危うさをなまえは抱えていたからである。
とは言え、今日に限ってバイクは置いて来ているし、こんな時間からどこかへ寄るという嘘もつきにくく、大して断る理由が思いつかない。なまえは家にある頼もしい相棒とも呼ぶべき愛車を一際恋しく思い、乗ってこなかったことを深く後悔しながらとっさの嘘で彼を追い返そうとした。
「すみません。私、バイクがあるので」
そう言うと、安室は不思議そうに首をかしげる。
「あれ? さっき、ここのパーキングでバイクは見かけなかったような。それに蘭さんからの話では、なまえさんはあまりに雨の強い日は安全をとってバイクには乗らず、電車で通勤していると聞いていたんですが」
「えっ」
「残念。今日は、あなたにとって雨の強い日ではなかったようですね」
爽やかな笑みを浮かべてそう言う彼に、なまえはもう逃げきれなくて顔を背けた。蘭のせいではないが、恨みたくなったのは事実。しかし、そうは言ってもどうしようもない。消え入りそうな小さな声で呟くように言い返すのが、今の彼女には精一杯のできることだった。
「……一件、書類を作成するのでここで待っていてもらえますか」
「ええ、いくらでも」
きらきらきらきらきら……そういう擬態語が星混じりに刺さって聞こえてきそうなくらい眩しすぎる笑顔。これが本当にあの降谷だと言うのなら、本気で一回殴りたい。そう思いながら、なまえは辟易する心とともに事務所に戻っていくことにする。
「……あの人、一体、何なの」
ちらりと振り返って背後を見やると、彼はまだこちらを見て「がんばってくださいね」などと呑気に微笑んでいた。厄日かもしれない。そう思いつつ、今は黙ってなまえは仕事に集中することしかできなかった。