18...
彼の車であるマツダのRX-7のカラーはホワイト。雨でも水をよく弾くのは、日頃から洗車やコーティングを怠らない几帳面な習慣の持ち主が所有者であるからだと持ち前の観察力でなまえは推しはかる。彼女もバイクの洗車は欠かさないタイプなので話はいくらでも広げられそうではあったが、後々面倒くさくなりそうで、今はじっと沈黙を貫いていた。
わざわざ傘をさして助手席に回り、ドアを開けようとしてくれた彼を押しのけて、なまえは無愛想に自ら車に乗り込んだ。これ以上の借りは無用。それに「敵の懐に入るのは自分から」が性分だ。安室はそんな様子を見て少しの笑みを浮かべ、雨に濡れながら運転席へと回り込んだ。
雨音が打ちつけている車内で、なまえはまるで作業のように黙々とシートベルトをつけていた。対する安室はかなりの上機嫌らしく、鼻歌交じりにエンジンをかける。瞬間、内装のライトが赤く光り、回転速度計が微増。カーステレオからは粋な古いジャズミュージックが流れ出した、かと思えば、ボタンひとつでステレオが切り替えられBGMは急にロック調に変わる。……別にいいけど、何のために?
まあ、この車は走ることに特化したスポーツタイプ。沖矢や博士、それに父の優作が乗っているようなクラッシックカーではないため、こちらの曲調の方がある意味でお似合いである。なまえはそう思いながら、それよりも乗車時から気になっている微かな匂いに意識を集中させた。芳香剤だろうか。
まるで、レモンの。
「そうだ、お腹は空いていませんか? 遅いですが軽く食事でも?」
余計な詮索を遮るように無言を切り裂いて、彼はなまえにそう言った。なまえはそれに驚きつつ、平淡な常套句で完全拒否をする。
「遠慮します」
「残念。では、お住いはどちらですか?」
「……米花町二丁目、二十一番地です」
「承知しました。それならナビがなくても近くまで行けそうですね」
そう言いながら彼はナビを操作しようとする指先を止めて、代わりにドライブにシフトを入れた。そして、医務院の駐車場から出るや否や、最初から堂々と反対方向へ道を逸れる。なまえが睨むのも厭わないといったような態度で、それが実に癪に障った。そもそも彼が降谷零なら、自分の住所を聞かずともおおよその位置は昔から知っているはずだろう。
「雨の中をドライブというのもまた一興ですね」
「……」
「そう怖い顔しないでください。責任を持って、きちんと家までお送りしますよ。それに、気になる女性と長く一緒にいたいと思うのは、男としては当然の性ですからね」
おだててそんなことを言われたって、ときめくはずもないのに。
それからずっと安室は他愛ない雑談をしていたが、なまえは相槌を打つばかりで、自分から会話を広げるということをあえてしなかった。滲むようにネオンが光る街の夜景を目に映しながら、頭の中では、以前、沖矢にしたレモンパイの話を思い出している。
あれは、高校一年の秋。降谷が自分に「嫌いだ」と言ってきたレモンパイ。その理由が諸伏への嫉妬で、彼自身がなまえのことを好きだったからわざと気を引くためにそう言ったのだと、沖矢はそう推理した。もしそれが本当だとすれば、そのときにはっきり言って欲しかったとなまえは思う。恋人になることは考えられなかっただろうけれど、諸伏も巻き込んで、何か友人として彼の気持ちに寄り添うことができたに違いない。そうすれば、きっと。自分と彼らはもっと深く繋がって、音信不通になんてならなかった。そんな気がするのだ。
安室透に言えるような甘くて素直な言葉が、もし降谷零にも言えたのなら。きっと自分の世界は変わっていたのに。
「東都タワーが雨の水滴で滲んで見えますね」
いつの間にかそんな場所まで車を飛ばしていたらしく、安室はそう言って、赤く照らされたタワーを指さした。零時の消灯を恋人と一緒に見ると幸せになれるそうですよ、というジンクスを楽しげに話し、少し路肩に寄せて車を停める。どうやら消灯までここにいるつもりらしい。恋人でもないし、幸せの正体もわからないふたりで。
なまえはそこでようやく押し黙っていた口を開いた。
「安室さんにひとつ聞いてもよろしいですか」
「何でしょう?」
「この前、あなたが口走った『誤解』って何ですか?」
なまえはなるべく顔を見せないように、首を背けてじっと窓の向こうに視線を投げていた。
『……体調が悪いのなら、ポアロで少し休んでいきませんか。何か誤解しているようですし』
あのときの言葉が、なまえにはずっと引っかかっていた。むしろ、あの発言があったからこそ、今も彼を降谷零だとして強く疑っている自分がいる。
さあ、今こそはっきり言ってよ。まだ間に合うから。自分の本当の名前は降谷零で、あのとき「誤解」という単語を使ったのは、それを偽るためにとっさに出た言葉なんだって。今まで音信不通にしてごめんねって。ヒロのことも詳しく教えてよ。そしたら、全部、許してあげるから。
安室は黙り、しばらく考え込む。そして、再び作ったその表情は本心がバレてしまうくらい切なげに笑っていたものの、あえて顔を背けていたなまえには届かない。
「そんなこと、言いましたっけ?」
「え……?」
「すみません、はっきりとした覚えがなくて。何しろあのときはあなたが心配で、必死で追いかけていたもので。それに、僕の顔を見た瞬間に顔色が変わったような気がしたものですから、誰かと勘違いをしているのかなとは思ったんです。もし僕が本当にそう言ったのだとしたら、そういう意味だったのだと思いますよ」
車内は再び深い沈黙を帯びた。雨脚は次第に強くなり、号泣に近い天候へと変わる。奇しくも心情を表すように。
なまえは自分の気持ちが踏みにじられたような気がしていた。でも、そう思うことすら彼には失礼なのかもしれない。安室透という人は、自分が思っていた降谷零ではなく、あくまでも別の人なのだから。
パッと消えた東都タワーの照明で、日付が変わったことをふたりは知った。辺りは普段通りの闇を取り戻し、なまえは静かに彼に伝える。
「……もういい」
「……」
「もう、いいです。早く、帰してください」
饒舌に話しかけていた彼も、それから工藤邸に到着するまでは一切、話かけてくることはなかった。
最低な出来事は立て続けに起こる。シンデレラタイムはとっくに過ぎていたというのに、今日はまだ工藤邸のリビングの明かりがついていたのだった。それを見たなまえは内心、今度は沖矢かと頭を抱える。正直、もう彼を相手にする体力が今の自分には残っていない。
停車した車からわざわざ降りて、安室はなまえに傘を差し出した。しかし、それを軽く拒否して、なまえはわざと雨に濡れる。見かねた彼に余裕はなく、とっさに彼女の細い腕を強く引いた。軽く顔が当たった彼の胸から、甘い匂いがする。
懐かしくて甘酸っぱい、青春を思い出させる、あてつけのようなレモンの匂い。
「つまらない思いをさせてしまい、すみません。ですが、またいつでもポアロにいらしてください。僕はもっとあなたと話がしたいので」
その声には必死さがあったので、なまえは残った愛想で小さく頷いた。けれど正直、もう二度と、その顔を見たくはないと思っていた。
case18. 今なら全部許してあげる
家に入る前に涙を止めようと思った。でもそれは不可能だった。明かりがついていることから沖矢がリビングにいることはわかっていたので、泣きたくはなかったけれど、雨にまぎれてごまかしてしまえることを期待した。
靴もバッグも適当に投げ捨てて、玄関で倒れこむようにその場に座り込んだ。表情筋が疲れ果てていて、心の細胞をどんどん壊していく。もう一歩も動けそうにない。誰から見ても、常に強い自分でいたかっただけなのに。
あの車に乗ると決意したとき、本当は少し期待していたのだ。彼から「自分こそ降谷零である」と言ってもらえる気がして。
馬鹿みたいだ。そんな都合のいいこと、起こるわけがないのに。
「なまえさん?」
玄関で動けずにしゃがみ込んでいると、音を聞いて様子を見に来たらしい沖矢がすぐさま心配して駆け寄ってくれた。そしてなまえのただならぬ様子に驚き、見られなくない顔を強引に覗き込まれる。泣いているとバレるのが恥ずかしくてとっさに顔を背けたが、彼の大きな手で包み込まれて逃してはくれなかった。
「どうしたんですか、そんなに泣いて」
そっちこそ、どうしてよ。今、優しくしないで欲しいのに、どうしてそんなにいつも通りでいられるの。無視して、ひどいことしてるんだから、私になんか優しくしなくていいよ。本当は、ずるいくらい甘えたくて仕方がない、ただの弱い女なんだから。
そう思った瞬間、ついに決壊するように大粒の涙がこぼれ落ちていった。もう隠せない。そう観念して、しゃがんでくれた沖矢の肩に自分の頭を預ける。「俺もゼロも、いつだって肩貸してやる」。そう言ってくれた彼らはもう傍にいない。
まるで小さな子どもみたいに、必死で泣きじゃくりながらなまえは沖矢に言った。
「昴くん……お願い」
「え?」
「ぎゅってして、少しでいいからっ……」
無表情で心を尖らせているのはもう無理だった。本当はこうして泣いてみたかったのだ。
生まれたときから、ずっと。