19...


 彼女の家の前でエンジンを切って、車の中で静かに、穿つように降る雨音を聞いていた。安室透こと降谷零は、ハンドルを抱え込むように額を預け、狂おしいほどなまえを想ってうなだれる。

 ポアロに彼女が来たのは、自分が想定していたタイミングよりずっと早かった。だからこちらにもまだ余裕ができていなくて、とっさに追いかけて「誤解」などという言葉を迂闊に使ってしまったのだった。彼女が察しのいい性格であることは重々、承知だったのに。

 それがひとつめのミス。ふたつめは、些細ながらも今日。

 毛利蘭から聞いていたなまえの勤務情報を元に降谷は仕事終わりの彼女をしばらく尾行し、雨の強い日にはバイクに乗らないという彼女なりの法則を見つけていた。だからわざわざ荒天の日を待って、東都監察医務院まで「安室透」として迎えに出たのである。まあ、それは彼女に近づくためと言うよりも、何かに取り憑かれたように虚ろな目をして一心不乱に働く彼女が、少々心配でもあったからだが。

 だがともかく、今日はその前の段階で。ベルモットがとあるミッションで政治家のパーティに潜入したいからと運転手役を命じられてしまい、そこへ向かう道中、彼女が聞いていた古いジャズのCDをそのままにしてしまっていたのだった。そこから何かを感づかれるということは可能性として低いだろうが、なまえと車に乗った際、無意識的に組織との関わりを忘れるために音楽を変えてしまったのは少し不審がられたかもしれない。

 そして、最後が一番ひどい。それはある意味、根本的な問題で。降谷には、彼女の笑わせ方が到底わからないということだった。

 六年経って、改めてそう思った。降谷零と同じ顔をして、親友だった諸伏のように優しい性格の別人になりすませば、一から関係を再構築できるとそう思って近づくことを決心した。もちろん最優先すべきは、毛利小五郎とその周辺人物を探るという考えで間違いなかったが、自分が再び彼女の前に現れても許されるに違いないと、期待していたこともまた事実だった。

 簡単に笑ってくれるかと思っていた自分を殴りたくなるほど、その考えは浅はか過ぎた。そういえば、もともと自分は彼女を笑わせるというよりも泣かせる方が得意で。いつもその度に諸伏が彼女を笑わせて、自分たちの関係のバランスを絶妙に取っていたように思う。

 今となっては、ひとりが欠けてしまったその関係には、もう戻れないというのに。

 ただ、あの子を手に入れたいと思うことがこんなにも難しいことなのか。せっかく毛利小五郎に近づけることができて、手の届く範囲にいることができるようになったのに、今さらそんなの絶対に諦められるわけないだろ。降谷はそう思い、唇を噛み締めて拳を握る。

 続くのは雨音と静寂。


「好きだ」


 高校時代に素直にそれが言えたら、今、何かが変わっていたのだろうか。

 ため息とともに、降谷は車のエンジンを再びかけた。そして、明かりがついている工藤邸を眺め、中にいるであろう人物に嫉妬する。

 なまえの恋人についてはまだ調査中。何しろ彼は、意図的か無意識か、なかなか尻尾を見せない厄介な相手だったからだ。



case19. 雨音と静寂


「昴くん……お願い」
「え?」
「ぎゅってして、少しでいいからっ……」

 自分でもそんなことを言うのはずるいことだとなまえにはわかっていた。あの一件からずっと無視をし続けている相手に対して、彼がそんなことをしてくれるはずがないということも頭ではわかっている。いくらなんでも都合がよすぎだ、と。しかし、今の彼女にはどうしても耐えきれなかった。ひとりで抱える荷物の許容量を、はるかに超えてしまっていたからだ。

 彼女の願いに、沖矢は頬に添えて涙をぬぐっていた手を止めた。そして、悟られないほどわずかなためらいの後、そのまま髪を梳くように後頭部を抑えて自分の胸に優しく招き入れる。それからしばらく壊れ物のようになまえを穏やかに抱きしめて、けれど決して離しはしなかった。


「なまえさん」
「……」
「泣きたいときは遠慮なく泣いていいんですよ」


 遠慮なく、泣いて。その一言に思わず旧友がくれた言葉が蘇る。「泣きたいときは泣けばいい。お前はそういうの、下手なんだから」と、諸伏が言ってくれたあの台詞。それが沖矢がくれたものと合わさって、会いたくて、恋しくて。でも叶わなくて。今はその胸にしがみついて、はしたなくも大声をあげて泣いた。

 沖矢から発せられた言葉はそれ以外になく、彼は終始無言のままなまえを抱きしめていた。その優しさが、からからに乾いた今の自分の身に染み入るみたいに傷を癒していく。誰かに遠慮する必要なんてないくせに、今まで我慢して泣けなかった自分。心を固くして、耐えていた自分。そんな自分を少しだけ、愛してあげてもいいと思えた。

 彼からふわりと香るのは先日のレモン味ののど飴からは一変して、苦い煙草の匂いだった。嫌いなはずなのに深く吸い込むと落ち着いて。その香りのおかげかなまえは子どもみたいにひと泣きして冷静になると、顔は見られないように背けたまま沖矢の胸を軽く押す。


「ありがとう、昴くん。私、もう大丈」


 夫、と言い切らないうちに彼は何を思ったか急になまえを放置して立ち上がった。そしてそそくさとリビングに引き返し、出てこない。これにはなまえも意味がわからず、ただ無視していたことが自分に返って来たのだろうと思うばかりで、自業自得を呪わざるを得なかった。

 だが、沖矢は帰って来たのだ。ソファに置いていたクッションと、工藤邸にある中で一番大きくて暖かなブランケットを持って。


「せっかく治った風邪が、お互い、ぶり返すといけないでしょう?」


 そう言うと、彼は「冷えるとよくないから」とお尻の下にクッションを敷かせ、なまえにブランケットをかけた。そして何を思ったか一緒にそこに入り、今度は抱きしめる代わりに甘く手を繋ぐ。それはいつかと同じ恋人つなぎで、なまえはその暖かい手を恥ずかしく思いながらも、彼が見せるいつもどおりの優しい笑顔に安堵した。


「今日はずっとあなたの傍にいますよ。ここでうずくまってしまうほど疲れているのでしょうから」
「理由、聞かないの」
「はい。言いたければ別ですけど」


 僕もいろいろと明かしてませんしね。沖矢は困ったようにそう言うと、なまえはようやく自然に笑えた。それもそうだ。お互い、隠し事ばかり。でも、それはおあいこで、別にもともと大した問題ではなかったのかもしれない。


「ふふ」
「おかしいですか?」
「ううん。昴くん、ありがとう。今までずっと無視してごめんね」
「いえ、そんなに気にしていませんよ」


 そんなに、ってことは多少は気にしていたのかな。そう思うと、なまえはまた少し笑ってしまった。

 よく泣いたせいか、目の周りはじんじんとして炎症のように熱を持っていた。このまま寝ると腫れるだろうなあとはぼんやり思いながらも、なんだか安心したら急に眠気が来てしまう。それもそうだ、ここ最近、ろくに眠っていない。なまえは甘えついでに沖矢の肩に頭を預け、ゆっくりと目を閉じる。


「ごめん。ちょっと、寝る」
「どうぞ。おやすみなさい」
「ありがと……」


 それきり。なまえは物言わず、そこで無防備に眠り続けた。よっぽど疲れていたのだろう。沖矢はそのあどけなく寝息を立てる横顔に微笑み、起こさないようにそっと親指で涙痕をなぞる。そうすれば、不思議と愛おしい気持ちが増していく。もう引き返すことができないほど、気づけば彼女にのめり込んでいた。

 はっきり言って、沖矢はこの家で「再び」彼女と会ったときからなまえに惹かれてしまう予兆のようなものを感じていた。さすがはあの工藤新一の姉。信頼できる人物であるということは一緒に暮らすうちに十分すぎるほどよくわかったし、きっと自分が詐称している身分を明かす日も近いだろう。そうなれば、もう、誰にも我慢しない。

 この生活を始める際。そして、こんな変装をする由縁となった彼女の母である工藤有希子に言われたことを沖矢はぼんやりと思い返していた。東洋の魔術師として名高いマジシャン・黒羽盗一に変装技術の弟子入りをしていたという彼女がその技術を自分に伝授している間中、沖矢は終始、有希子から冗談か本気かよくわからないことを言われていたのである。

『あなたみたいなイケメンの息子が欲しいわぁ! もし今のアパートから老朽化か何かで追い出されて、博士の家も断られたら、なまえちゃんと一緒に住んでさっさと口説いちゃいなさいね! あの子、恋愛に免疫ないから押せ押せで大丈夫よんっ!』

 それを聞いたときはさすがにあの少年と失笑したものの、今となってはそう思ってもらって光栄だ。好きな女の親に応援されている立場なのだから、そんな未来も悪くない。

 しかし、そのとき。なまえの口が微かに動く。


「零……」


 寝言とは言え、知らない名を切なげに呼んでいる姿が面白くなくて、沖矢はわずかに苛立ちを覚えながら預けられた彼女の頭に自分のを寄せた。

 独占欲を全開にしてでも、彼女は絶対に自分のものにしたい。彼女を泣かせるすべての枷を、取り払って守りたい。以前、自分が乱暴に口づけた甘い唇に視線を送りながら、沖矢はそう思う。ただ、一番の不安は。


「まずいな。このままだと、俺の方が持たない」


 最大の強敵は、実は自分の理性なのかもしれないな、と。失笑しながらそう呟いた独り言は、当然、なまえには届かない。

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