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長時間立ちっぱなしで常に神経を張り詰めながらの解剖作業にはさすがに疲れ、首を回したり伸ばしたり叩いたりしながら事務所に戻り、自分のデスクに着席する。それから退勤前にやろうと残してあった書類制作の仕事に勤しむため、ちかちかする目をこすってパソコンのスリープ状態を解除した。執刀前に淹れてすっかり冷めきってしまっていたコーヒーを口に含み、なまえは自分なりに今日最後の気合いを入れる。
東都監察医務院は都内中の不審死体を一挙すべてに引き受けて解剖するための施設だ。一日にして平均六体ほどの解剖を担当医師にそれぞれ割り振り、事件が起これば警察から緊急要請が入ることもしばしば。それ以外にも裁判所に提出するための証拠書類を作成したり、時には自ら証人として出廷しなくてはならない場合もある。医師とは言え、基本的には公務員扱いなので給与は普通の勤務医と比べると少ないし、凄惨な死体に耐えきれず辞めていく者は医師、職員問わず少なくない。
その中でもなまえは最年少で、しかも施設内唯一の女性であったが、それでも彼女自身すでに二十代最後の歳を迎えているし、さすがに若い頃と比べると疲労もたまりやすくなっていることは事実だった。それに一週間前の休日は弟の友人である少年探偵団の子ども達と遊んでしまったこともあって、身体的にはあまり休めなかったことも思い出す。それから、新一にも。
せっかく呼び出したにも関わらず「赤井秀一」の話を最後まで問い詰めることができなかった。もう少しで問題解決だったというのに。悔しくてつい、邪魔をしにきた沖矢の顔を浮かべて悪態をつきたくなる。でもなんだかんだ言って、結局は心を許している沖矢だったからこそ許してしまったのかもしれない。
今日はなるべく早く切り上げてさっさと帰ろう。明日は休みだし、たまには食事を用意してくれる昴くんと、お揃いのプレートで一緒にご飯が食べたい。なまえはそう思い、無心でキーボードを叩き、入力作業をこなしていく。
しかし、こういうときに限って鳴るのが医務院の電話なのだ。
「はい。東都監察医務院です」
出たのは所長で、なまえはつい癖のようにピタッと手を止めて電話の内容に耳を傾けた。はい、はい、と短く相槌を打ちながらメモを取っている様子から、どうやらどこかで事件があったらしいと察する。見上げた時計の時間を睨みつけながら思うのは、残念ながら、また今日も日付がかわってしまうかもしれないということ。
受話器をおいた所長に視線を向けて、なまえは尋ねた。
「警察からですか?」
「ああ。拳銃自殺した身元不明の若い男性。不審な点が多いからこっちに回す判断らしい。場所は米花町五丁目、毛利探偵事務所のトイレ内」
「毛利探偵事務所……?」
「ああそういえば、工藤くんは毛利探偵と知り合いだったか」
所長はそう言って、誰に当該の死体を任せるか考えあぐねているようだった。なまえはさっきまで思っていた帰宅願望をすっ飛ばし、自ら大きく挙手する。
「私が解剖します」
「いや。工藤くん、今日はもう終わりだろう。送致までまだ時間もかかるみたいだし、君に無理させたくない。それより、毛利探偵と知り合いなら早く連絡してあげなさい。確かあそこには娘さんと小さなボウヤがいたろ。不安がってるんじゃないか?」
「……そうですね、わかりました」
珍しく、言い負かされてしまった。なまえはそう思いながら、使っていたパソコンで軽くその事件について調べてみる。情報社会の恩恵を感じざるを得ないくらい、記事はすぐにヒットした。
毛利探偵事務所で男性が拳銃自殺。事務所内に人が不在のときを見計らって男が侵入し、依頼予約を取っていた女性を人質にとってトイレに籠城、か。動機はその依頼人が調べてもらうために持っていたコインロッカーの鍵を奪いたかったからで、追い詰められた末に逃げられないと判断して自殺した、ということらしい。けど、もし新一が傍にいたとしたら、犯人を追い詰めて自殺に追い込むなんて真似、するのかな。以前、何かの事件で犯人を追い詰めて自殺されたとき「犯人を推理で追いつめて自殺させるような探偵は、殺人者と変わりねえよ」って、精神的に相当参っていたように思ったけど。
その点だけを懐疑的に思いながら記事を読んでいると、所長が咳払いをして声をかけて来る。
「工藤くん、書類!」
「あ、はい!」
やば。すっかり忘れてた。

case21. 探偵達の夜想曲-第1番-
あれから早々に書類を書き上げると急いで退勤作業を終え、インカムをつけながら愛車のタイガーに飛び乗った。このインカムは博士作の特注で、ハンズフリーで操作が可能。移動中に電話を取りこぼすこともなければ、スマートフォンの画面を一切操作せずにあらかじめ登録しておいた名前を呼ぶだけで発信もできる。何かあったときのために発信機機能もつけろ、としつこく言ってきた新一の注文もバッチリ叶え、彼の持つ追跡メガネでこちらの走行を追うこともできるらしい。改めて、あの阿笠博士という人物は天才であると思う。
ヘルメットを装着し、エンジンを吹かす。新一と蘭にはそれぞれ、さきほどからインカムを操作して電話をしているが、聞こえるのは回線を繋ごうとしている音だけでふたりとも応答はない。事件が起こった後というだけに心配になり、なまえは不安を吹き飛ばすようにアクセルを大きく開ける。新一が電話に出ないのはしょっちゅうだが、蘭まで出ないとなるとさすがにおかしい。それに、犯人は拳銃自殺しただけのはずじゃなかったのだろうか。
「ったく、どうしたって言うの……?」
とりあえず、探偵事務所の方を経由して帰ろう。そう思ってバイクを飛ばしていた矢先の数分後、今度はけたたましく着信を伝える音が鳴った。
きっと蘭か、新一だろう。そう思い、胸元に取りつけたボタンを押して電話を取れば、耳元から思わぬ人物の声が聞こえてくる。
「お疲れ様です、なまえさん。沖矢ですが」
「昴くん! ねえ、毛利探偵事務所で事件があったって聞いたんだけどコナンくんも蘭ちゃんも電話に出なくて。昴くん、何か知らない?」
「そのことで僕も電話をしました。今、博士の家に行くと、コナンくんがその犯人に誘拐されたかもしれないと聞いて……」
「誘拐!?」
その単語に思わず反応して、路肩へ停めるために急ブレーキをかける。そして、すぐにでも博士か灰原から追跡メガネで位置を教えてもらった場所へバイクで直行しようと、四方八方どこにでも迎えられる心づもりをした。
だが、耳元の彼はそれを冷静に静止する。
「なまえさん、どうかここは落ち着いて。あなたが焦って事故を起こしては元も子も」
「わかってるけど!」
「博士のビートルは修理中なので僕の車で発信機つきのコナンくんの探偵バッジを追跡することになりました。今、ガレージで準備をしているところなのですが、なまえさんはあとどのくらいでこちらに到着できそうですか?」
「車よりバイクの方が早いから! 位置がわかったら連絡して!」
「駄目です」
それはどうも年上の先生のような口調で、なまえは思わず言葉を詰めて聞こえないように舌打ちしてしまう。
「冷静に考えてください。犯人はコナンくんを連れて車で移動している可能性もあります。その場合、逐一、あなたへ連絡をするのははっきり言ってタイムロス。両者とも集中力を欠き、共倒れがオチです。それに、あなたには目の届く場所にいてもらわないと、バイクを過信しすぎて無茶をしないか僕が不安です。ここは我々と合流し、僕の車で追いましょう」
正論で説得されたなまえは渋々といった具合に彼に頷いた。そして今一度、冷静になるために大きくため息をつく。
「わかった。飛ばして帰るから絶対待ってて」
「了解」
そう言って切れた電話をスタートの合図に、なまえは再びエンジンを吹かす。にしても、バイクを過信しすぎって、そりゃするでしょ。馬力もあって小回りも効く、最高の相棒なんだから。

一方、電話を切った後の沖矢は安堵したようにため息をつき、車に乗り込む。そしてなまえ同様エンジンをかけて、いつも通りガレージから出庫させた。
愛車のスバル360を阿笠邸の前で停車させ、博士と灰原が来るまでに考えるのはやはりなまえのことだった。どんな危険があるかわからないので本当は連れて行きたくはなかったが、コナンの危機とあっては彼女が大人しく家で待てるとは思えない。それなら、同行させて傍に置いておく方が数倍マシだと判断したのである。
今日の東京は晴れ。月光が神々しく降り注ぐ神秘的な夜。まるで夜想曲でも聴きたくなるほどの美しい夜だが、こんな日はもっと他に何かが起こりそうな気配がした。例えば、この先長い付き合いとなる「宿敵」に出会えるような。
沖矢はそんな予感に期待して口角を上げると、阿笠邸の扉が開くのを視界の端で捉えた。
「すまんのう、昴くん。それで、なまえくんは」
「……博士はその子と後ろへ。もうすぐ到着する彼女は僕の隣に乗せますよ」
そう言った瞬間、一台のバイクが全速力で路地に入って近づいて来る。なまえのホワイトタイガーだ。連絡をしてからでは考えられないほど異例のスピードだったが、彼女は構っていられないといった具合にすでにヘルメットを脱いでいた。
「ごめん、お待たせ! バイク置いて来る!」
そう言って、なまえが帰ることを見越して沖矢が開けっ放しにしていた工藤邸の鉄扉の中に消えていった。灰原はそれを目線で追いながら苦笑いをして言う。
「道交法、大丈夫かしら……」
「まあ、少々多めに見てやるかのう……」
そんな素敵で、ミステリアスな夜想曲の始まり。