26...


 翌朝。部屋で例のワンピースに着替えたなまえは、昨晩、博士の家でもそうしたように鏡の前でくるりと一周し、自分の格好が変ではないかを改めて確認した。素足では露出が高すぎるので黒のタイツ。それに合わせるのはバイクの日には履けないストラップつきのヒールにしようと、頭の中で算段を練る。今日は夕方から激しい雨。安室とのデートになる可能性が高いということは誠に遺憾であるが、服一枚でこんなにも楽しい気分になるものかと年甲斐もなくうきうきしてしまっていた。

 顔を洗うために鼻歌まじりで下階へ降り、それが終わると朝の至福であるコーヒーを飲むためにダイニングへと向かう。そこには、早朝であったにも拘わらず既に沖矢が起きていて、優雅なブレックファースト・コーヒーをひとりで楽しんでいたのである。


「おはよう、昴くん」
「おはようございます、なまえさん。今日は一段と素敵ですね」
「えへへ、ありがと」
「どこかへお出かけですか?」
「うーん、たぶん。だからお夕飯はいいよ。たまには大学院の友達とかと一緒に食べてね」
「それは構いませんが」


 そう言うと、沖矢はなまえの格好を遠くから訝しげに眺める。そして、何かを思いついたように短い声をあげると、カップを置いて立ち上がった。


「ちょっと待っていてください」
「え?」


 そんな微妙な反応とともに取り残され、当然ながらなまえは一抹の不安に駆られた。首を傾げていたということはもしかして、この格好のどこかがおかしかったのだろうか。腰を左右にひねったり、腕を伸ばして袖口を見たりしてみるも、よくわからない。背中のタグなら取ったはず。

 仕方ないので自分用にコーヒーを淹れて待っていると、沖矢は手に何かを持ってダイニングへと帰って来た。

 それは昔、母の有希子が好んでつけていたシルバーのペンダントだった。まるで相手の気持ちを伺うようにトップには控えめなハートのモチーフが傾き気味についていて、シンプルながらもとても可愛らしいデザインになっている。確か結婚記念日にと優作から贈られて、アメリカに行く前に失くしてしまったと嘆いていた。それを沖矢は、以前、蘭と部屋を掃除していたときに偶然見つけたのだと言い、なまえに微笑む。


「首元が寂しそうでしたので。どうぞ、後ろを向いてください」
「あ、はい……」


 なまえは適当に髪を束ねて左肩にかけるように流すと、沖矢に対して従順に背を向ける。そして気持ち首を下げた。途端、分厚くて体温の高い手が首筋に触れる。

 一方の沖矢の方も状況的にはなかなかクるものがあって、自分から申し出たものの理性との戦いだった。好きな女の、特に普段は見ることができない白いうなじ。その陶器のように透き通った肌と、緋色のワンピースがなんとも扇情的で、まるでこちらを誘っているようでもある。「沖矢昴」という架空の紳士的な仮面がなければ、今すぐここで彼女を組み敷いて、どこにも行けなくなるくらい抱き潰していることだろう。

 だが、彼女が「それ」を選んだのだ。今は、尊重して行かせてやろう。

 ……ただ、黙って見送るわけはないが。


「ほら、素敵です」


 改めて、沖矢はなまえを前に向かせると、彼女の髪を整え直しながらそう言った。なまえは少し照れながら、指先でそのペンダントトップについたハートをつまむ。


「あ、ありがとう……」
「どこへ誰と出かけるのかはあえて聞きませんが、そのネックレスを見る度に、僕が家で待っていることを必ず思い出してくださいね」


 沖矢はそう言うと、コーヒーを飲み干してリビングから出て行った。なまえは改めて、ガラスに反射して映る自分の姿と、ペンダントを見比べてみる。彼なりの、まるでまじないのような思惑にはまったく気づかないが、あった方が数倍素敵に見えて、それだけで余計に楽しい気分になってしまったのだった。



case26. 狼の胃の中で泣いたって構わない


 その日の仕事は普段よりもずっと穏やか。緊急を要するような案件もなく、六時にはすべての業務に片がつく。その頃にはもう東京中は激しい雨に見舞われており、なまえはその雨音を聞きながら緊張した面持ちで退勤準備を済ませていた。

 縦型タイプの、細長い更衣室のロッカー。その開き戸の裏には、高校のとき三人で撮った文化祭での写真が一枚だけ貼ってある。普段通りの元気いっぱいな笑顔を見せる諸伏。エプロン姿で照れ笑いを浮かべているなまえ。それに、文化祭準備で怪我をしてしまったため口元に絆創膏を貼っている、無愛想な降谷。なまえは指先でその写真をなぞり、胸が痛くなるほど彼らを恋しく思った。そしてそれを打ち消すように、今度はその上に取りつけられている小さな長方形状の鏡に視線を向け直す。

 鏡に映る、少し大人になった硬い表情の自分と目が合って。お気に入りのワンピースと、沖矢がつけてくれたネックレスを眺めて「どうか勇気を貸してください」と強く強く祈った。

 きっと、今頃、いる。医務院の玄関ホール付近にある円テーブルで。前と同じく、椅子にもたれるように眠って。


「よしっ」


 そう言って、鏡の中の自分に微笑み、なまえは勢いよくロッカーを閉めた。そして安室透と対峙するために、そこへと向かったのだった。

 結論から言えば、やはり彼はそこにいた。透き通るように美しい金の髪を空調の風に揺らし、椅子にもたれかかるように目を閉じて。そして少し近づくだけでめざといくらいのスピードで目を開けて、こちらに視線を投げかけるのだ。

 けれど、唯一前回と違ったのは、彼が少し驚いたような表情をしていたこと。


「こんばんは。やっぱりいましたね」


 なまえがそう言うと、安室は口元を隠して一、二度咳払いをする。


「こんばんは。今日はまた、一段と、その……」
「勘違いしないでください」
「え?」
「別にあなたとのデートが楽しみで着てきたわけじゃなくて、昨日届いたばかりだから早く着てみたかっただけです。バイクの日は着れないし。本当にそれだけですから」


 淡々とそう言うと、しばらくは面を食らったかのように安室の動きが止まり、そして急にぷはっと吹き出す。なまえにはそれが予想外だった。言わなければならないと思ったことを、はっきりと言ったまでなのに。

 けれど、その笑みですら、苦しくなるくらい降谷と似ている。


「なっ、何がおかしいんですか!」
「いえ。でも、そんな風に釈明する方が逆に怪しくなる場合もあるので注意してくださいね。僕は信じてあげますけど」
「当たり前です! それ以外に他意なんて!」
「わかりました。それ以上言うと、深読みして期待してしまいそうです」


 すると、彼は立ち上がり、強引になまえの手を握る。それも、以前、沖矢と経験した「恋人つなぎ」なるもので、その表情はこちらが眩しくなるくらいの満面の笑みだ。


「あ、ちょっと!」
「いいじゃないですか、それに」
「?」
「さっきは言い損ねましたが、今日は一段と綺麗で、本気でドキドキしてしまいましたよ」


 安室はそう言って、車に乗り込むまで手を離してくれなかった。




 あの事件で、あんなにめちゃくちゃに大破したはずの車はすっかり元通り。つい、新車買ったんですか? といらぬ質問を投げかけてしまったぐらいで、その復元力に脅かされる。いえ修理で、と平然と返された否定の言葉に、まるで同じ車種のパーツを臓器みたいに移植したようだと職業病のような色気のないことを考えてしまった。

 今日は最初からロック調の音楽が車内には流れ、安室はそれに合わせてやはり鼻歌をうたいながらシフトレバーをドライブに入れる。そして、激しく打つ雨音を縫うように、少し大きめの声で話しかけてきた。


「お腹は空いていますか?」
「いえ。今日はお昼が遅かったので、そんなに」
「じゃあ、先に目的地へ向かいましょう」


 目的地って。そう尋ねる前に、新車同然のRX-7は駐車場を出た。やはり家とは反対方向に曲がるので、なまえはもう何も聞くまいと黙り込む。

 ただ、窓ガラス映った自分の表情は、前回よりも明るい。

 雨に降られながらではあるが、車は安全なスピードで海を目指しているようだった。水滴のひとつひとつに景色が映って、世界を閉じ込めるみたいにきらきら輝いて見える。雨脚は次第に弱まりつつあり、この不思議なデートを彩る舞台道具の一部となっていくようだった。

 終始、機嫌よさそうに運転をする彼は、前回のようにひとりよがりな会話が一切なかった。それが逆に心地よくて、なまえはついに折れるように自分から質問を繰り出す。


「……安室さんって今おいくつなんですか?」


 しかしその質問は、彼女自身、最初から「二十九」という答えを無意識に期待していた。


「僕ですか? 二十九ですけど、なまえさんは?」
「やっぱり。私も、同じ」
「へえ! じゃあ、いっそタメ口で話してみるのも悪くないかな」
「え? た、タメ口は……ちょっと」
「どうして?」


 どうして、と。そんな甘い顔をして懇願されるように言われても困る。そもそも降谷ならもっと強引に「いいだろ、別に。お前もそうしろ、わかったな」……と、ばりばりのジャイアニズムを発揮した台詞をかましてくるはずなのに。それに、タメ口だとそれこそ本当に降谷と話していると脳が錯覚して、早々に気疲れを起こしてしまいそうだ。先にこちらが参ってしまうのが目に見えている。

 そんなことを考えていたなまえは人知れず頭を抱えながら、いやいやと頭の中で否定した。もはや、こうして考えていることすら馬鹿馬鹿しい。しかも、どうやら気にしているのはこちらだけのようだし。

 隠していることがもう煩わしくなってきて、簡単にではあるが、安室に打ち明けることにいっそ賭けてみることにした。もちろん疑惑も含めて、だが。


「……実は私、あなたとそっくりな友達がいて、その人とあなたを重ねて見てしまってるんです。というより、今もまだ疑っています。本当にあなたがその人じゃないのか」
「……」
「あなた、本当は誰なんですか?」


 赤信号。安室は停止線できっちりと車を停める。そしてしばらく何も言わないままで黙っていたが、青になる少し前に口を開いた。


「僕は」
「……」
「僕、ひとりですよ。安室透という、ただのひとりの男」


 どうかこれからは、そうやって見てはいただけませんか? と、またも彼は甘い顔をして。でも今度は少し悲しげにも見えた。その表情になまえは弱い。

 沖矢の言う通り、彼がなまえを食べるつもりの嘘つきな「狼」かもしれないのに。彼を信じたくなってしまっている自分がいる。むしろ、そう信じることの方が自分の心が痛まなくて、つい楽な方に考えを寄せてしまうのだ。まるで逃げのように。

 けど、もう逃げたっていいよ。最後は狼の胃の中で泣いたって構わない。なまえはそんなことを思いながら神妙に彼の名を呼んだ。


「安室さん」
「はい」
「やっぱり、タメ口でもいいですよ」
「え?」


 なまえは彼に言葉を続ける。降谷零にではなく、安室透に。


「決心がつきました。私、あなたのこと『彼』とは違う人だと思って接するようにします。今まで散々な態度をとってごめんなさい」
「なまえさん……」
「でも、裏切ったときは……」


 安室は一瞬、息を飲んだ。横顔を見た彼女の目には大粒の涙が、今にもこぼれ落ちそうなほど溜まっている。

 それを美しいと、とっさに思ってしまった。


「裏切ったときは……泣いちゃう、かも」


 今すぐにでもその涙をすくって、思い切りきつく抱きしめたい。そんな衝動に駆られながらも、裏切りを続けることを選んでしまったずるい彼には、そんなことできるはずもない。

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