28...
ふたりは終始無言のまま東都水族館から出ると、ひとまずはなまえの要望通り、一刻も早くここから離れるために再び安室の車に乗り込んだ。機嫌の悪い彼はひたすら沈黙を貫き通すつもりらしく、何も言ってはくれないが、どうやら今度は元来た道を辿って米花町の方へと向かっているらしい。なまえは横目で安室の顔色を伺ってみるものの、その表情はいつまでも険しかった。
きっと大人しく最後までクラゲの展示を見ずに、しかも彼を巻き込んで逃げるように水族館を出たせいだ。なまえはそう思い、自分を責めた。そして罪悪感に駆られながら、自分も本当は最後まで見ていたかったと後悔する。星団を掌握するように、いつまでもあの場にいたかった。そんな儚い夢を乗せて、車は揺れる。
「安室さん、あの」
「……」
意を決して話しかけてみたものの、今の彼に話ができるような余裕はないらしく、なんだか気持ちまでしょげてきた。なまえは助手席でしゅんとしながらお気に入りの緋色のワンピースの裾を握る。せっかく楽しいと思っていたのにな、と。
その様子にようやく気がついた安室の方も次第に頭に上っていた血が下りてきて、完全に決まりが悪くなってしまっていた。このままではまた高校時代の二の舞だと急に焦り出し、なんとか彼女の慰め方を思案する。けれど、結局何も思いつかなくて、自分の触れたい欲求のまま不器用に彼女の頬に手を伸ばした。
大きなその手はまるで指先から愛を伝えるように優しくなまえの頬をひと撫ですると、離れ際、名残惜しそうにその細い髪を指に絡めてハンドルへ帰っていく。そして、顔も見ずにこう言うのだ。
「すみません。少し僕らしくなかったですね」
「あ、いえ。こちらが悪いので」
「……」
「クラゲ、見たかったんですよね……?」
首を傾げてそう尋ねる彼女に、安室はむせそうになるくらい愛しさが沸いた。そうじゃない。そうじゃないけど、もうそれでいいか。そう思えてしまえるほど完全に心が癒されてしまう。やっぱり、昔から反則すぎるだろ、この女。
「……そうですね」
「え?」
「見たかったクラゲが見られなかったので、また今度、東都水族館のリニューアル工事が終わったらまた一緒に来てください」
それで許してあげますよ。安室のその一言に、なまえはふっと笑って了承した。案外、可愛らしいことを言う人だなと見直したのだった。
しかし彼女は、それが不器用すぎる安室なりの再デートの口実だということには気づかない。
case28. いつまでも離れない死神を抱えて
時間も遅く、居酒屋というのも車があっては選びにくいため、安室となまえは相談して幹線道路沿いにある二十四時間営業のファミリーレストランに車を停めた。確かに少々色気はないが、今のふたりの距離感的にはちょうどいい選択肢であるとお互い思えたのである。
時刻は九時半。夕食には遅いので、軽食にと選んだのはサラダとスープ。それからロースハムのサンドウィッチ。飲み物は何にするか、なまえが迷っていたときに安室が先に注文を出した。
「僕はレモンスカッシュを」
「えっ」
「ん?」
「あ、いや……私も、それを……」
ラミネート加工が施されたメニューに、小さいながらも注文したレモンスカッシュの写真が載っている。レモンイエローの炭酸飲料に浮かぶ、対照的なさくらんぼの赤。昔ながらの懐かしいメニューを、安室が頼んだのは偶然だと思いたい。
そういえば、この前、彼からはほのかにレモンの匂いがした。今日、車に乗るときは何も感じなかったことを考えると、やはり芳香剤ではない。そして、ある程度密着した水族館の中でその匂いがしなかったことも踏まえれば、今日は完全にその匂いを彼は身にまとっていないらしい。なまえはそれを思い出し、好奇心から思い切ってそのことを彼に尋ねてみる。
「安室さんって、そういえばこの前は香水つけてませんでしたか? 今日はつけてないんですね」
要領を得ない突然の質問に首を傾げながら、安室は笑って否定した。
「いや、この前も今日もつけてないですけど」
「うーん、だとしたら……」
なまえはその答えから少し考え込み、得意の推理でひとつの仮説を彼に繰り出す。
「この前、私を医務院に迎えに来る前に誰かを車に乗せたでしょう? たぶん女の人かな。ああ、絶対そう。だから音楽もとっさにジャズからロックに変えたんですね。そう考えると辻褄が合う」
「!」
「きっとその人の香水かな。安室さんにレモンみたいな匂いが移っていたような。違いますか?」
顔には出さないものの、安室はかなり動揺していた。昔から、その洞察力には度々驚かされていたが、まさか匂いでベルモットを乗せたことに気づいたなんて。
……いや、違う。そうじゃない。
安室はとっさに、あの日のことを思い出す。政治家のパーティに潜入していたベルモットが香水をつけていたことは、標的に近づくための小道具としては普通だし、その匂いまで運転手役の自分はいちいち気にも止めていない。かと言って、その香りがこちらに移るほど彼女に近づいてもいないはずだった。そもそもあの日は土砂降りで、匂いはかなり飛びやすかったはず。なら。
ベルモットが何らかの目的で、わざとその匂いを自分に振りかけて残したのだとしたら。しかも、それがなまえを意味する「レモン」のメッセージを込めて、あえて選んでいたとしたら。まだ自分をノックだと完全に疑われていないにしても、組織の手が彼女にも及ぶ可能性があるということを示唆され、先手を打たれたのかもしれない。
そのことに気づいたとき、あまりのショックで言葉も出なかった。自分の周りでまた人が死ぬのか。松田や伊達、萩原。それに、ヒロ。なまえにまで置いていかれたら、僕は。いつまでも離れない死神を抱えて、もうどう生きればいいのかわからない。
「安室さん?」
「え……?」
「顔色、悪いですけど」
心配そうにそう言うなまえは、いつのまにか来ていたらしいレモンスカッシュのストローをくわえていた。安室はひとまず考えを持ち直し、今、この瞬間に意識をそそぐ。考えていても仕方がない。後でベルモット本人に電話して、直接問いただすしかないだろう。
一方のなまえはというと、そんなに女性といたことを言い当てられたのかショックだったのかなあ、と訝しげに思いながら、なんだかやけにむっとした。おそらく彼が私立探偵としての仕事をしているときに女性の依頼者でも乗せたのだろうと思っただけなのに、そこまで言葉に詰まるかと思うとかなり怪しい。とはいえ、自分には関係ないことなので別にどうでもいいが。
「……いえ、あなたのその鋭い推理に驚いていたんですよ。確かに乗せました、女性をひとり。探偵の仕事としての依頼人をね」
「やっぱり。そうだと思った」
なまえは拍子抜けしたようにそう言うと急に興味を失くし、綺麗に並べられたサンドウィッチにぱくついた。安室はとりあえず、なんとか推理力の高い彼女を騙せたことに胸を撫で下ろし、逆に余裕を見せつけるために別の話題を彼女に振る。
「じゃあ、僕も。なまえさんにひとつ聞いてもいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「……あなたと一緒に住んでいるという男性のことですが」
そう言うと、なまえはパッと顔を明るくして「ああ、昴くんね」と笑った。やっぱり胸糞が悪くなるので聞かない方がよかったかも知れないが、それ以上に、そんなに彼女が信頼を置いている男の正体を知りたいと思ってしまうのが、やはり探り屋の性分である。
安室ははらわたが煮え繰り返るような想いを抑えながら、あえてのオウム返しのごとく「その昴くんですが」と話を続ける。
「この前の事情聴取で、彼はあなたと同棲しているって言ってたみたいですけど」
「んな馬鹿な……彼の住んでいたアパートが火事で燃えたので、居候として住まわせて欲しいって頼まれてルームシェアを……。あの家、空き部屋が多いので」
「なるほど。じゃあ、キスは?」
「あ、あれは別に。ただの事故みたいなもので」
「事故?」
「そう。それに、この歳でファーストキスでもあるまいし」
「え?」
「え?」
思わぬなまえの告白に、安室は硬直した。そして二、三度目をぱちぱちさせて、心の中で呟く。それがファーストキスじゃ、ないのか?
「高校生のときに一回だけ。恥ずかしくて、しばらく相手の顔見れなかったなあ」
なまえが赤面しながら目を伏せて恥ずかしそうに回顧する姿を見て、安室の開いた口は塞がらなかった。高校生のときということは、自分と彼女が友人関係にあったときだ。しかも、その自分に記憶がないということは、答えは自ずとはじき出される。
当然思い出すのは、もうひとりの親友の、明るい笑顔。
「……あいつには、さすがに勝てないよ」
「え?」
「何でもない」
安室はまるで何か吹っ切れたかのように、目の前の食事を平らげていった。とりあえず、これから彼女を送っていって、別れたらベルモットに電話しよう。沖矢といういけ好かない男のことも、当然ながら調査は続行だ。そう決め込んで。
なまえも同じように食事を進めたが、直前していた話の内容的に目の前の安室を直視することはどうしてもできそうになかった。静かに、黙々と、無言を埋めるように料理を口に運び、爽やかなレモンスカッシュで流し込んでいく。サンドウィッチは正直、もそもそしてあまり美味しくなかった。
「そろそろ行きましょうか」
ひと通り食事を終えた後、安室はスマートに伝票をとって颯爽と席を立った。なまえは焦って、すぐに「ここの代金は自分が」ととっさに彼の背を追ったが、それはもう間に合わない。
最後に彼はくるりと振り返り、茶目っ気たっぷりな「安室透」らしい表情でこんなことをのたまったのだ。
「また今度は近いうちにポアロまで僕の作ったサンドウィッチを食べに来てください。ここのよりずっと美味しいハムサンドをご馳走しますよ、なまえさん?」