29...


 文化祭準備に追われ、ざわざわとした独特の雰囲気を持つ校舎内。工藤なまえは自分のクラスである喫茶店の顔。教室の扉の装飾を、訳あってその日は担当していた。なまえのクラスでは女子生徒がメイド服、男子生徒が執事風の格好をするということになっているが、当日の彼女の仕事は完全に中。つまり、裏で盛りつけ等の準備をするだけということが既に決まっていて、今のところメイドの格好をして客に給仕する予定はない。

 だが、そんな聞きかじりの情報しか持っていなかったこの男は、なまえのクラスがやる内容を知るや否や、自分のクラスの準備そっちのけですっ飛んで来たのである。


「絶対、駄目だ」
「え?」


 上履きを脱ぎ、椅子の上に立って作業をしていたなまえは見下げるように、仁王立ちを決める仏頂面の彼を見た。降谷零。通称、なまえ専用警備会社。……もちろんそう呼んでいるのは、彼らのもうひとりの親友である諸伏だけである。


「メイドの格好だなんて何考えてんだよ、お前のクラス。そんなのよく担任の許可出たな」
「でも、数年前もあったって聞いたけど」


 なまえはそう返しながら、洋館風に描かれた段ボールパネルを貼りつける作業に没頭していた。確か、同じクラスの女子の姉の代で、同じような企画をやって大盛況だったらしい。売り上げが出れば焼肉が食べられるというので、男子たちは俄然やる気だったように思う。ただなまえ本人は、焼肉やら何やらはどうでもよく、何事もなくこの行事が無事に済むように自分の任務を遂行するだけである。

 しかし、そうは問屋が下ろさないのがこの降谷零という男。彼女のそっけない反応にいっそう語気を強めて、まるで言いがかりにような反対意見をくどくどと述べ始める。


「精々クラスでお揃いのサムいTシャツでも作って、それ着て売ればいいだろ。別にわざわざメイド服まで用意しなくても」
「前のときに使った衣装も残ってたし、女子たちはすごく嬉しそうだったよ?」
「とにかく、駄目だ!」


 耳にタコができるくらい降谷に怒られ慣れているなまえは困った顔をしながら、正直、またか、と思う。爪先立ちして、天井との境目にテープを貼っていく指先が伸び切って震えた。

 こういうときは、大体、ヒロが助けにきてくれるんだけどな。そう思いながら、降谷には申し訳ないことになまえは諸伏の到着を恋しく思った。けれど、こういう行事については何かとやる気に燃てしまう彼。その人一倍の熱量を先生に買われ、今年はついに実行委員長を任されているらしい。故になまえはこの状況をどうするか考え、そしていつもの作戦を実行する。

 忍法「右から左」である。


「大体、なまえがメイド服なんて着たらまずいだろ、いろいろ。それに他の男にその姿を見られるのも最高に嫌だし、変に好意を持たれてストーカーなんてできたりしたら困るし。まあ、そのときはどんな手段を使ってでも僕が守るけど、常に見張って傍にいられるわけでもないし。そもそも僕以外の人間に『ご主人様』だなんてもし言ってみろ、そいつ絶対にブチ殺す自信しかない……って聞いてるのか!」
「あ、ごめん。全然、聞いてない」


 本気で聞いていなかったなまえは一度しゃがんで足元のガムテープを取ると、再び作業に集中した。降谷は思わず苛ついて、チッと舌打ちをする。

 にしても。こんな作業、普通は男子がやりそうなものだと、降谷は健気に働く彼女の姿を眺めながらそう思った。どう考えても身長的に不利だし、比較的大きな段ボールを頭より上にあげて、それを押さえつけながら貼りつける作業なんて誰が見ても女子向きじゃない。

 その不自然さから、降谷は問いただす。またこいつ、無理してる。そう思いながら。


「なまえ。それ、お前の仕事じゃないだろ」
「え?」
「誰だよ。僕が言ってやる」


 担当の名前言え、とぶっきらぼうに言う彼に、なまえはいいよと首を振った。そして、すぐ傍の廊下で準備に飽きた男子生徒たちが三名、ホウキとボールで野球をしている様子をちらりと眺める。さっきからそこで楽しそうに笑い合って遊んでいるのが、本来この仕事の担当者であった。だが、なまえは彼らの楽しいひと時を邪魔したくない。たとえ、それが自分の不利益につながったとしても。


「……あいつか」


 すると、目ざとく降谷は気づいたらしく、彼らの傍にずんずんと寄っていこうとする。なまえはとっさにしゃがんで、降谷のシャツを握った。


「零、本当にいいから。そっちの準備もあるでしょ? もう戻って」
「でも」
「彼ら三人いるでしょ。だから、見てたらなんだか私たちとかぶっちゃって。楽しそうな場面を崩しちゃうのも悪いから、青春の思い出として残してあげよう? 今日くらい」


 お人好しだ。そう思い、降谷は納得できないままふてくされる。けれど、まあ、彼女が笑顔で言うならそれも許そう。自分の作業を早めに切り上げて、また手伝いに来てやればいい。

 降谷はそう思うと、はあ、と大げさなため息をついた。なまえはその様子を見て無邪気に笑うと、再び立ち上がり作業に戻ってしまう。その表情が実は降谷は一番好きだ。だが、とりあえず自分は彼女にこれだけは言っておかねばならない。


「ともかく。メイド服は着るなよ、わかったな」
「ああ、それなら……」
「うおっ! やべえ!」
「え?」


 叫び声のする方へ向こうとすれば、急になまえの背に何かが衝突する。そしてそのまま大きくバランスを崩し、降谷のいる方向へと体が傾いたのだった。

 考える間もなく、降谷は彼女を支えようとした。しかし、あまりにとっさのことで落下点を見誤り、ふたりは顔を激痛とともに衝突させる。そして支えられなかったなまえはリノリウムの床材に激しく頭を打ち、そのまま気を失ってしまったのだった。

 廊下には彼らが投げたボールと、ぽたぽたと垂れる血が残る。



case29. ファーストキス


 次になまえが目を開けたとき、微かな薬品の匂いと、やわらかくて軽い布団が自分にかけられているということに気がついた。そこには心配そうにこちらを見つめる諸伏の姿があり、なまえの意識が戻ったことをたいそう嬉しそうに喜んで、破顔の表情を浮かべる。


「なまえ! 大丈夫か?」
「ヒロ……零は?」
「あいつならちょっと怪我しただけだよ、体はピンピンしてる」


 そう言うと上腕を押さえてまるでガッツポーズを作った。ピンピンしている、という彼なりのジェスチャーなのだろう。

 でも、怪我ってどこを。そう思い、なまえは尋ねたかったけれど、ぼやぼやした自分の意識よりも諸伏の次の言葉の方が早かった。


「なまえをここに運んで絆創膏一枚貼ったら、ひとりで敵討ちに行ったよ。今頃半殺しかなあ」
「ううう、恐ろしい……」
「相当怒ってたからな……もはや警備会社としての職務だろ、あれ」


 乾いた笑いを見せる諸伏に、なまえも苦笑いで返した。そして「俺も加勢しに行きたかったけど、なまえを見てろってゼロに言われてさ」と悔しそうに言う諸伏に、いいよ、と短く伝える。文化祭実行委員長が喧嘩はまずいだろうし、それに降谷なら大丈夫だ。たぶん。


「なまえは脳震盪らしいぞ。でも頭だから大事をとって、今日はもう帰って病院行けってことになってる」
「そっか。わかった」


 その後、しばらく諸伏がいろいろ心配して話しかけてくれることに相槌を打っていると、十分くらい経った頃であっただろうか。制服のシャツをぽたぽたと血に染めた降谷がやってきて、なまえが眠っているベッドのカーテンを強引に開けた。


「おー、ゼロ。どうだった?」
「どうもこうも。それより、なまえ大丈夫か」
「大丈夫大丈夫! ちょっと前に起きたとこ。な?」


 諸伏がなまえの代わりに返事をすると、降谷はつんと口を尖らせる。その口には控えめに絆創膏が一枚貼ってあったが、最もひどい怪我の患部である唇にはさすがにテープが貼れなかったらしく、血は止まっているものの赤く腫れている。制服についた血も、どうやらそれが原因らしい。

 一瞬、喧嘩のせいかと思いそうになったが、心当たりがあったなまえにはすぐにそれが違うとわかった。そして一気に自分の顔が熱くなっていくのがわかる。あれは、もしかして。


「零、その傷……」
「ああ、これか。お前に比べたら、別に大したことないさ。たぶん支えるときに、なまえの頭かどっかに当たったんだろ」
「なまえ、石頭っぽいもんな!」


 がはは、と豪快に笑う諸伏にさらに赤面するなまえ。降谷はそれを見て、石頭と言われたことがそんなに恥ずかしかったのかとつい笑ってしまったが、本当は違った。

 なまえは気づいていたのだ。それが自分の頭なんかのせいではないということを。


「カバン取ってきてやるから休んでろ。脱走するなよ」
「じゃあ、オレは委員会に戻るよ。ゼロ、あと頼む」
「ん」


 ふたりは仲よくそこで話し、一旦は揃って保健室を出ていった。なまえはひとりになったそのベットで、腰を追って布団の中に潜る。


「……ファーストキスだ」


 彼女は自分の唇に残った感触を確かめるようにそこに触れる。きっと衝撃のせいで歯に当たって彼の唇は切れてしまったのだろうが、それが彼女にとっての、初めてのキスに違いなかった。

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