30...
なまえを工藤邸まで送って行った後、安室は歯止めの効かない焦りを抱えたまま興奮気味に電話を取った。そして、頭の中にある嫌な予感を一刻も早く払拭したくてあの女にコールをする。
画面に表示された名前はベルモット。彼女は最近、特に安室ことバーボンとともに行動することが多い組織側の人間で、しかし、いくら一緒にいる時間を積み重ねたところでいつまで経ってもその考えを読めない謎多き女である。
勿体つけるようなコールは三回。回線が繋がったと同時にくぐもったような声が聞こえてきて、そこが浴室であることはすぐに察せられた。
「ハーイ、バーボン? How are you?」
「随分と機嫌がいいですね。飲酒しながら風呂ですか?」
「ええ。で、何? 今日は特に何も」
「単刀直入に聞きます。先日、僕に香水を振りましたね」
そう言うと彼女は一呼吸置き、そしていきなり破裂するような大声で安室のことを嘲笑った。その笑い声は、自分の考えていた最悪の可能性が事実であることを物語っており、安室は悔しさでぎりぎりと奥歯を噛み締めることしかできない。
「珍しいこともあるものね。犬のように鼻の効くあなたが今頃になって気づいたの?」
「どうして。何のために」
「別に? あなたが仔猫ちゃんとデートみたいだったから、ただの餞別よ。わざわざニューヨークから取り寄せた甲斐あって『素敵な香り』だったでしょう?」
素敵な香り。その表現にひやりと背中が寒くなった。やはり、ベルモットはなまえのことを知っていて、そして彼女を表す「レモン」の香水を安室にかけた。それが何を意味しているかなんて聞かなくてもわかる。
彼女もまた組織の弾丸が届く域に入ってしまったのだ。彼らがいつでも始末できるように。
「……工藤なまえをご存知なんですね」
「ええ。でも安心して。あなたをからかう以外に香水をかけたことに大した意味はないの。それに、私はあの子に手を出さないから」
「なぜ?」
「理由なんてどうでもいいじゃない? ねえ、それよりもバーボン」
ねっとりとした悩ましげな口調で、彼女は口を開く。
「もうあの子と寝た?」
「……は?」
「早くしないとあのときみたいに盗られちゃうわよ。精々、頑張って。じゃ」
「あ、ちょっ、待て!」
ブツリと乱暴に回線が切れる音。それから訪れた静寂に混じるように、さきほどのベルモットの高笑いが鼓膜にこびりついて離れない。安室はそれを断ち切るために、苛立ちながら携帯電話を投げた。
その目つきは完全に「狼」の目である。
あのときって、どのときだよ。何を見たんだ、あの女は。混乱と苛立ちで頭を掻きむしる安室の脳裏に駆け巡っていくのは、高校時代から音信不通になるまでの一緒にいた九年間。コマ送りになった彼女との思い出。キスも、デートも、同棲も、添い寝も。その笑顔を作ることでさえ、全部自分とは初めてじゃないことなんて最初から知っている。いつも二番手で、誰かに盗られてばかりで。でも。
背後にいる死神を殺してでも、僕は彼女を守り抜く。その想いだけは誰にも負けない。
「絶対になまえだけは死なせない」
安室はそう固く誓い、工藤邸の前からアクセルを踏み込んで車を発進させた。そして雨上がりで濡れた街を縫うように猛スピードで疾走し、噛みしめるほど幸せだったなまえとの甘いデートの余韻に浸る暇もなく再び仕事のために本庁へと帰るのだった。
一方のベルモット。バーボンとの電話を切った後は、再び高級ホテルの一室にて夜景を眺めながら優雅なバスタイムを楽しむことにする。血のように赤くて一際甘いアイスワインを口に運びながら考えるのは、ほんの一年前のこと。
「ホント。早くしないと盗られちゃうわよ。……あのときの、私みたいにね」
工藤なまえと初めて出会った、あのニューヨークでの事件のことだった。
case30. シャロン・ヴィンヤードとNY事件
ブロードウエイのファントムシアター。時刻はサマータイムになったばかりの午後六時半。なまえは数日前から宿泊先として厄介になっているニューヨーカーの友人に借りた黒いレース地のワンピースを着て、指定された劇場の前で待っていた。丁度その女スパイのような格好がいかにも怪しげに見えるらしく、何名かの客に今日出演予定の舞台俳優かと尋ねられ、若干、嫌気が差してきたところである。
『あの大人気の舞台『ゴールデンアップル』のチケットが手に入ったのよ! 開演前に来れば楽屋を覗かせてくれるらしいから、なまえちゃんもそのつもりでね!』
そう言われてせっかくの大学の同級生との再会パーティを断ってまでやって来たというのに、言った本人がまだ来ないんだから。そう呆れつつも、しかし、それが母・工藤有希子なる人物であるがために仕方がないと娘のなまえは怒りを腹を据えた。こんなことになるのなら、ロス行きの飛行機に乗った新一たちも最初から自分と同便でニューヨークに来ればよかったのに。
何度も腕時計で時刻を確認しながら大きくため息をついていると、目を伏せた視界の端に、女性もののパンプスが足を止めたのが映る。
「あら? あなた、有希子の娘じゃない?」
「え?」
ニューヨークにいれば滅多に聞くことのない日本語でそう尋ねられ、なまえはとっさに顔を上げた。そこには片手でサングラスを外し、妖艶に微笑むあの世界的大女優シャロン・ヴィンヤードがいて、驚きのあまり思わず声をあげそうになる。
すると大女優は優雅に微笑みながら、シィ、と唇の前で一本指を立てた。なまえは息ごと、声を止める。
「写真で見たことあるわ、あなたの顔」
「え、ええ。工藤なまえです……」
「やっぱりそう。ねえ。今から私とちょっと面白いことに付き合わない?」
「え?」
「あなたなら細身のスーツで大丈夫そうね」
そう言うと、彼女はサングラスを再びかけて、行きましょうと声をかけてくる。そしてなまえは言われるがまま、初対面であるシャロンに身を任せることになってしまったのであった。
シャロンがとある思惑を胸に秘め変装することになったラディッシュ・レッドウッド警部。なまえはその部下として光栄ながら彼女に直々に変装技術を施してもらい、ニューヨーク市警の交通警察を見事騙して、爆走してきた有希子のスピード違反の罰金を免れることに一役買うことになったのである。それはもう終始スペクタクルなひとときで、なまえは演劇を見る前から筆舌尽くしがたい思いで既に心が満ちてしまっていた。周囲にいた客たちにシャロンが「これは映画の撮影よ」とうそぶいたものの、なまえ自身がそれをしっかりと受け止めきれていない状況である。
それに。まったくもって夢のような話だが、シャロンは変装に使う服を選んでいるときからずっとなまえに対して、終始、女優の顔というよりも、まるで母親のような顔をして娘を甘やかすような会話を続けてくれたのだった。それがなまえには嬉しくてつい骨抜きにされてしまい、すっかり彼女の大ファンになってしまっていたのである。
「随分、シャロンに気に入られたんだな」
事前にしていた楽屋を覗かせてくれるという約束の通り、そこへ向かう通路の途中。そう声をかけてきたのは、今も日本で一緒に暮らしている弟の新一だった。なまえは少し笑みながら得意げに言葉を返す。
「ええ。娘のクリスと私が同じ歳だからなんだって。最初は成り行きだったけどなんだか思ったよりも話が盛り上がっちゃって」
「へえ」
「娘とスパイになった気分よ、って笑ってたわ。さっきはあんなこと言ってたけど、本当はシャロン、クリスのことそんなに憎んでいないと思う」
「……」
あんなこと、とはシャロンがクリスと絶縁状態にあるという話のことを指していた。きっと血が繋がっているからこその齟齬もあるのだろう。なまえはひとり、そう合点する。孤児である自分にはうまくわからない部分もあるだろうが、少なくとも引き取ってもらった有希子や優作に対して血の繋がりの有無を気にするのはもうずっと前にやめていた。だから、シャロンの気持ちにも自分から寄り添えるような気がしたのだ。
しかし、その話を聞いてもなお、新一は納得がいかず、颯爽と先頭を歩くシャロンの背中を懐疑的に見つめていた。なら、さっきの蘭に対する異様な冷たさは一体何だったのだろう。有名人であるシャロンに出会えたことを「神様に感謝しなきゃ!」と言った蘭の何気ない言葉に突っかかってきたわりに、神を信じているなまえのことは終始気にかけて優しく接していたようだし。なまえと違って、蘭と娘のクリスがひと回りほど歳が離れているからその理論が通用しないとでも言うのか。はたまた、ただの女優の気まぐれか。
考えてもわからなかったので、新一は別の話題を姉に振ることにした。こちらに来てアメリカの新聞に目を通してから、ずっとなまえに聞きたいと思って気にかけていたことである。
「話変わっけど。なまえさ、確か医学生時代に射撃場で長髪の日系人男性に会ったって言ってなかったか?」
「そういえばそんなことあったかも。それが?」
「そいつ、今こっちで騒ぎになってる若い女を狙った通り魔なんじゃねえかと思って。新聞に載ってた外見の特徴となまえが言ってた特徴が一致するし。射撃場で会ったっつーのも、なんか怪しいしな」
あと日系人はいてもなかなか長髪の男はいねえだろ? 新一にそう同意を求められ、なまえは一旦、考える。医学生時代、確かに友人と射撃にはまっていたなまえは一度そこで日系人の男に会った。しかし、会ったのはその一度きりであったため、記憶の中の印象としては既にかなり薄いものとなっている。
けれど、微かに思い出されるその記憶の中では新一が言うような怪しい人物ではなかったような気がした。彼の目には、かつての旧友たちと同じく信念のような「正義」があると思ったからだった。
「うーん。正直、もうあんまりよく覚えてないけどそんな風には見えなかったな」
「本当かよ」
「まあ筋がいいって褒められたから、銃の扱いに慣れてる人だった可能性は高いかもしれない」
「ほら見ろ。通り魔はサイレンサーつきの銃を持って、このニューヨークの街を逃げ回っているらしいぜ。……今日オメーが泊まる友達のアパート、ここから本当に近いのか? 舞台が終わったら大人しく俺たちと一緒に母さんのジャガーに乗れよ?」
「ええ。276馬力もあるイギリス生まれのじゃじゃ馬なお嬢様なら、私も興味あるから乗ってみたいしね」
母のジャガーをそう揶揄して冗談を言っているうちに、楽屋前に到着した。この時はまだ、何も知らない。この後起こる事件も。そしてシャロンがなまえを気にかけていた本当の思惑も。