32...


 午後八時。関係者たちだけが抱える一抹の不安をよそに、いわくつきの『ゴールデンアップル』は定刻通り穏やかな開演を迎えた。

 なまえ、有希子、蘭、新一の順で中段の中程という見やすい座席に腰掛け、一同は静かに観劇の体制に入る。もともとシャロンが座るはずだったなまえの左手側。その空席を観劇中も時折意識して、なまえはこの後の大女優との約束に胸を弾ませていた。ステーキはさておき、シャロンと食べる好物のレモンケーキが純粋に楽しみだった。

 物語は中盤も過ぎ、クライマックス前の一番の見せ場。豪華絢爛な舞踏会のシーンを目の当たりにすると、嫌が応にも客の口からは感嘆の声が漏れた。ここまでくれば舞台はまさに芸術の域にまで達しており、このスケールはなかなかブロードウエイでないと体験できない迫力がある。ゆったりと流れるクラッシックミュージックになまえは無意識的に指先でリズムをとりながら、その美しい物語にすっかり入り込んでいた。

 蘭も有希子もその気持ちは同じであるようだったが、唯一違うのはやはり新一。ふたつ席を飛ばしても聞こえてくるほどの大あくびをかまし、蘭に軽く注意をされている。どうやらあの推理オタクは、こんなにも素敵な舞台に対して「ギリシア神話をアレンジした単なるラブコメ」という認識しかないようで、少しは芸術を楽しむ余裕も探偵として培えばいいのにと、姉としてつい心の中で毒づいてしまう。

 そしてまったく同じことを思ったらしい有希子は、つまらなさそうにする新一に対して、いたずらっぽい笑みでこんなことを言った。


「でも、あの冴えない貧乏貴族の正体見たら、びっくりするわよ」
「え?」


 貧乏貴族とはあのヒースの役柄のことだった。物語が神話の通りなら、この後、彼がローズ扮するアフロディーテを選び、そしてトロイア戦争が引き起こされるのである。

 だが、彼の正体は。


「見よ、哀れな人間たちよ! 我が名はミカエル!」


 そう言って、先ほど女優たちが大切にしていた鏡に映し出されたのは羽根の生えた天使姿のヒース。彼は貧乏貴族を語って彼女らに近づき、醜く争う四人の女たちに対してこれから厳しい審判を下すのだと言う。

 この展開は驚きというよりもさすがのなまえも若干興ざめのような嘘くささを感じてしまったのだが、舞台全体が隠れるほどのスモークがどこからともなく湧き出ると、その鏡の中からヒースが登場するかのような演出自体はとても素敵だと思った。四人の女優たちがそれぞれ思わぬ天使の登場に呆然とし、効果音は一気にのぼりつめるように荘厳になる。

 しかし事件は、客たちが一旦、煙によって視野を奪われている最中に起こった。一瞬、演出の一部かと思われた赤いレーザーサイトのような光が、不自然にも一筋だけ舞台の中へと伸び始め、そして、大音量で鳴る効果音に混じって不可解な音が聞こえてくる。それが何の音かは、会場のこもった反響板ですぐには気づけない。


「なっ、なに!?」


 それがわかったのはスモークが引き始めてからだった。天使として天井へ吊り上げられていくヒースの体が徐々に明らかになるにつれて、ついに事件の全体像が露わになる。

 胸から激しく血を流し、うな垂れるように死んだヒースの死体が、まるで磔刑に処されるかのように舞台上に吊り上げられたのだった。

 さすがに客たちも演出ではないと見て、次々に悲鳴をあげて席を立った。有希子はとっさに「私たちも、避難した方がよさそうね」と言うが、そんなことを素直に聞ける工藤姉弟ではない。


「母さん、蘭を頼む! なまえは舞台の関係者に、彼を降ろすように伝えて死体の状態を確認してあとで報告してくれ!」
「わかった!」
「ちょっと、新ちゃん! なまえちゃん!」


 心配そうな有希子の声も虚しく、新一はレーザーサイトが伸びていた二階のテラス席へ。なまえはヒースが吊られた舞台へと、それぞれ飛び出して各自捜査を始めたのであった。



case32. 「神を呪ったことはある?」



 到着したニューヨーク市警のラディッシュ警部は現場を一瞥し、ヒース・ハートフロックの死体に向かって大きなため息をついた。家で自分の帰りを待っている妻がもしこの現場を見たら失神するだろうと残念に思う。なぜなら彼の妻はこの俳優の大ファンだったからだ。


「撃たれたのがまさかヒースだとはな」


 そうひとりごちる彼に、今しがた一通り検死を終えたばかりのなまえが仕事モードに切り替えた冷淡な表情で傍に立つ。


「亡くなったのは舞台役者のヒース・ハートフロック氏。弾丸は見事なくらい心臓を貫通して、彼が身につけている背中の羽根の仕掛けに食い込んでいたわ。狙撃されたのは銃弾の入射角から察するに、傾斜四十度程度の位置。他に気になる点といえば、首元に火傷のような痕があることと、右手にかすれた血がついていることだけど……彼の衣装には胸元以外に血はついていないようだし、撃たれた後に彼がどこに触ったかは調査の必要がありそうね。衣装を脱がせてまで見てはいないからその他の傷はわからないけれど、死因は銃殺で明らかだから解剖の必要性はないってとこかしら」
「き、君は……?」
「彼女は日本で監察医をやっている私の娘、工藤なまえよ、ラディッシュ警部!」


 そう言って客席の方から颯爽と歩いてきたのは闇の男爵夫人こと工藤有希子。普段あまり見ることはない娘の仕事ぶりに感動しつつ、そしてその娘の功績に鼻を高くしての登場である。先ほどシャロンが変装していた彼と瓜ふたつの、本物のラディッシュは驚きで目を丸くし、そして有希子との再会を喜んだ。


「有希子じゃないか! どうして君がここに?」
「たまたま観に来ていたのよ。まさか、ミュージカルがミステリーになるとは思わなかったけどね」


 有希子とラディッシュが話をしている間に、なまえは現地の検死官に今話した通りの状況を報告をした。もちろんこのことは先ほど新一にも共有済みの事実であり、死因や詳細についての間違いはほぼないだろう。ただ、気になるのはやはり火傷の跡と、右手のかすれた血か。

 なまえはつい焦り気味に、腕時計で時間を確認した。十時半というシャロンとの待ち合わせの時間が、刻一刻と差し迫っている。真相は気になるが、自分の仕事はこれで終わったし、彼女との秘密の約束を思うと解明できるまでここにいることは叶わないだろう。


「なまえ、どうした?」
「え?」
「もしかして、友達とのパーティ遅れちまうんじゃねえのか? 時間ばっか気にしてるし」


 そう言ってきたのは、捜査のために舞台上をうろうろと見て回っていた新一だった。さすがは洞察力の高い彼。パーティというのは見当違いだが、時間を気にしているという点では当たっている。いや、むしろ今は見当違いをしてくれていた方が都合がよかった。なまえはシャロンにもらった紙切れである「It's a secret!」を思い出して少し笑ってしまう。


「……実はそうなの。これ以上、監察医としてできることはないと思うし、先に帰らせてもらってもいいかな?」
「俺としてもその方が安心だよ。このまま零時を超えちまえば、例の通り魔が出るって噂だしな」
「ありがとう。また真相がわかったら電話して」
「おう」


 新一の了承を得るや否や、なまえは有希子と蘭にも別れを告げて劇場を脱する。そして、ちょうどタイミングよく通りかかったタクシーを止めて、紙切れに書かれた住所まで連れていくようお願いした。運転手は一瞬怪訝そうな表情をしたが、短く了承の意を伝えて走り出す。

 待ち合わせまであと三十分。時間はまだ十分にあった。




 住所通りの場所でタクシーを降り、数分歩いたが、紙に書かれた名のレストランはなぜかいつまで経っても見つかりそうになかった。それどころか周囲は暗くて人気もなく、古い集合住宅が密集していて薄気味悪い。空き家も相当多いと見えて、排水溝からはゴミ溜めのようなすえた匂いがした。

 住所を告げたとき、運転手が怪訝な顔をしたのはこのせいだったのかもしれないとなまえはようやく思い始めていた。何度も同じ道を行ったり来たりして、ストリート名と住所を交互に確認する。けれど、やはり店は見つからない。それに、もし仮にシャロンが自分を騙していたところで、その理由も見つけられないのである。

 ひと雨来そうな空にもいっそうの心細さを助長させていると、今まで人気のなかったはずの背後からひたひたと迫る足音が聞こえてきたのだった。きっとシャロンだ。そう思い、期待を込めて振り返ったが、そこにいたのはまったくの別人。

 黒い長髪を携えた、恐ろしいほど冷えた目をした日系人の男。


「そこで何をしている」


 なまえの脳裏にはすぐ、新一が言っていた「通り魔」の特徴が頭に浮かんだ。しかし、その男はすぐに険しい表情を崩すと、途端に驚いたような顔をする。その顔になまえは見覚えがあった。


「……お前、確かメリーランドで」


 メリーランドというのは、かつてなまえが通っていた大学があるアメリカの州のことであった。そこにある射撃場で数年前に出会ったのだ。長髪で日系人の彼に。


「あなたこそ、どうして……」
「そんなことより。この辺は大半が低所得者の集合住宅だ。治安も悪いし、お前のような女がいてもいい場所じゃない。わかったらさっさと帰れ」


 そう言って、彼がぶっきらぼうになまえの腕を取ろうとした。だが、彼女は逆にその手を取る。まるで藁をもすがるような思いを、その表情に貼りつけて。


「ねえ! このレストランの住所どこかわかりますか? 私、大切な人との待ち合わせがあって」
「お前な」
「私が好きなレモンのケーキがデザートで……確か、悲鳴が聞こえるほど美味しいステーキがあるってそう聞いて……!」
「!」


 そう言うと、彼の顔色が変わる。


「お前、それを誰に……」
「え?」


 その瞬間、夜を切り裂くような鋭い音が耳のすぐ傍を駆け抜けていった。銃声。しかも軽い。サイレンサーだと察するや否や、新一に言われた言葉とともに通り魔の姿が思い浮かんだ。『通り魔はサイレンサーつきの銃を持って、このニューヨークの街を逃げ回っているらしいぜ』。まさに、そいつだ。


「チッ!」


 長髪の彼は舌打ちをすると、瞬時になまえをきつく引き寄せて抱えるように走り始めた。その瞬間、相手は容赦なくこちらに向かって何発も連続で撃ち込んでくる。銃弾の雨。あまりに突然始まった出来事に、何が起こっているのかいまいち掴めない。

 ともかく狙われている。自分か、彼が。


「まさか、今の……!」
「奴だ。どうやらあいつがお前をここに引き込んだらしい」
「でもどうして私なんか」
「安心しろ。狙いはお前じゃない」


 そう言うと、彼はなまえを押し込めるように廃ビルのガレージに隠し、発砲をかわしながら反撃に出た。そして彼はこの状況を冷静に説明する。


「奴はもはや、若い女だけを狙った快楽的な通り魔なんかじゃない。捜査に協力している俺を消したくてまるで哀れな『狼』のようにうずうずしているんだろう。だから油断させるために、お前のような一般人を巻き込んだ」
「巻き込んだって……」
「お前にその紙を渡した人間だよ。おびき寄せて焼いて食べるためだったんじゃないか? 悲鳴が出るほど美味いんだろ、そのステーキ」


 冗談めかして言われたその言葉がなまえにとってどれほど大きなショックになってのしかかってきたのか計り知れなかった。シャロンと通り魔が仲間であると、何者かわからない彼はそう言いたいらしい。

 シャロンに限ってそんなこと絶対にありえるわけがない。しかし、いくら探しても見つからない店や、治安の悪い場所をあえて指定したかのように思えることなどを考えると、まるでパズルのピースが合うように完全に辻褄が合ってしまう。最初から自分に優しくしてきたのだって、信頼させて今のこの状況を作り出すための手段だったのかもしれない。嫌だ。やめよう。そんな風に思いたくないのに。


「裏口から出て適当に逃げろ、すぐに行く」


 そう言われても足がすくんでなかなか動けそうになかった。そういえば、この感覚は数年前、零とヒロに音信不通にされたときと似ている。

 また私は裏切られるのか。好きな人に。そんな絶望とともに、なまえは先ほどシャロンと変装道具を買い揃えていたときに彼女から言われた一言を思い出してしまう。

 確か、あのとき。


「わたしの、かみさまが……」


 ひどいくらい狼狽したなまえのすぐそこまで、通り魔の男が迫ってきていた。ようやく見えたその姿は、長い銀髪をひとつにまとめた恐ろしい顔をした男。その男が撃った弾と、そして傍で自分を守っている捜査員だと言う彼が撃った弾が発射されたのは、ほぼ同時だった。

 後者の捜査員の彼が撃った弾丸は見事に通り魔の腹部を打ち抜き、男は反動で自分の銃を落とした。しかし、通り魔の放った弾丸も決して無駄死にはせず、捜査員の彼の銃を軽々と撃ち飛ばす。からからと転がる拳銃のトリガーが、奇しくもなまえに向いて足元で止まった。まるで「取れ」と言っているように。

 なまえはとっさに震える手で銃を拾うと通り魔に向けて引き金に指をかける。


「撃て!」


 捜査員の彼がきつく怒鳴るようにそう言った。その一瞬のうちに、なまえの頭には様々なことがよぎっていく。

 彼にメリーランドの射撃場で「筋がいい」と褒められたこと。そのときの点数はかなりよく、冷静さえ忘れなければ、腕利きの狙撃手になることもできるだろうと言われたこと。そして、シャロンがなまえをこの現場に引き入れ、通り魔に襲われるように仕向けた裏切り。あのとき言われた言葉。

 ……いや、違う。なまえは銃口の先にいる、痛みで顔を歪めた醜い男を見つめた。

 変装の得意なシャロンが、もし、あの通り魔本人に扮しているとしたら。そんな人をなまえが撃てるわけがなかった。


『あなた、孤児らしいわね。有希子から前に聞いたわ。元の親には捨てられたって』
『ええ』
『自分の境遇……神を呪ったことはある?』
『ありますよ。当然』
『……』
『でも、神様はいます。誰にも平等ではないけど、私の心には私の神様がいるから』


 その会話を思い出すと、なまえはゆっくりと銃を下げた。すると、通り魔の男は自分の拳銃を拾って手負いのまま走り去る。近づいてきた捜査員の彼は、激しい怒りに苛まれているようだった。


「どうして撃たない! お前の腕なら俺があのとき証明して……!」
「撃てるわけないじゃない……!」
「……」
「そんなことしたら、私の神様に嫌われちゃう」


 そう言って、なまえはあまりのショックにみっともなく泣き出してしまった。すると彼は困ったように無線で仲間を呼び、彼女の頭をぽんぽんと叩く。それでも泣き止まない目の前の女を煩わしく思ったのか、ため息をついて抱きかかえるように厚い胸板に招いた。

「これだから、女は」

 そう言った彼の深い声が、とても印象的だった。

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