33...
翌朝のニューヨークは美しい快晴だった。
予定通り友人宅にて怒涛の一夜を明かしたなまえは、その日の新聞を読むや否や、いてもたってもいられず携帯電話を手にとって母・有希子をコールした。テーブルの上に置かれていたのは湯気の立つコーヒーとグレイズドドーナツ。それから、一面にでかでかと俳優たちの写真が載った騒々しい朝刊である。
昨夜見ていた『ゴールデンアップル』の観劇中に起こったショッキングな事件。被害者は既知の通りヒース・ハートフロック氏。そして加害者は、なんとあの舞台裏で蘭に助けられたはずのローズ・ヒューイットであったのだと新聞は伝えている。彼女の衣装である手袋の内側に、ヒースが死に際触ったと思われる彼の血液が付着していたことが決め手になったらしい。見出しにはミュージカルと重ね合わせるように「ブロードウエイの殺人劇!」と面白おかしく書かれており、記事中の登場人物としてまたも事件を解決に導いた闇の男爵夫人・有希子の紹介もあった。
友人がさっきから流し見しているテレビのニュース番組でも話題はそれで持ちきりであり、俳優陣の相関図を詳しく解説しているキャスターが映っている。事件はまるでお祭り騒ぎで、ニューヨーク市内どころか全米中がしばらくこの話題で持ちきりになることだろう。
しかし、なまえが気にしているのはそんなことではない。
「やっほー、なまえちゃん! 素敵な朝ね」
「母さん! シャロンは!?」
「え?」
「シャロン、大丈夫なの!?」
朝刊の一面の、隅。追いやられるように書かれていたのは、ニューヨークを騒がせていたあの連続通り魔が死んだという情報だった。捜査員に追い詰められた末に拳銃による自殺という警察の発表が書かれていたが、あんなにも騒がれていた犯人の顛末がそんなお粗末だとは思いがたい。それに。
あの通り魔は、もしかしたらシャロン本人なのではないか。なまえにはそれが気がかりでならなかったのだ。
だが、母からは与えられたのはまるで取るに足りないような意外なもので、こちらの気を萎えさせるような回答である。
「シャロン? ちょうどさっき彼女との電話を切ったとこよ?」
「え?」
「ああ、そうそう。なまえちゃんとこっそり落ち合う約束してたのに、急に撮影が入って行けなくなっちゃったんだって。連絡先がわからなくて伝えられなかったから、それ、謝っておいてって言われたわ」
それに、渡したメモもストリート名を一本間違えたかも、とかなんとか言ってたけど。シャロンってばおっちょこちょいよねえ? と、同意を得るように笑みを交えてみせた母親の発言に、なまえは言葉を失くしてしまう。
本当にそうなのか? それが事実かなんて確かめようもないくせに、そんな風に疑ってしまうのは自分の悪い癖だった。じゃあ、あの捜査員の彼が言った言葉の方が嘘だったとでも言うのか。あんなに真剣に、まるでかつての旧友たちのような自分の「正義」を貫くような目をして?
なまえはとりあえず、シャロンが生きているという事実だけを信じて、一旦は母の言うことを肯定することにした。そして残りの違和感のすべては思い過ごしであったと自分に言い聞かせていく。それが一番、彼女にとって優しい真実だからだ。
「にしても。シャロン、なんだかいいことがあったみたいでね。ちょっと浮かれてたわ」
「浮かれてた?」
「ええ。私の神様がどうとか天使がどうとか、言ってたけど」
私の神様。覚えのあるその言葉に、なまえはぎゅっと胸を掴まれる。
「なんでも。シャロンの神様は、シャロンの心の中にいるんだって!」
「!」
「じゃあなまえちゃん、またね。今、新ちゃんたちと一緒にセントラルパークにいるのよ。そろそろランチのお店まで移動しなくっちゃ!」
「え、ちょっと」
「なまえちゃんは今日、帰国するんでしょう? 気をつけて帰るのよ。またいつでもアメリカにいらっしゃいね!」
有希子は母親らしく娘を気にかけるようにそう言って、なまえの反応も聞かずに電話を切った。どうやら彼女の頭の中は今ランチで頭がいっぱいらしい。それがなんとも母らしくて、なんだか何もかもがどうでもよくなってしまった。
ため息交じりに窓から見上げたニューヨークの空は青く、遠くなるほど澄み切っていた。それを見ていたら無性に零とヒロに会いたくなって「彼らがいる、日本に帰ろう」となまえはそんなことを思う。
……まあ、会える見込みはいつまで経ってもないんだけど。自分で自分を呆れるようにそう思って笑い、友人が最近ハマっているというお店で買ってくれたドーナツをひとくち囓った。
「甘っ……」
やっぱり、日本が恋しい。
case33. 私の神様は私の心に
FBI捜査本部。ニューヨーク庁舎。
「シュウ!」
ジョディ・スターリングは同じく捜査員である赤井秀一を見かけるや否や、呼び止めて彼に駆け寄っていった。昨日の通り魔の死亡報告書。それをまとめるのに彼は忙しそうではあったが、邪険に扱わないことを見れば傍に寄ることは了承してくれるらしい。ぶっきらぼうに煙草をくわえたままで返事もないものの、長年の付き合いでジョディにはそれがわかった。
赤井が舐めるように読んでいたのは、今朝方、医療機関から送られてきたあの通り魔の解剖記録である。結果が出る前から警察には自殺であると発表するようにし、新聞やニュース番組でも今頃そのように取り上げられていることだろう。だが、実際は殺しだ。それも鮮やかなプロの犯行。なぜなら、自死を覚悟した通り魔が自分の痕跡を拭き取ったり、血を拭ったりするのはおかしいし、それに気になるひとつの事実がその書類には記載されている。
この事件、何か裏がある。赤井は昨日、ウエストサイドで通り魔と対峙した時点でそれを薄々感じ取っていた。そしてその予感を、この記録書が証明したのである。
「昨日のあの子、事情聴取に引っ張ってこなくてよかったの?」
犯人に何かメモを渡されていたんでしょう? そう言ったジョディの質問に、赤井は答えない。
昨日のあの子、とは後の調書であきらかになった工藤なまえのことである。大学時代の友人を訪ねるために日本からアメリカに来ていただけの単なる旅行者で、監察医。そして昨日は、あの惨劇が起こったミュージカルを鑑賞し、さらには通り魔に襲われるように何者かに仕組まれてウエストサイドの現場に来るように仕向けられた。殺されなかっただけでも奇跡だが、あの場で彼女が奴に弾丸を撃ち込まなかったことも奇跡としか言いようがない。
おかげで、この不可解な謎解きに挑戦できる機会が生まれたのだから。
「ちょっと、シュウ?」
眉間にしわを寄せたジョディが、赤井から書類を取り上げる。そのとき初めて彼女の存在を認識したらしい彼は、灰が落ちそうだった煙草の火を灰皿に押しつけて揉み消した。
「……ああ、ジョディか。悪い」
「もう! 今、気づいたわけ?」
「そう怒るなよ。考え事をしていたんだ」
「考え事? まあ、別にいいけど」
拗ねたような口調になるジョディはむっとしながらも話を続ける。
「彼女、今日もう帰国するらしいから、引っ張って来るなら今しかないわよ。大体、私たちまだ彼女のこと何にも知らないし、犯人と接触したのならなおさら事情を……」
「工藤なまえはレモンが好きらしい」
「……え?」
「本人がそう言っていた。あの面倒な女に関する情報は、今はそれだけでいいさ」
赤井はそう言って、ジョディから書類を奪い返す。そして最も気になっていたこの一文に改めて黙読した。
『死亡していた通り魔の腹部に残った銃創と、FBIが所持していた拳銃の弾丸は一致しない』
この事実が物語っていることこそが、この謎を解く鍵になる。つまり、この事件で死んだ通り魔は赤井があのとき撃ち抜いた男ではない。
通り魔はふたりいたのだ。今回何者かによって殺された本当の通り魔と、赤井が撃ち抜いた通り魔に扮した真犯人。そして後者こそが、工藤なまえに近づいた張本人である。
そんな変装ができる人間は、赤井の脳裏にはひとりしか思い浮かばない。中身はしわくちゃの、腐った林檎のような女のことだ。