34...


 じゃあ、また近いうちに。家の前まで律儀に送ってくれた安室にそう言われ、何とも言えないふわふわとした気持ちでなまえが家に帰ると、いつもは消えているはずのリビングの明かりはまだついたままだった。時刻は午後十一時。いい歳した大人が出かけて帰ってくるにしてはそんなに遅い時間でもないが、いつもならこの時間、沖矢は自室で論文でも書いているはず。なまえはそう思い、もしかしたら心配して自分の帰りを待っていてくれたのかもしれないと前向きに考え直した。そしてパンプスのストラップを片手で外しながら、せっかくだし彼に「ただいま」を言おうと、そこへ向かうことにする。

 しかし、リビングの扉を開けるとそこには意外な状況が広がっていた。ソファの上には珍しくテレビをつけたまま腕を組んで眠りこける沖矢の姿があり、なまえはとっさに口から出そうになった挨拶を飲む。あの用心深い沖矢が無防備に眠っている、だなんて。信じられないような気持ちで恐る恐る近づき、注意深く様子を伺ってみるものの一向に起きる気配はない。故になまえは遠慮なく彼の隣に座って、ここぞとばかりに珍しいものを観察するように彼の寝顔を眺めてみることにした。

 そのとき、ふと悪戯心が湧いてきたのだ。口も利かない大喧嘩の幕開けとなったあの一件のときに、大胆にも唇で触れてみた彼の偽りの頬。それが今なら普通に触れることのできる距離にある。いや、彼が何者かの変装であることはもうわかっているし、彼自身もそれを認めているようなものなので、今日は他の場所に触れてみよう。

 例えばそう。眼鏡を外す、とか。

 なまえはそう決心すると、そっと彼の眼鏡に両手を伸ばした。そしてまんまとそれを外すことに成功し、まるで犯罪を遂げたような達成感を味わう。普段は見られない彼のあどけない寝顔。それも裸眼の状態が余計に彼を幼く見せて、それが今も毛利探偵事務所にいるであろう七歳の新一となんとなく被り、ついくすくすと笑ってしまった。

 だが、沖矢昴という男はそれが簡単に通用するような相手ではない。なまえはそのことをすっかり忘れていたのだった。



case34. 昴くんの恋人


「あなたは本当にいけない子ですね」
「え?」

 そう言うと、沖矢は裸眼になった目をはっきりと開けた。いつから起きていたのかは知らないが、普段から糸目の彼が開眼したところを初めて見たことに驚いたなまえはその拍子に彼の眼鏡を床に落とす。カシャン、と軽い音がする室内で、逃げられないようにその大きな手で力強く手首を掴まれたのは同時だった。


「なまえさんの方から干渉しないという条件を出したのに、約束守れないんですか?」
「え? ええっと……?」
「僕はあなたが帰ってきても、どこへ誰と出かけたかなんて聞かないでおこうと思っていたのに」


 切なげな表情でそう言うと、沖矢は眼鏡を外したままで遠慮なくなまえの肩に擦り寄せるように額を預ける。珍しい。甘えている、のだろうか。至近距離にいるせいで、彼の呼気からは甘いアルコールの匂いがして、酒の種類には詳しくないがまたバーボンを飲んでいたのだろうということはわかる。もしかして、酔ってる? けれど水を持ってきてあげたくても、手首はずっと掴まれたままで身動きさえ取れない。


「あの、昴くん……?」
「……」
「ねえ、ちょっと」
「……正直、嫉妬に狂いそうでしたよ」
「え、っ!」


 顔を上げた沖矢がナチュラルに甘いキスを迫ってこようとしたので、さすがになまえは短い悲鳴を上げながらソファから転げ落ちるように逃げ出した。そして床に転がっていた眼鏡をつまむように取り、目上の相手に献上するかのごとく手のひらに添えて彼に渡す。当然、その顔は見れたものではない。


「の、飲みすぎ!」


 赤面しながらそう言うなまえが顔を伏せているのをいいことに、沖矢は普段なら見せない顔でちろりと赤い舌を出した。別に飲みすぎたわけではないが、このくらいしておかないとまた彼女は性懲りもなく「彼」に会いにいくだろう。だから、これがいい気つけ薬になればいい。そう思いながら沖矢は彼女の小さな白い手のひらに乗った眼鏡を受け取ってかけ直す。視界は良好。耳まで赤く染めた彼女があまりにも愛らしい。


「すみません。からかいすぎてしまいましたね」
「……ひどいよ」
「なまえさんの反応が可愛らしすぎて、つい」


 それにしても、と沖矢は話を続ける。もちろん彼女の小さなその手を再び握って、ソファの上に座り直させてから、だが。


「眠っている間、実は懐かしい夢を見ましてね。少し酒を飲んでいるのもあってか、今はとても気分がいいです」
「夢、か……」


 なまえはぼんやりとそう返しながら、沖矢の隣で、未だ余韻が残る安室とのデートのことを思い返していた。それはなまえにとってもまた夢のようなもので。高校時代の友人である、あの降谷とデートをしたような気分になっていたのだ。

 それはまるで狐に化かされたような思いだけれど、すごくすごく楽しかったことだけは、彼女の記憶として深く胸に残る。

 考え込むなまえを見透かしたように、沖矢は彼女の背後に手を伸ばし、そして首元のペンダントを手際よく外してみせた。少しは効果があっただろうか。そんな思いをひた隠しにしながら、沖矢はまたもからかうように彼女のうなじをツーとなぞってから指先を離し、自分の存在を思い知らせる。ほんの冗談のつもりだったのに、なまえの口から思わずくぐもった甘い嬌声のような声が漏れて、それがあまりにこちらの情欲を煽った。このまま、その白いうなじに唇を寄せてなし崩しに抱いてしまいたい。今日会っていた男のことなど、微塵も思い出させないほどに。


「んっ」
「いいですか、なまえさん。僕の前であまり他の男のことを考えないでください」
「え?」
「さっき言った嫉妬は本当なのでね」


 そう言って、沖矢は余裕そうに笑った。しかしそれに対し、なまえはじとりとした目つきで彼を睨む。そして口を尖らせてそっぽを向くから、沖矢にはその態度が意外で、思わず首を傾げてしまった。

 しかし、なまえは「そんな風にしらばっくれたって無駄なのだ」と忌々しく彼を思う。咎めていないだけで、本当はすべてお見通しなのだから。


「よく言うよ。最近、昴くん、女の人をここに呼んでるくせに」
「え……?」
「いい歳した大人だから怒る気もないし、ずっと気づいてないふりして黙ってたけど。でも、ここは一応私の家でもあるんだし、ちょっとは隠してよね。流し場に落ちてた長い髪とか、口紅の残ったグラスとか」


 そしてなまえは怒ったような表情をいっぺんに緩め、軽くにやつきながらこう言うのだ。「昴くん、彼女いるでしょう?」。沖矢はとっさに言葉を詰まらせる。それが何よりの肯定である、とまるで探偵のようになまえは思った。

 彼がこの家に来てからというもの、実は一週間に一度程度のペースで人の出入りしたような影を見るようになっていたのだった。最初は蘭かと思ったりもしたが彼女なら隠す必要もないし、新一なら自分に連絡を寄越す。じゃあ他の可能性はと考えると、沖矢の招いた客人であることはすぐに想像がついた。別にそれはそれでいいのだ。友人であれ、恋人であれ、仲良きことは美しきことかな。だから、自分が安室と出かけていた今日くらいは、その「友達」と夕飯を食べてと言ったのだし。それに、ここはもう既に彼の家でもあるので今さら干渉も詮索もしない。

 だが、最近は徐々に大胆になってきて、別段隠すこともしていないように思えるのが癪なのだ。口紅のついたワイングラスなんて置いちゃって、もしかしたらその彼女がこちらを牽制しているのかとさえ思ったぐらいだ。心外である。彼と自分はそんなんじゃないのに。

 沖矢は口元を抑えてしばらく黙っていた。そして、もう隠せないと思う。しかし、それは突きつけられた事柄が気まずくてもう隠し通せないという意味ではなく、逆に大笑いしそうになって黙っていることを隠し通せない、という意味でだが。

 いや、むしろもう笑っている。

 一方のなまえは笑われている意味がわからず、その様子を見てまるで肩すかしを食らうように呆然としてしまっていた。彼女がいることを隠して、自分にも冗談半分に迫ってきていたプレイボーイは、真実を突きつけられてもこう堂々としているものなのか。恋愛経験が乏しすぎてその辺りのことがなまえにはよくわからないが、故に、少しむっとしてしまう。


「何がおかしいの」
「いや、まあそうですよね。じゃあ、明日、ちょうど彼女が来ることになっているのでご紹介しますよ。きっとびっくりすると思いますが」


 そう言われて、なまえは再び息を飲んだ。


「えっ、私の知ってる人なの?」
「はい、もちろん」


 その返答になまえはさすがに慌ててしまう。そして、ざっと周りの女子たちを思い浮かべて、まるで犯人探しをするように沖矢の恋人が誰なのかを推理してしまうのだ。蘭に、園子、美和子……は彼氏持ちで駄目だし。まさか哀ちゃん、は今の見た目上、犯罪だし……。梓ちゃんは一応アリだが、そもそも沖矢がポアロに行ったことがあるのかは謎だ。他に知っている女の子っていたっけ。

 首を傾げてみるものの友人の数が乏しすぎてわからない。その様子を見て、沖矢はまた笑っている。

 本当はもっと困っている様子を見ていたいのは山々だが、今日はもう遅い。彼女も自分も明日がある。自分の正体を明かす、記念すべき明日が。沖矢はそう思い、首を傾げる彼女をなだめるように愛おしげに頭をぽんぽんと叩いた。


「では、僕は先に休みますよ。おやすみなさい、なまえさん」


 明日をどうぞお楽しみに。そう言って名残惜しむように髪を撫で、リビングを去っていく彼の背をなまえは見送った。そして取り残された部屋でひとりごとのように呟く。


「昴くんの、恋人か……」


 まるで保護者のような気持ちを抱えたまま、ともかく明日は絶対に残業しないと、そう心に決めるなまえなのであった。

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