35...


 翌日。仕事から帰宅するなりばたばたと化粧を直したり、服装を変えたりしているなまえを、沖矢は愉快そうに眺めていた。今日は昨夜の宣言通り「沖矢の恋人」が訪問してくる日である。そのせいで、なまえは朝からそわそわして仕方がない。激務である仕事を鬼のように早めに切り上げて、帰って来てからはずっとあーでもないこーでもないと言いながら忙しく走り回っている。その様子があまりに彼女らしくなくて、見ていて実におかしいのだ。


「なまえさん、少し落ち着いてください」
「は! そ、そうね。なんというか。保護者みたいな気持ちになっちゃって……」


 息子さんを私にくださいとか言われそうで、とひとりごちるなまえに、さすがの彼も腹を抱えてふるふると爆笑した。なぜ自分のことを息子だと思っているのかはさておき、あまりにも可愛すぎる勘違いなのでもう少し黙っていよう。人が悪い沖矢はそう思い、そしていつも通りのにこにこスマイルを貼りつけ直す。

 一方のなまえは、笑われていることにも気づけないくらい無性にテンパっていた。落ち着けと言われても落ち着いていられるわけがない。これがもし新一と蘭に置き換えられるとすれば気心も知れているので何も身構える必要はないのだが、沖矢の恋人なんて、まずもってどういう立場で接すればいいのか謎である。逆にこちらが何者か疑われかねないし、自分でも彼にとっての何者であるかをうまく説明できそうにない。

 第一、ワイングラスに口紅を残したまま去るような不敵な恋人だ。まったくもって交際を反対する気もないが、不必要な嫉妬をされては困る。それだけははっきりと、事前に彼に断っておきたい。


「ていうか、その彼女。私と昴くんが一緒に住んでること知ってるんだよね? それっていろいろまずくないの?」
「いえ、むしろ賛成してくれてますけど」
「えっ」


 さ、賛成? 思わぬ回答にそう声が漏れると、なまえはうんうん頷きながら大切なルームメイトである彼の手を握った。その行動に沖矢はただ目を白黒させてしまう。


「心広いんだねえ、その彼女! 絶対に逃さない方がいいよ!」


 まずい。この女、相当に面白い。またも沖矢は腹を抱えて笑いそうになるのをどうにか堪え、やっとの思いで肯定の意を込めて無言のまま頷き返す。

 まあ、彼にとって手離したくないのは目の前にいるなまえの方なのだが、そのことに彼女が自力で気づくのには、あと数万年以上かかりそうだなとさえ思えた。やけに変なところで察しがよくて推理力も高いくせに、恋愛になると笑えるくらいの鈍感さ。話に聞いた、彼女の高校時代の友人が苦戦するのも頷ける。心中お察ししたい。

 しかし、自分は彼女が自然と気がつくまで待てるほど、気が長くない性分なのだ。正体を明かした後は積極的にアピールすることにしよう。彼女の母から、そうアドバイスを受けたように。

 運命のインターフォンが鳴ったのは、そのやりとりがあってからすぐのことだった。途端に家主のなまえは無造作に髪をかきあげ、咳払いをしたり発声したりしながら気合いを入れ直す。そして意気揚々と玄関の扉を開け、その恋人を迎え入れたのだった。


「い、いらっしゃい……ま、せ……?」


 しかし、そこにいたのはどう見ても四、五十代の、小太りのインテリ眼鏡風のおばさん。両手に大量の買い物袋を持って、まるでスーパー帰りの様相である。なまえは面食らってとっさに背後の沖矢を見た。

 すると彼は平然とこう言ってのけるのだ。

「彼女です」

 なまえの思考が止まった。



case35. 赤井さんのフィアンセ


 一瞬、時が止まったかのようなその場の空気だった。人の趣味に文句を言うわけではないが、あまりにも意外すぎて言葉にならない。もっと小柄で華奢でちょっと押したら折れそうな儚い女子大生のような少女をイメージしていたなまえの気持ちが、一気にどこかへ吹き飛んでしまう。本当に? セールスのおばさんとかじゃなくて? そんな失礼な言葉を言いかけると、当の彼女が慣れたように門を開けて入ってくるのが見えて、そのこなれ感がまさに事実を物語っていた。

 彼女は我がもの顔で家に入ると、扉が閉まるなり後ろ手に鍵を閉める。そしてはじめましての挨拶もそこそこに、とうとう堪えきれなくなって肩を震わせて大笑いをし始めたのだった。


「あっはははは! なまえちゃん。顔、顔!」
「……え?」
「言ったでしょう、昴くん? この変装が一番いいって」
「そのようですね」
「えええ?」


 すると、沖矢の恋人と思わしき人物は、べりべりと音を立てて顔につけていたマスクを引き剥がす。ボディラインは空気の抜けるような音と同時にみるみるうちに華奢になり、外れたカツラから溢れるように豊かな長い茶髪とともに現れた顔は、確かになまえのよく知る人物。

 工藤有希子。言わずものがな、なまえの母親である。


「母さん!?」
「やっほー! 久しぶりね、なまえちゃんっ!」
「どうして……まさか」


 なまえは口元を押さえて息を吸う。そして彼らを交互に何度も視線を往復させて小声で問うた。


「……不倫!?」


 とっさにスパーンと頭をひっぱたかれたなまえは、痛みに声を上げながら眉間にしわを寄せる。しかし、眉間にしわを寄せているのは有希子も同様。その顔は血の繋がりこそないはずなのに、なんとなく似ているようにも見えるから不思議だ。


「んなワケないでしょ? 今まで週一でアメリカから帰国して彼の変装技術を見にきてたのよ。ま、かなり上達してるみたいだから、もうすぐ私のお役もご免って感じだけど?」
「そんなことないですよ、有希子さん」


 まるで同世代の女子のような顔つきで楽しげに沖矢と話す有希子に、あながち不倫も間違いではないのでは、と一瞬思ったなまえだったが、二発目が怖いのでさすがに黙っておいた。けれど、なるほど。変装技術の立役者は有希子だったというわけか。なまえはそれに納得し、改めて沖矢を見る。

 そのとき、偶然目が合った彼はやけににこにこと笑っていた。まるで、騙していたという事実がうまくいって楽しくて仕方がない、というしたり顔である。その顔が実に癪に障った。そしてそれは、この一連の詐称事案に絶対に一枚噛んでいるはずの弟、新一に対しても同じ気持ちである。


「じゃあ、昴くん。変装取りましょうか?」
「はい」
「え。変装、取るの?」
「もっちろん! なまえちゃんだって見たいでしょ? 彼の素顔」


 素顔。そう言われてはさすがに好奇心をくすぐられる。あれだけ頑なに隠されていた正体がやっと拝めるわけなのだから。

 それは沖矢もまったく同じ気持ちのようだった。そして魔法を解く前に、なまえの耳元で甘くこんなことを呟く。

「やっとお前に素顔を明かせるな」

 それは明らかに沖矢昴の話し方ではなかった。




 久しぶりに再会した母とともに紅茶を飲みながらしばらくリビングで待っていると、勿体つけるようにノックの音が聞こえてきた。なまえはその音に一瞬ビクッとし、ゆっくりと目線を扉の方を見やる。心の準備もままならないうちに「入っていいわよー」という有希子の軽い言葉で、その戸は遠慮なく開いた。

 変装を解くついでに軽くシャワーを浴びてきたらしく、まだ少し濡れ髪の男性が黒っぽいジーンズにTシャツというラフな格好で入って来た。沖矢とはまったく違う短めの黒髪。鋭い眼光。ざっくりと首元の開いた服に、一際目を引くメカニカルなチョーカー。体型はほぼ変わらないはずなのに、いつもより薄着のせいでガタイの良さがよくわかる。男性に使う言葉としては適切ではないのかもしれないが、彼は他の誰にもない独特の色気を持ち併せており、その目が一度こちらを捉えると永遠に離してくれなさそうな雰囲気さえ漂わせている。

 少しウエーブのかかった前髪をうざったそうに払えば、歓声を上げたのはなまえではない。有希子の方であった。


「きゃーっ! やっぱり私はこっちの彼の方がカッコよくて好きよ! いいわいいわ! 最高よ!」
「ちょっと待って、母さん。頭痛くなってきた」
「もう! せっかくの初対面なんだから、ちょっとはテンションあげてよね!」


 そして有希子は紹介のために「彼の名前はね」と言いかける。しかし、それは先になまえの方から静止した。


「それは知ってる。赤井秀一でしょう?」


 その一言に止まったのは、決して有希子だけではない。赤井もまた同様に驚いたような顔をして、扉の前で立ち止まってしまったのだった。

 騙されてばかりでは性に合わない。つい、こちらも反撃に出たくなる。なまえはそう思い、共犯だった彼らに対して不敵に笑みを作った。そして、せっかくの楽しみにとっておいたらしいマジックの種を台無しにするようで申し訳ないが、以前から薄々わかっていたその事実について推理するために口を開く。


「そうじゃないかと本格的に疑い始めたのはジョディさんに話を聞いたときだけど、確信したのはこの前コナンくんが誘拐されとき。あのとき、私に運転を任せて前を行く犯人の車のタイヤを撃ってパンクさせようとしていたんでしょう? ジャケットの内側に拳銃が入っているのが見えたし」
「……」
「つまり、私が解剖した赤井秀一の死体はフェイク。どこの誰の死体を使ったかまではさすがにわからないけれど、何らかの方法ですり替えマジックを使って組織の目を欺き、自分が死んだように見せかけて水無怜奈のスパイ容疑も晴らした。その後、母さんの変装術と博士の作ったそのチョーカー型変声機を使って別人になりすまし、どういう訳かこの工藤邸に移り住んできたってとこかしら。まあ、あの新一が私を得体の知れない人と住ませるわけないから、たぶんこの計画は新一が全部考えたんでしょうけど」
「ほう、ほぼすべてお見通しだったというわけか」


 赤井はそう言うとようやく動き出し、ドサリとした質量でなまえの前の席に堂々と座った。沖矢の姿で慣れていたために、その射抜くような目でこちらを見られると何とも言えない気分になる。だが、意地でもなまえは負けたくない。彼が赤井秀一だとわかっただけで、生活的な部分は今後も何も変わらないのはわかっていたのだから。

 それに。ほぼすべてお見通しということは、自分のスコアが彼にとって満点じゃないことを表していた。わからないことは次の三点。偽装された死体が誰のものであるかということ。ジョディを始めとしたFBIの人間を欺いてでも、ここに住むことにしたその目的。それからもうひとつ。

 どうして彼が、話していないはずのなまえの好物が「レモン」だということを、もともと知っていたかということだ。

 しかし、場の空気をイマイチ読めない母・有希子は「じゃあ、じゃあ!」とわくわくしたような反応でなまえに耳打ちする。


「じゃあ、これもお見通しだった?」
「え?」
「私も優作も新ちゃんも。なまえちゃんのお婿さんには彼を推してるってこ・と!」
「はあ?」


 その言葉はさすがのなまえでも許容できるものではなかった。しかし、母はせっかく自分からしたはずの内緒話をぶち壊すように大きく笑い、そして赤井にも聞こえるようなミュージカル調の言葉でこんなことをのたまう。


「なまえちゃんも今年で二十九歳。三十路手前にして今まで浮いた話もなく、話題に上がるのはホームズか死体の話ばかり……でも、もうそんなんじゃ駄目よ! 新ちゃんに蘭ちゃんがいるように、なまえちゃんにもそういう人がいてもらわないと親心としては困っちゃう! しかも、ただの男じゃ許せない。……ってことで、どう? 彼のフィアンセ。なってみる気ない?」
「意味わかんな」
「悪くないな」


 言い切る前に口を挟んで来たのはなんと、赤井秀一。なまえはとっさに睨んでしまったが、その反応でさえ彼はまるで楽しんでいるように笑っていた。それに同意して盛り上がる有希子。まさにカオス。もう誰にも手がつけられない。


「でしょでしょ!? んじゃあ、結婚前祝いってことで家族団欒! ホームパーティでもやっちゃいましょっか! 食材、いろいろ買い込んで来たし」
「ちょ、ちょっと!」
「準備手伝ってくれる? 未来の息子くん!」
「喜んで」


 こいつら、いつのまにか私抜きで馴染んでる……。そう思いながら、再び頭を抱えるなまえだったのだ。

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