36...


 騒々しくて疲労がたまるばかりのカオスなホームパーティは、有希子がホテルに帰ると言うので日付が変わる前にはお開きとなった。完全に一方的な決めつけではあるが、娘の初めての浮いた話を相当喜んでいたようで、有希子自身、今日はかなり酒が進んでいたように思う。絶対結婚してあげてよ、とくだを巻く彼女に呼応するように、赤井秀一という男は一貫して上手く立ち回ってなだめるような態度。沖矢でいるときと同じようにゆったりとバーボンを楽しんでいるだけなのに、その姿がいつもよりひどく大人びて見えた。なんだか自分だけ酒が飲めずオレンジジュースだったことが悔しくて、なまえは生まれて初めて少し下戸を恥じた。

 しかし、帰り際、ふらつく有希子をタクシーに押し込めている際「じゃ、後は若夫婦おふたりで!」とウインクを残して去っていったあの表情。それがなんとも腹立たしく脳裏にこびりついて、なまえは疲労と相まって片づけ中ずっとむかむかと苛立ちを募らせていた。何が若夫婦、だ。生活は今まで通り何も変わらない。彼と自分はこの先もただのルームメイトである。

 机の上に広がったゴミを一切合切を投げるように入れていくことで、なまえは沸き立つ苛立ちをどうにか昇華していった。部屋の片づけはもともと蘭に任せてしまうくらい得意ではない。なので、全部捨てて綺麗さっぱりパーティの痕跡が消えてくれた方が精神的にもダメージが軽いと思えたのである。

 しかし、そんな苛立つ彼女を見かねて声をかけてきたのは、本来の姿であったため外まで有希子を見送れず、その一言を聞いていない赤井秀一。


「そう怒るなよ。有希子さんだって本当は巻き込みたくなくて話すのを渋っていたんだからな」
「……」
「それに俺だって、お前を騙すために好きで変装していたわけじゃない」


 その一言になまえは手を止めた。そして、赤井のことをじと目で睨み、大袈裟なくらいため息をつく。満杯になったゴミ袋の口をくくりながら出てきたのは「別にそのことで怒っているわけじゃないです」というなんとも機械的で可愛げのない言葉。これにはさすがの赤井もカチンときたようで、自分の手を止めて彼女の傍に近寄る。

 そして、なまえの手を取って強引に壁に体を押しつけたのだ。それはまるで、以前キッチンでしたあのときの喧嘩のように。


「じゃあ、何か? お前はあの沖矢昴の方が好みだったというわけか?」
「え?」
「なら、どちらの方がいいか試してみよう」


 そう言って赤井は不敵に笑い、なまえの両足の間に自分の太ももをねじ込んだ。それから分厚い手で彼女の柔い頬に触れると、無理矢理に顔を上に向けさせる。まずい、これはさすがに避けられない。そう思い、あ、という短い悲鳴の後、まるで狼の食事のように乱暴なキスを受け止めることを覚悟して、なまえはきつく目を閉じた。

 だが、突然あと数センチという距離で彼の方から動きがピタリと止まったのだった。沈黙した空気。彼の呼気に含まれたアルコールの匂い。それから免疫がなくて徐々に顔に集まっていく熱。無駄死にする覚悟。反動とはいえ、一瞬でも目を閉じてしまった自分がまるで期待していたようで馬鹿らしく、なまえは至近距離で笑っている彼の胸を力一杯押した。

 そして彼は極めつけのようにこう言うのだ。期待したか? と。


「ご希望に添えなくて悪かったな。本当に欲しかったらいつでもくれてやるが」
「……今後は必要なとき以外、赤井さんになることを禁止します」
「どうして?」
「昴くんの方が紳士的だからですよ」
「そうでもないと思うが。あいつは想像の中で、何度かお前を抱いてる」
「は」
「そして俺は、現実でお前を抱く」


 もちろん無理矢理ではなく、ちゃんと合意を得てな。彼はそう言うと、今度は遠慮なくその細腕を引いて彼女の頬に戯れなキスを落とした。再び顔に集まってくる熱をどうにかしたくて、なまえは唇が離れた瞬間から色気もなく思いっきりそこを手の甲で拭う。何度も。


「セ、セクハラです!」
「どうとでも言え」
「あなたなんて絶対に好きにならない」
「ほう?」


 赤井はまるでひと仕事終えたように堂々と煙草に火をつけ、紫煙を吐いてこちらを見た。そうなればまるで蛇に睨まれた雨蛙。その目からはやはりどこへも逃げられない。


「だが、そういうのも嫌いじゃない。難攻不落を落とすのが趣味でね」
「……」
「いつか絶対に惚れさせてやる。そのときは大人しく、黙って俺に抱かれろ」


 なんて人だ、となまえは思った。こんな強引な男と今まで一緒に住んでいたのかと思うと血の気が引くほど恐ろしくなる。ひょっとすればあの降谷零よりもずっと粗暴で自己中心的な暴君。有希子の前だけ優しい顔をして、取り繕っていたというわけか。

 けれど、彼という人間が、相手の嫌がることは絶対にしない主義らしいということだけはよくわかった。もしそうじゃなければ先ほどの唇へのキスも、その先も、もうとっくに沖矢昴として済ませているはず。

 そして、それを今後も回避し続ける条件はただひとつ。自分が彼のことを絶対に好きにならないこと。

「そういえば、お前。一年前……」
「え?」
「いや、その顔は覚えてなさそうだな」
「?」

 そう言うと、続けて彼に「片づけはもういい」と言われた。そして、先に風呂に入って寝ろ、と言われる。大丈夫、明日の朝にはお前の好きな沖矢昴が待っているさ、と。



case36. あなたなんて絶対に好きにならない


 翌日、いてもたってもいられずに呼び出したのは弟の新一。アポを取ったのがなまえの仕事終わりで夜も遅かったので、一応小学生の新一を出歩かせて蘭に心配をかけるわけにもいかず、場所に指定されたのが閉店間際のポアロだったことが唯一の懸念事項である。けれど、わざわざ新一が下階に出向いて梓のみのシフト日であることを確認してくれたようだったので安堵してそこへ向かうことになった。

 会った瞬間の新一はものすごく気まずそうな顔をしていた。それもそのはず、有希子から「沖矢昴=赤井秀一」であることをなまえにバラしたとの連絡はすでにいっており、そして工藤家の人間がなまえの恋人に赤井を推しているということもバレている。そんなこんなで新一はなまえに会うなり終始苦笑いをして、この場をどうにかしてやり過ごせないかと考えていたのだ。


「はあ……」
「いやあ、悪かったって……」
「…………殴りたい」


 こええ……。生まれたときからの付き合いである弟だからこそ、姉の恐ろしさは十分に知っている。なんでもその昔、音信不通になった友人から護身術としてボクシングの基礎を習ったこともあるらしい。当時はアメリカから一時帰国して試合を見に行くほどはまっていたっけ、と新一はぼんやり思い出す。ったく、蘭の空手といい、世良のジークンドーといい、どうしてこうも周囲の女たちは強さにこだわりを持つのだろうか。いくら彼の推理力を持ってしても、その理由は完全に迷宮入りである。

 ところがなまえはポアロのテーブルの上でくたっと体を曲げると、もう一度ため息をついてこんなことを言うのだ。


「ねえ、名探偵。結局『好き』って何なのかな」
「え」
「昨日からずっと考えてるんだけど、全然よくわからないの」
「なまえ……?」


 それは彼女の口から飛び出すには、あまりにも意外な話題だった。色恋沙汰に疎いなまえが、もしかすれば有希子にけしかけられてとうとう赤井を意識し始めたか。そう思うと、弟としては気が気でなく期待で胸がドキドキする。

 しかし、再び口を開いた彼女から飛び出したのは、もっと意外な言葉だったのだ。


「……合コン、行こうかな」
「は?」
「実は美和子のお友達の婦警さんに誘われちゃって。社会勉強だって言うから」


 なまえはそう言うと、昨日の夜遅くに佐藤美和子からかかってきた電話の内容について語り始めた。ここ最近は沖矢昴に関する尋問のような電話を受け続けていたということもあり、そして有希子と赤井に疲れていたということもあって、ちょうど風呂上がりにかかってきた彼女からの電話でとうとう詳しい事情を美和子に話すことになったのである。自分と沖矢との間には恋愛関係などなく、キスはただの事故。デートは彼がそう言っているだけ。添い寝は少し事情があったが、やましいことは一切なかった、と。

 美和子は根気よく黙ってその話を最後まで聞いてくれた。そしてなまえの話を疑うことなくすべて信じ、友人として、何かアドバイスをしようと考えあぐねているときに、ずっと横で聞いていたらしい交通課の宮本由美警部補に電話が変わったのだ。

『だったら今度、合コン来ません!? 恋愛経験ないならなおさら。社会勉強にもなりますよ!』

 と、めちゃくちゃ軽いノリで。

 その話を聞いて、新一は乾いた笑いが収まらなかった。もはやこの世のすべての合コンは宮本由美が仕切っているのではないかとさえ思える。そしてその話に感化されて、合コンに行くかどうか迷っているなまえもなまえだ。あくまで新一の持論ではあるが、誰ともわからない男がいるような場所に姉を行かせたくない。

 どうにか新一がなまえを説得して、出席を考え直させようとしたときのことだった。閉店間際の店に客は誰もおらず、調理場にも梓しかいないと思っていたのに、ふたりの席に怪しげな影がひとつ落ちる。


「それって男側も参加できませんか?」
「え?」


 そう言って話に割って入って来たのは、いつもよりラフな私服姿の私立探偵。安室透だったのだ。


「あ、安室さん……! どうしてここに?」
「偶然ですよ。マスターから明日使う買い出しを急遽頼まれて、それを届けに。裏口から入ると君たちが見えたので挨拶しようかと思えば、何やら楽しそうな話を聞きつけてしまったのでね」


 そう言うと、彼は当然のごとくなまえの隣に腰掛ける。新一がとっさに梓を見れば、ごめんねと両手を合わせて謝まっていた。どうやら彼が来ることを本当に知らなかったらしい。

 一方のなまえは、急に現れたこの安室透なる人物をらしくもなく完全に意識してしまっていた。あの日、「また近いうちにハムサンドを食べに来てください」とは言われていたものの、ひとりで彼に会うほどの親密さはまだ持ち合わせていないと思えて渋っていた。故に、新一に安室の出勤を確認してしまうくらいまだ彼に会いたくなかったというのに。それに、彼のように引く手数多なほど容姿が整った男が合コンに参加したいという発言は、なまえが思うのも何だが意外すぎる。

 それは新一も同じ考えだったようで、子どもらしい無邪気なコナンの声色で安室に問うのだ。


「安室さんって、彼女欲しいの?」
「ええ。人並みには」


 なんでもないことを言うようにさらっとそう言ってのけた彼は、携帯電話を取り出しなまえに話しかける。


「そのコンパのことで連絡も取り合いたいですし、ついでに連絡先を交換させてください。この前、聞きそびれてしまったので」
「あ、はい……」
「この前って……ボクが誘拐されたときだよね?」
「いや、そうじゃないよコナンくん。この前、彼女を仕事終わりに迎えに行って東都水族館までデートしたんだ。ね、なまえさん」
「え、まあ」
「は……はあ!?」


 いつの間にそんなことに。新一は目を丸くして驚き、なまえはまたもため息をついた。安室といい、沖矢といい、どうしてそんなに自分とデートしたことを自慢げに話したいものなのか。意味がよくわからない。

 ともかく、連絡先をばっちり交換したふたりは、由美主催の合コンになぜか揃って参加するという話になって解散した。もう説得できるような隙間は微塵もなく、新一は安室が完全に去った後に、なまえに声をかける。それも細心の注意を払うように、かなり声を潜めて。


「おい、なまえ。安室さんだけはやめとけよ」
「え?」
「昴さんにしとけって母さんも言ってたろ? とにかく、あの人はまだ俺にも何者かわかんねえし絶対に……」


 そう言いかけると、なまえは笑った。その表情はひどく寂しげで、思わず新一は言葉に詰まる。

「うん、わかってる。私も駄目だと思ってるから」

 その言葉の真意が、まだ彼にはわからない。

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