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 安室はまるで何者からもさらってしまうかのようになまえの手を引いて歩き出し、時折振り返って眩しい笑顔を向けては、彼女の反応を愛おしそうに見つめているようだった。それは度々横をすれ違っていく一般的なカップルと何ら変わりなく、傍目には彼らも恋人として見えていることだろうと思う。なまえは今も家で連絡を待っている沖矢の存在に後ろ髪を引かれるような思いを募らせながらも、今の気持ち的には、沖矢に内緒で安室と一緒にいることを選んでしまう。それに、いい歳した大人がふたりして宛てもなく、ネオン眩しい夜の街を闊歩していくだなんて。まるで悪い遠足みたいで、正直、わくわくしてしまっていたのだった。

 そもそも飲み会の経験値が少なく、あまり繁華街を出歩いたことのなかったなまえはそこが東京であることには変わりないはずなのに、遠方へと旅行に来たような新鮮さを味わっていた。普段、バイクで通るときなんかと比べると、街の印象がまったく違って見える。都会的な景観の一部に自分も入り込んでしまったかのようで、まるで不思議の国のアリス。ほろ酔いも助長して、ものすごくふわふわした気分になる。それに。

 一緒に東都水族館に行ったときも思ったが、安室の髪がさらさらと流れるように揺れるのがとても綺麗で。本当に降谷とそっくりで、許されるのならずっと傍で眺めていたいと思ってしまうのだ。



case39. レモンスカッシュがなくなるまで


「どこかで少し飲み直しますか? と言っても、なまえさんはジュースでしょうけど」

 合コン会場だったギラギラとした飲食店が立ち並ぶ通りからは少し離れ、静かで粋な店が目立つようになってきた路地。安室は慣れたようにその道を選んで歩きながら、そんな風に彼女のことをスマートに誘った。まあ、自分が傍にいるのでもう酒を飲んだって構わないが、耐性のない彼女が潰れてしまっては可哀想だし。それに自分は彼女と一緒なら、たとえジュースだって構わない。

 しかし、そんな安室の考えを知らないなまえは笑顔で首を横に振る。その細めた目には色気があって、安室はかなりドキドキした。


「ううん。歩いてる方が楽しいから」
「え?」
「安室さんと歩くの、好きなんです」


 突然発せられた彼女からの殺し文句のようなその一言に、安室の心臓は激しく脈打った。とっさに顔を背けて表情を見られないように隠したが、どうにも処理できないほど口元がにやけているのが自分でもよくわかる。昨日は徹夜明けで書類整理の仕事があり、本当はくたくたに疲れた挙句に合コンだなんてなまえがいなければ絶対に来ていないが、来てよかった。あの場から連れ出してよかった。勇気を出してこの手を引いてよかった。そう思い、けれど気持ちを悟られないように彼女の小さな手を一瞬だけ強く握った。

 わかっている。本当は、彼女が珍しく酒なんか飲んだせいで、その酔いのまま思いついた言葉を口にしているということくらい。でも、今はそれに甘えていたいのだ。これまで何年も我慢した想いなのだから。

 一方のなまえは安室の想像通り、自分が大それたことを言ってしまったという自覚はなかった。ただ、歩いているおかげで血流がよくなり、酔いが回ってきたというのは確かである。さっきからずっと視界が揺れていて、きっと安室の手がないともう上手に歩けそうにない。

 けれど、彼と一緒に歩くのが好きだということには微塵の嘘もなかった。彼はいつもキラキラしたものを見せてくれるから。

 彼自身も、そう。


「……僕も」
「ん?」
「僕も、なまえさんと歩くの好きですよ」
「え、本当?」
「ええ。でも」
「?」
「歩くのだけじゃ、ないですけどね」


 お返しとばかりに安室は冗談めかした告白まがいの言葉でそう言うと、改めてなまえの方に振り返る。途端に深い色をした彼の瞳と目が合って。その目に微笑まれると、今度はなまえの方が萎縮して思わず視線を外した。しかし、目ざとい彼がそれを許すはずもなく、首を傾げるようにして彼女の視線の先を覗き込んで逃すまいと捕らえる。そしたら、また戯れのように目が合って。一連の動作に、なんとなくふたりして吹き出すように笑った。

 ふたりの悪い遠足は飲み屋ばかりの繁華街を抜け、いつの間にかビジネス街にまで差し掛かってきてしまったようだった。安室は冷静に、これ以上先に進むと、逆に連れ回していることを彼女のルームメイトに察せられそうだと判断し、立ち止まる。地下鉄の入り口が傍にあって人通りも少なくないし、迎えの車もここなら拾いやすいだろう。本当は自分が彼女を無事に家まで送り届けたい気持ちでいっぱいなのだが、そうすると彼女が怒られてしまう可能性も出てきてしまうのではないかとまたも変に勘ぐってしまう。それはそれで彼女が可哀想だ。でも、自分だってせっかく掴めたこの手を今すぐには離したくない。

 まるでせめぎ合いのような計算を彼が頭の中で繰り広げているうちに、酔っ払いのなまえは上機嫌で周辺をきょろきょろとしていた。そして、赤色の馴染みある自動販売機を見つけるや否や、彼の手を引く。


「安室さん。ちょっと飲み物買ってきてもいいですか?」
「あ、ええ。僕も買いますよ。何にしますか?」
「うーんと……あっ」


 レモンスカッシュ! その声を発したのは、なんと重なるようにふたり同時だった。なまえは驚いたが、その次の瞬間には口角を上げた彼が小銭を入れてそのボタンを押している。ガコン、と排出された缶を安室から受け取ると、とても冷たくて、なまえは自分の体温が子どもみたいに高いということを思い知らされてしまった。

 それは高校時代によく購買の自販機で買ったのと同じものだった。安室は再び同じ動作を繰り返して、自分の分のレモンスカッシュを排出口から取ると炭酸飲料特有のいい音でプルタブを開ける。遅ればせながら、なまえも後を追うように爪を立てて開けると、一気に青春の記憶が広がったような気がして郷愁にかられた。


「お好きなんですね、これ」
「そうなんです。これ、私の『ふるさと』なんですよ」
「え?」
「高校時代の、大事な思い出」


 そう言って、たかが缶ジュースを抱えるように大事そうに持つ彼女に、安室は胸が締めつけられた。降谷と諸伏となまえ。かつて諸伏がそう称した似合わない言葉を借りるとすれば「さんこいち」だった彼らが、放課後よく買って飲みながら帰ったレモンスカッシュ。それを未だに宝物のように大切にしている彼女の姿が、愛おしくてしょうがない。

 そしてそれを、降谷と同じ顔をした安室に「ふるさと」だと言ってのけるのだ。三人だけにしかわからない、出会いのきっかけの歌にちなんで。

 すべてを話してしまおうか、と安室が思ったのはそのときが初めてだった。けれど、その勇気が出なくて、結局、彼女の言葉を復唱するように、思い出か、と呟く。その声はわずかに震えていて、情けないなと自嘲した。告げてしまえば最後。その輝かしい思い出は、彼女にとって苦しい悪夢に変わる。

 諸伏が死んだと聞けば、彼を慕っていたなまえはきっと心を壊すだろう。そんなこと、できるわけがない。

 何も知らないなまえはその後も周囲を落ち着きなくうろついたり、鼻歌で『ふるさと』を歌ってみたり、リズムを取るようにるんるんと頭を揺らしたりしていた。その様子を微笑ましく、そして切なげに見ていた安室は、ジュースを買うために離れた手を、再び繋ぎ止めるように握りしめる。そして、車道との境目にある柵にもたれてしばらく談笑することにした。

 安室は、彼女を引き止められるのはこのレモンスカッシュがなくなるまでだ、と自分から期限を切っていた。帰るのが遅くなることを、彼女のルームメイトはよしとはしないだろう。幹線道路を横切っていく夜風を受けて、彼女の酔いを冷ます時間にもなればいい。そしてこの夢のような時間が、いつか自分の「ふるさと」になるように深く胸に刻みつけよう。あの頃と同じように。


「あのワンピース、可愛い」


 突然、そう言ったのはなまえだった。それは目の前の服屋のディスプレイに飾られた、白地に黄色いレモン柄のノースリーブワンピース。閉店後の店内に飾られているためかなり暗いが、まるで目を引くようにその一着だけが他よりも映えて見え、一目で彼女に似合うとわかる。今度買いに来ようかなと少女のように笑う彼女に、安室はとっさに先日の赤いワンピース姿を思い出してこう言った。


「そういえば、この前着ていた緋色のワンピース。あれも十分大人っぽくて素敵でしたけど、あなたには赤よりも、ああいう可愛らしい雰囲気の方が似合うと思いますよ」
「そうですか?」
「ええ。もし今、店が開いていたら僕が買って差し上げていたと思います」
「え、そんなに?」
「むしろ、ブランド名や色や商品名などで検索すれば……ほら、もう購入まではあとボタンひとつで……」
「えっ、えっ、えええ」


 安室が目の前の洋服をスマートフォンで検索すれば、同じタイプの商品がすぐにヒットした。そしてその画像の下には「今すぐ購入する!」というボタンがあり、なまえは目の前の服と同じかどうか凝視するために安室の手に触れてその画面を覗き込む。それがいけなかった。

 とっさにふたりの距離が詰まり、下げていた安室の視界には彼女のブラウスの隙間から白い胸元が見えた。見てはいけないと思いながらも、最近そういうことはご無沙汰だし、しかも相手は自分が長年想いを寄せる女だ。自然と視線が吸い寄せられるようにその谷間を見てしまい、勝手にひとりで悶々としてしまう。というか、酒飲んだからって隙ありすぎだろ。手も、自分から触れていることにどうやら気づいてないようだし。

 やっぱり目が離せない、昔から。そう思った瞬間になまえが顔を上げて、至近距離で目が合った。


「えっ! あ、安室さん!? ちょっと何やってるんですか!?」
「え?」
「ボタン! 本当に押すなんて!」


 何やってるんですか! と言われて、能天気にも安室は自分が彼女の胸元を見ていたことがバレたのかと思った。だが、実際は商品をチェックするために見ていただけのはずが、いつの間にやら購入ボタンを押していたらしく。トラックのアイコンとともに悠長に届け日が画面には表示されている。こうなればもう、どうしようもない。


「……か、買っちゃいましたね」


 なぜか安室の家に届くことになってしまった女もののワンピース。さすがにそれを見たらなまえも酔いが覚めて、安室と距離を取りながら必死に彼にすがった。


「お、お金払います……!」
「いいですよ。さっきも言った通り、お店が開いていたら買ってあげていたと思いますし、気にしないでください」
「でもっ」
「それに。届いたらまた、あなたに会う口実になりますから」


 とか言うのは、ちょっとずるいですかね。安室はそう言って冗談っぽく笑うと、なまえは真顔で言い返す。


「別に届かなくても会えますけど……?」


 おい。絶対それ、無自覚だろ。安室はそう思い、軽く睨みながら彼女のことが恐ろしくなる。昔から色恋沙汰になるとどうしてこうも鈍いのか。あのルームメイトも、きっと同じことを思って手こずっているに違いない。いや、できることなら一生手こずっていて欲しい。

 やっぱり帰したくないな。安室は眉を下げて、はっきりとそう思った。手元のレモンスカッシュの量が減るにつれて生ぬるくなってきていて、その温度が別れの時間を静かに知らせている。このまま奪い去ってしまいたい。何もかも捨てて、彼女とふたりきりになれたらどんなに楽か。そんな、できもしないことを考えてしまう。

 しかし、実は酔いの覚めたなまえも彼と同じことを考えていた。けれど、安室と違うのは、沖矢に怒られたくないからという子どもみたいな理由が先行してしまっていること。合コンとうそぶいてしまったことを絶対に怒られるに違いない。だからため息交じりにこんなことを呟いてしまう。


「帰りたくないな」
「え」
「あ、いや、今のはちょっと別の意味で」


 安室は一瞬、なまえも同じ気持ちなのかと思った。なら話は早い。このまま朝まで一緒にいればいい。それは夢にまで見た彼女との幸せな朝になるはず。

 けれど、これ以上一緒にいたらもう自制が効かなくなることは自分でもよくわかっていた。きっとこのまま近場のホテルに連れ込んで夜通し、体力が尽きるまで彼女を抱いてしまう自信さえ今の安室にはある。けれど、そうしたくなかったのは、安室透という男のままで工藤なまえを抱きたくないという意地が芽生えてしまっていたから。

 この先、何もかもを終えた後。十三年前、彼女に恋をした降谷零の姿でこの想いは遂げたい。「ふるさと」を大事にしている彼女の姿を見て、いつの間にかそんな風に感化されてしまっていたのだ。


「帰りたくないのは僕も同じですが、今日はルームメイトに連絡をとってあげてください。きっと彼も心配していますよ」
「……」
「大丈夫。彼が近くに来るまでは傍にいます。まあ、ちょっと妬けてしまうので、会うのはできれば避けたいですけどね」


 安室は立ち上がり、飲みきった空き缶を自販機の横にあったくずかごに投げ入れた。どうやらタイムリミットだ。そう思い、笑う。

 同じタイミングで飲みきったらしいなまえは、きちんとくずかごに寄っていって空き缶を捨てた。そしてまた安室のところに帰ってくると、改めて「連れ出してくれてありがとう」と礼を言う。おかげで楽しかった、と言うと、安室は照れながら口を開く。

 もしも、別れるのが惜しいと思ってくれているのなら。その想いを次に会うときまでずっと持続させていてほしい。そんな願掛けのために、彼は口火を切った。


「なまえさん。もし都合が悪ければ、聞き流していただいても構わないのですが」
「はい」
「……少しだけ、抱きしめてもいいですか」


 なまえから見るに、彼のその表情は「悲痛」だった。どうしてそんな顔をする必要があるのだろう。なまえはそう訝しげながらも緊張し、そして元気づけるためにも両手をわずかに広げる。本当は恥ずかしくて視線も上げられなかったが「どうぞ……」とおずおず消え入りそうな声で言えば、安室は衝動を堪えきれないようにすぐになまえを腕の中に招き入れた。

 そして、彼女が抱えている宝物の思い出ごと、優しく抱きしめるように。安室は無言のまま、その体温を身体に刻み込むように感じていた。このまま、永遠に時が止まってしまえばいいのに。


「……どうしよう……私……」


 一方のなまえもまるで口の中で呟くように、絶対に聞こえないような戸惑いの言葉を彼の胸の中で発してしまっていた。肺いっぱいに吸い込んだ彼の匂いに、絶対に気づいてはいけなかった感情の芽生えを知って困惑する。

 それは沖矢や新一には止められている禁忌であるはずなのに、彼女にも予想だにし得ないところで少しずつ歯車は動き出してしまったのだ。

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