40...


 まるで壊れ物を包み込むような優しい抱擁の後。なまえと安室はしばらく何とも言えない甘い空気に浸っていたが、なんとかルームメイトである沖矢に連絡を取らなくてはならないことを思い出し、少し距離を取って互いに沈黙していた。その間も安室はずっと名残惜しむように大事そうに彼女の手と自分のを重ねていて、なまえは自覚したくなかった自分の気持ちが、そこから流れ出るようにバレている気がして震えてしまう。

 安室のことが気になっているかもしれない。それは二十九歳にして、遅すぎる初めての恋の芽吹きだった。

 第一、どうしてその相手が彼だったのだろうか。降谷に似ているから? それとも、安室透だったからこそなのだろうか? 恋をしたことがない彼女がその理由について解くのは些か不可能に等しい難問で。こんなこと、絶対に誰にもバレてはいけないと、まるでいけないことをしているような気になって心ごと口を閉ざす。

 一方で、混乱していたなまえの震えを、安室は、彼女が自分と降谷零を重ねているせいだと感じて自分を責めていた。こんなにこじれた関係になってしまった元凶は、すべて自分にある。抱きしめることを許可してくれたのだって、本当は彼女が優しいから断れ切れず流されてしまっただけなのだろうし、きっと困らせた。どうしよう、と腕の中で彼女に呟かれたような気もして、後ろめたさが募っていく。

 何をやっても裏目だな、僕は。安室はそう思い、気づかれないほどの小さなため息をついた。そして、ルームメイトである彼に連絡した時間と家までの距離と速度を頭の中で計算して、機を見計らってその場から立ち去るより他にできることはない。大丈夫、引き際は美しく。五年前のように、痕跡すら残さない。そういうことだけは、得意だから。


「じゃあ、僕はこれで。服のことはまた連絡しますね」
「あ。はい、すみません……」
「おやすみなさい、なまえさん。気をつけて」


 最後に別れを惜しむように頬を撫でて立ち去っていった彼の後ろ姿を、なまえは見えなくなるまで眺めていた。そして、それからかなりのニアミスなタイミングで沖矢がその場に到着したのだった。

 ハザードランプをつけて路肩に寄せた沖矢の愛車に乗り込むと、なまえはさすがの気まずさから何も言えずに硬直してしまっていた。その一種異様な様子を、沖矢は訝しんで観察する。嘘をついていた罪悪感や自責の念も確かにあるだろうが、それよりもいつも以上に上気した艶かしい雰囲気を彼女から感じ取り思わず声をかけた。


「どうかしましたか」
「え?」
「顔が赤いような」
「ん、っ……」


 沖矢の冷たい指で頬に触れられて、思わず色香のある声が唇から漏れた。そこは偶然、先ほど最後に安室に触れられた場所。沖矢はその反応に少し驚きながらも、冷静に彼女の体温の高さから判断する。


「さては、なまえさん。お酒飲みましたね」
「……つい、断れなくて」


 そう言うと、途端に車内の温度が冷えるのがわかった。それもそのはず、普段から酒を飲まない彼女が、しかも見知らぬ男ばかりの中で飲酒とあっては、想いを寄せる彼としては面白くないと思うのは妥当だろう。

 それに今の、甘い嬌声のような声。少し触れただけでこんなにも敏感になっている彼女を、他の男が見ていたのかと思うと虫唾が走る。


「やっぱり、あなたはいけない子だな」


 沖矢は怒り気味でハザードを消し、アクセルを踏んで車を走らせた。なまえは、今しがた触れられた頬に手を置いて自分の熱を移し、安室を含めたふたりの感触を消すことに躍起になる。しかし、指も頬もとても熱くて、もうすっかり酔いが覚めたと思っていた自分が、まだ思っているよりも酔っ払っていることを逆に思い知らされていっそう恥ずかしくなった。


「昴くん。怒ってる、よね?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「それは……私が嘘ついたから……」


 なまえはそう言うと、わかりやすいくらい一気にしょげた。その様子を横目に見た沖矢は、努めて冷静に彼女に告げる。


「別に怒っているわけじゃありませんよ。ただ、嘘をついて出かけるのは言語道断です。あなたにもし何かがあったら、助けにもいけないので」


 それは至極正論で、言い返す言葉もなかった。昔、母の有希子からも同じようなことを言われたことがあり、なまえは再びしゅんとして車に揺られる。


「ごめんなさい」
「素直に謝るとはいい心がけですね。それに免じて今回ばかりは、今後、僕に嘘をつかないと約束してくれたら許して差し上げますよ」
「……わかった」
「それで。そのコンパ、あなたのお眼鏡にかなうような男性はいましたか?」


 冗談めいて尋ねるようなその質問には、残念ながらさっそく答えられなかった。なぜなら「いた」と言えば話がややこしくなるし、「いない」と言えば今しがた交わしたばかりの約束を破ってしまうことになるから。

 だからなまえは黙って俯いているしかできない。けれど、その態度がもはや肯定だったのだ。


「ほう……?」


 面白い。彼女が赤面して言葉を詰まらせるほどの男か。沖矢はそう思いながら、さらにアクセルを強く踏み込んだ。そして自分だけが彼女を独り占めできる空間に帰るのだ。誰にも渡さないように。



case40. 恋の芽吹き


「なまえおねえさん、こっちこっちー!」

 広い倉庫型の店舗を走る歩美にそう言われて、なまえは彼女から目を離さないため手を繋ごうと傍に駆け寄った。どうやらバケツのように大きなアイスクリームに心を奪われてしまったようで、小学生らしい無垢な目はらんらんと輝いている。その様子がとても可愛いらしくて、毎日ひと匙ずつ食べても一年分以上はありそうなそれを「夢があるね」となまえも一緒に笑ったのだった。


「確かにすごい量だ。でも残念だけど、アイスクリームを持ってキャンプには行けそうにないね」


 そう言って、背後からがらがらとビックサイズのカートを押して来たのは、ご存知、沖矢昴。灰原哀と円谷光彦もその傍に寄って、見慣れない大きさのアイスクリームカップを興奮気味に眺めているらしい。

 今日は休日。実は博士からもうすぐ子どもたちと群馬へキャンプに行くというので買い出しを頼まれ、なまえと沖矢は子どもたちを連れてアメリカ発祥の会員制倉庫型小売店に来ていたのである。しかし、沖矢の車であるスバル360は四人乗り。法定定員上、後部座席に乗れる子どもは三人まで。なので今回は、歩美・光彦・灰原の三人と、博士と一緒に阿笠邸でキャンプ道具の整備に当たるコナン・元太に別れることになったのだった。ちなみに、元太を買い出し班にしなかったのは充実した試食コーナーから離れそうにないからという灰原の発案だが、コナンはおそらくなまえから例の合コンの件について叱られないための逃げである。


「歩美ちゃん。残念ですが、キャンプで必要な食材だけを買って帰りましょう。元太君もきっとその方が喜びますよ」
「うーん、そうだね」
「よしっ! ここ、レジの向こうにイートインがあってソフトクリームがあるはずだから、お姉さんがあとでこっそり買ってあげる。もちろん、元太くんには内緒だよ」
「えーっ! いいの!?」
「いいんですか、なまえさん!?」
「うん、いいよ」


 なまえはそう言ってキャッキャと沸き立つ歩美と光彦に約束すると、背後にいた灰原から呆れたように声をかけられる。


「それにしてもあなたたち。ペアルックなんて、いつもそんなに仲いいわけ?」


 それはなまえの白いマウンテンパーカーと、その色違いである沖矢の黒いパーカーのことを指して言っているらしかった。これは先日、米花百貨店へ所謂「デート」に出かけたときになまえが沖矢の前で買ったもので、そのとき沖矢も気に入った様子で色違いを買おうかと言っていたが、お揃いなんて恥ずかしいから嫌だと断ったはず。なのに、あの事件の喧騒に紛れて彼は秘密裏に同じものを購入していたらしい。

 なにせ文句を言おうとも、なまえも今日初めてそれに気づいたのだからしてやられた。着用感から見て、なまえが見ていないところでは何度も着ていたようだし、それにもう日が経ちすぎて返品もできない。まあ、それが彼の狙いだったのかもしれないが。

 ともかく、ここのところ沖矢の態度は露骨になまえを戸惑わせることばかりだった。特に、赤井秀一であることを明かしてからは、そのからかいに遠慮がない。まるで、本当に有希子の言うフィアンセを目論んでいるかのようで、なまえとしてはある意味、頭痛の種であった。


「わ、私はお揃いなんてヤダって言ったのに昴くんが……!」
「すみません。ですが、どうしても気に入ってしまったので」


 口ではそう申し訳なさそうに言う割に、まったく懲りていないような顔つきで彼は笑った。その態度に呆れているのは、もちろんなまえと灰原である。


「でもでも。ふたりは本当にお似合いの恋人さんだよね!」
「ええ! 佐藤刑事と高木刑事よりお似合いかもしれませんよ!」
「歩美ちゃん、光彦くん。私たちは美和子たちみたいに恋人同士じゃないから」
「まあ、時間の問題ですけどね」


 歩美と光彦に乗せられ、まんざらでもない表情で口を挟む沖矢。そんな彼を、つい、子ども達の前にも関わらず恨めしく思って睨みつけてしまう。

 しかし、なまえには本当は、心の中で気になりつつある人物がいるのだった。それはきっと、沖矢も新一も。いや、もしかすれば世界中の誰もがその想いを許してくれないとさえ思える人。安室透。なまえは彼のことを度々思い出して、未だその感情に「恋」という甘い名をつけてもいいのか躊躇ってしまう気持ちに陥る。

 その切なげな表情に、気づいていたのは灰原だけだった。




 買い物を終えるとさすがに小腹が空いていて、約束のイートインで軽く何かを食べてから帰ろうということになった。歩美と光彦はソフトクリームと、灰原と沖矢は暖かいスープストック。そしてなまえはというと、色気もなく大きなホットドッグを注文し、それにかじりつきながらそういえばと思い出す。


「ねえ、昴くん。スマホ持ってる?」
「ええ。どうかしましたか?」
「私の、昨日充電するの忘れちゃったみたいで電池切れちゃって。ちょっと調べたいことがあるから借りてもいいかな」
「それは構いませんが、何を調べるんですか?」
「今日ラスベガスでやってるボクシングの試合。さっきからめちゃくちゃ気になってて!」


 なまえの口からボクシングと言う単語が出てくるとは思いがけず、その場にいた全員がそれを意外に思った。沖矢、というより赤井自身はジークンドーの達人であり、妹の真純もその影響で好んでいるようだが、そもそも格闘技を好きだと言う女性は一般的に少数派。しかも、真っ先に「野蛮だ」と切り捨てそうなタイプであるあのなまえがボクシングを好きだとは。

 みんなが驚いていると気づいたなまえは、ふと笑ってその理由について話す。


「昔、友達がやっててね。その名残なのかな。護身術に基礎だけちょっと教えてもらったことがあって、こう見えて結構好きなスポーツなんだよね」
「なまえおねえさん、蘭おねえさんみたーい!」
「格闘技が好きな女性ってステキですね!」
「ま、敵には回したくないわね」


 でも蘭ちゃんみたいに強くはないよ、と優しく子どもたちに言うなまえの横顔に、沖矢は強い好奇心を抱いた。きっと彼女の言うその「友達」とは話に聞く高校時代の友人であり、彼女に好意を寄せていたはずの彼だとなんとなく察したからだ。

 彼が絡む話なら、同じく彼女に好意を寄せる身としてはぜひとも詳しく聞いておきたい。沖矢はそう思いながら、半分ほどかじったホットドッグを片手にスマホで熱心に試合結果のニュースを読んでいる彼女へからかい半分で声をかける。


「でも、なまえさん。せっかくキャンプの買い出しに便乗して肉を買い込んだというのに、こんな時間に食べて。夕飯のビーフシチューは食べられそうですか?」
「あー、忘れてた! 確かにお腹いっぱいかも」


 ビーフシチューはやめて、何か軽いものにしない? 天真爛漫に彼女がそう言いかけたとき、沖矢はなまえの手首を強く掴み、顔を傾けて彼女が持っていたホットドッグを強引にかじってしまう。しかもかなりの大きなひと口で、彼の口の端には赤いケチャップがつき、それを親指で拭って舐めとった。その、あまりに野生的な行動は沖矢というよりは赤井そのものであり、なまえは一瞬ぎょっとする。そして、可もなく不可もない味ですね、と辛辣な感想を言う彼に目を瞬かせた。

「すごい、ラブラブだねっ!」

 興奮気味にそう言う歩美にまたもまんざらでもない表情を浮かべる沖矢。こんなの、まるで子ども相手に見せつけているかのようだ。なまえはげんなりして「もう知らない」と投げるようにスマホを返し、それから車に乗るまでは再び口を利かなくなってしまったのだった。

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