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渡米して五年目のアメリカ、メリーランド。第二の母国としてすっかり慣れ親しんだ生活を送りながら、がむしゃらに法医を学んでいた二十三歳のなまえが日本に一時帰国をすることになったのは、高校時代からの親友である諸伏景光から突然こんなメールを受け取ったからである。
『ゼロがボクシングの試合に出る、らしい……』
それを見た当初、彼が何を言っているのかイマイチよく理解できなくてすぐに急用とうそぶいて彼らの寮へと国際電話をかけた。この春、降谷と諸伏は揃って大学を卒業し、ふたりとも警察官の採用試験に無事合格。夢への第一歩である全寮制の警察学校に入ったとは聞いていたが、知らぬ間に降谷はプロボクサーに転向したのかと、まるで親のようになまえは彼の先行きが不安になってしまう。しかも、ジュニア大会とはいえ、降谷自身に優勝経験のあるテニスならまだ話はわかるが、ボクシングなんて野蛮な競技。友人としては断固反対だ。
その旨を早口でまくしたてるように電話で話せば、諸伏は持ち前の明るさでなまえの心配を笑い飛ばし、そして普段と変わらない悠長な口ぶりでこう言う。
「いやー、なんか成り行きでさ!」
「は」
「警察学校で出会った奴に教わってたら案外筋がいいってことになって、試しに出てみることになったらしいんだよ。ま、初心者同士の試合だし、そこまでひどいことにもならないだろ。まして、あのゼロだし。結果はまた写真と一緒にメールで教えてやるから、なまえも安心してアメリカで応援してやってくれよな!」
正直、彼の言葉に頭が痛くなった。それからすぐ周囲がガヤガヤしたかと思うと、彼は途端に慌てたように「もうすぐ点呼の時間だからまたな!」と一方的に通話を切ってきたので、なまえは途切れた電話に向かってぶつぶつ文句を言う。
こうなればヤケだ。諸伏が止めないなら、代わりに自分が降谷を止めるしかない。家族の次に大切な彼が誰かに殴られる姿なんて、考えただけで胸が張り裂けそうである。
なまえはそう決心するや否や、すぐさまネットで一時帰国のための便を取った。何はともあれ、久しぶりに友人たちの顔が見られる。それを思うと、見たくもないボクシングというスポーツはさておき、なんだか楽しみで。三人で集まればたちまち高校時代にタイムスリップするみたいに楽しくて、つい気持ちまで高ぶってしまう。日頃、物言わぬ死体と対峙して頑張っている自分への、ご褒美になればいい。
それに、そろそろ生意気盛りな可愛い弟の顔も見たいと思っていたところで、これがちょうどいい機会になると思ったのだった。
case41. 魅惑のラウンドガール
某日。日曜日の昼、杯戸アリーナ。
数日前から諸伏と降谷には内緒で日本に帰国していたなまえは、珍しくセクシーなスリットの入ったレモンイエローのミニ丈タイトスカートを履いて、風が通る素足を恥ずかしく思いながらこそこそと試合会場入りを果たした。この服は決してなまえの趣味なんかではなく若い頃の母の持ち物であったが、ボクシングを見にいくと言った途端、母に言われた一言がきっかけで無理やり着せられてしまったのである。
『Aくんがボクサー、Bくんがセコンド。そう来たら、なまえちゃんはもっちろん! ラウンドガールしかないでしょ!』
その会話を思い出すだけでもややげんなりしてしまうが、とにかくスタイリスト有希子曰く、今日のコーディネートテーマは「魅惑のラウンドガール」であるらしい。その証拠に上も下もボディラインがはっきり出るような服を着せられ、まったく娘をなんだと思っているのだと憤慨してしまう。しかもよく考えると、アマチュアの試合にラウンドガールがいるわけもなく、ましてや自分と同世代の女性観客も少ないようで逆に会場では悪目立ちしているようであった。
自分が来ていることを知られないために、これまた同じく有希子の私物である大きめのティアドロップのサングラスをかけたまま会場に入れば、中央に設置されたリングを中心に会場は既に熱気に包まれていた。初心者同士の試合ということもあって席は特に決まっていないらしく、一度気を落ち着かせるために適当な場所に座れば、ひとつ席を空けて踏ん反り返るように座っていた男性がこちらを見やる。小顔の割に大きなサングラスをかけていた彼は、その風態だけ見るとサングラス繋がりでまるで自分の連れのように見えた。
「あ」
「え?」
「アンタ、なまえちゃんじゃねえの?」
そんな彼にいきなりのタメ口でそう言われ、空けていた席も飛ばしてぐんぐんと距離を詰められる。それにはなまえもさすがにビクついて、おずおずと後ずさった。すると彼はサングラスを外し、不敵な顔でさらにその距離を詰めてくるから話にならない。ともかく顔が近い。排他域が犯されている。
第一、なぜこちらの名前を知っているのだろうか。見知らぬ人間に個人情報を勝手に知られていること以上に恐ろしいことはなく、なまえはとにかくその無造作で少し癖の強い髪をした彼を威嚇するように軽く睨みつける。しかし、有希子お気に入りの女優眼鏡越しではそんな不信感のこもった視線はあいにく届かず、普通にスルーされた挙句、続けて彼はのうのうとこんなことをのたまうのである。
「降谷の女、だろ?」
いや、諸伏の女だっけ? そう言われた瞬間、なまえの顔は燃えるように熱くなった。さすがにサングラスを外し、焦りに震えながら返事をする。
「ち、違います! というか、なんで……」
「へえ、なかなかいい女じゃん。写真しか見たことなかったけど」
「なんで。サングラスしてたのに」
なまえがそう言うと、彼は無邪気に笑う。
「そりゃわかるだろ。こう見えて一応、俺も、警察の卵なんだからさ」
そう言われて、なまえはようやく彼が誰なのかを理解した。彼はおそらく諸伏が電話で言っていた「警察学校で出会った奴」。つまり、降谷に野蛮なボクシングを教えた張本人である。
諸伏から話を聞いたときは、その人に会ったら何か一言でも言ってやろうと思っていたのに、彼の物怖じしない雰囲気に飲み込まれるようになまえは完全に負けてしまっていた。そして、言いたい言葉をうやむやに飲み込んで、しょげたように大人しく彼と隣同士で座る。すると、彼はその諦めた様子をふとほくそ笑んで、さらに会話を続けてきた。
「アメリカに行ってるって聞いてたけど、まさかわざわざ今日の試合見に来たのか?」
「……まあ、そうですね」
「ヒュー、やるじゃん! このこと降谷に伝えたら、あいつもますます気合い入るな!」
「あ、待って。零には内緒にしてるからまだ来てるって言わないで」
その言葉の意味がわからず、彼は「はあ?」と面白くなさそうな表情でなまえのことを見つめていた。それに隙を見たなまえは、今日ここに来た目的でもある降谷の出場停止についてまずは彼を説得することにする。なんとか彼を欠場にはできないんですか? 友達が殴られるところなんて見たくないんですけど。しかし、そう懇願するように言ったのに、彼は長い足を組み替えて屈託なく大笑いした。そして、今さら無理だろ、と半ばなまえのことを莫迦にするように明け透けに言う。
「っつーか、言わないでって言われても。あいつならすぐ気づくだろ。アンタのそのエロい格好、はっきり言ってすげー浮いてるし」
「え」
「安心しろよ。似合ってっから」
そういうことが言いたいんじゃない。なまえはとっさにスカート丈を伸ばし、座ると上がって露わになる太ももを隠した。その様子が彼には面白いようで、まだからかうみたいにけらけらと笑っている。諸伏や降谷とはまたタイプが違う。だからこそ仲よくなったのかもしれないが、割りかし軽薄な印象を相手に与えやすい男だと思った。苦手なタイプ、かもしれない。
なまえがそんな風に思っていると、彼は腕時計で時間を確認し、再びサングラスをかけ直す。時刻はもうすぐ第一試合が始まる時間だった。事前に聞いていた諸伏の話によれば、降谷は出場申し込みが遅くてかなり最後の方の試合だという話だったと思うので、目の前の彼はその間、どこかに行って暇でもつぶしておくのだろう。
だが、そうではないということがすぐに彼の口から明かされる。
「じゃ。俺、降谷のセコンドだし行くわ」
「え、セコンドはヒロなんじゃ……?」
「あいつは今日はカメラだよ。アンタのためにわざわざ写真に詳しいっつー教官から馬鹿みたいに重たい一眼レフ借りてたぜ」
「……」
「それより、アンタ、ツイてるな。試合前にいろんな席ぐるぐる回って確認してたんだが、今空いてる中じゃここからが一番リングが見やすい」
だから最後まで、降谷の有志しっかり見とけよ。そう言ってぐしゃぐしゃとまるで犬でも撫でるように頭を撫でて、立ち去って行く彼の背中になまえは問う。
「ま、待って! あなたの名前は!」
すると彼は口角を上げてくるりと振り返る。そして軽く右手を上げた。
「松田陣平。降谷に飽きたら相手してやるよ」
その姿に、なまえは先ほど思ったことを自分で撤回した。諸伏と降谷と彼が友人になる理由がなんとなくわかったような気がしたのだった。
今日出場予定の選手が一同に集められ、ぴりぴりとした雰囲気を放つ控え室。その中でもやはり降谷はその容姿的に最も目を引き、会場入り時はすれ違いざまに野次を受けたこともあって、部屋の隅で静かに目を閉じ瞑想していた。その、誰も初試合とは思えないあまりに落ち着いた姿には既に熟練された強者のオーラが漂っており、初心者で不良上がりの参加者たちの中には恐れる者はいても、もう彼を野次る者は誰ひとりとしていない。
そこへふらふらとした足取りで入って来たのは本日のセコンド。暇つぶしがてら勝手に降谷の名で試合に申し込みをした厄介な友人である松田陣平である。彼はなまえと別れた後、たっぷりと一服してからこの控え室にやって来ていた。そして控え室の張り詰めた空気を逆撫でするかのように鼻歌交じりで降谷の元へ近づくと、精神統一中でもお構いなく強引に友人の肩を抱く。もちろん面白半分。わざと彼の集中力を削いでいるのであるが、降谷は松田から声がかかるまで目を閉じていたくらい、恐ろしい集中力で感覚を研ぎ澄ませていた。
「おー、降谷。緊張してっか?」
「いや、普段通りさ」
「なんだ、随分余裕そうじゃん。つまんねえの」
「悪かったな。僕はいつもこうだよ」
そう言って、バンテージを巻いた手のひらをにぎにぎと繰り返す彼に、松田は相変わらずだなと笑う。けれど、今の彼には降谷のその「普段通り」を崩す術を知っていた。
「そんなお前にとっておき、教えてやるよ」
「何だよ。試合前に」
松田はにやにやと肩を抱いたまま、そして耳打ちするように告げる。
「工藤なまえ」
「……は」
「今、ここに来てた。俺、ちょっとしゃべっちまったし」
すると降谷は真顔ですっと立ち上がり、無言のまま足早に控え室を出て行こうとする。あまりに一瞬の出来事で驚く間もなく、松田は慌ててそれを制止した。もう既に試合は始まっており、セコンドならともかく、参加者はここから不容易に出てはならない。降谷ならそれを知っているはず。
「待て待て。どこ行きやがんだよ」
「決まってる。なまえのとこだよ」
「今行かなくても、試合が始まったら嫌でも見えるって。リングから一番よく見える位置に座らせてきたし」
「どうせ僕に『野蛮な競技に参加するな』とかなんとか言いに来て、結局お前に会ったから言えないまま黙って座って観戦してるんだろ。むさ苦しい男ばかりの中で目の毒だ、帰らせる」
「……いやまあ。そりゃ、大体当たってっけど」
諸伏からは重々聞いていたが、松田は降谷の、想像以上の過保護さに呆れて逆に言葉を失っていた。しかし、もう始まってしまったものは仕方がない。あの女は釘を刺した分、降谷の有志をしっかり見届けてから帰るつもりだろうし、その方が降谷のやる気にも繋がる。好きな女に下手なパンチを見せるわけにはいかないからだ。
ただ、それはある種の賭けだった。降谷に限ってそんなことはないと思いたいが、あまり動揺させすぎると今度は空回ってしまう可能性もないわけでもない。そこはセコンドとして、選手の精神状態をきちんと見極めるのが本来の仕事である。
しかし、公式戦ならさておき、ほんの暇つぶし程度の気持ちで申し込んだ松田にとってはセコンドの仕事なんて割りかしどうでもいいことだった。それよりも今は、工藤なまえの名を口にしただけで我を失う友人の降谷が面白すぎて、だめ押しとばかりに焚きつける。
「あ、そうそう。お前の女、今日は黄色のミニ丈のタイトスカート履いてっから、試合中に生足見えても興奮すんなよ?」
すると、案の定、降谷は思いっきり動揺した。
「生足!? ……悪い。やっぱり今からちょっと行って」
「あー、俺が悪かったからとりあえず落ち着け」
松田は再び降谷の首根っこを掴みながら、今にも飛んでいきそうな友人を制止した。もうすぐアップの時間だぜ、相棒! と、調子よくそう言うとようやく彼も落ち着いて「松田、お前後で覚えとけよ」と言われるのであった。