42...
なまえは松田に言われた通りのリングが見渡しやすい席で、目を覆いながら次々に進む試合を見ていた。グローブやヘッドギアをつけているとはいえ、未だにただの殴り合いにしか見えない。こんな競技をこれから降谷がするのかと思うと胸が張り裂けそうで、最後までこの場所にいられるかどうかも不安になってしまう。やっぱり是が非でもやめさせるべきだったかもしれない。
試合は一ラウンド三分の三ラウンド制。各ラウンド毎に一分間のインターバルが入ることになっているらしく、ひと組の試合にかかる所要時間は最長でも十一分ということになる。ラウンド中に相手のパンチによって倒れ、レフェリーが十まで数えても起き上がれない場合はノックアウト。相手との差がどう見てもありすぎたり、負傷したりした場合にはテクニカルノックアウトになるらしい。ラウンド内に決着がつかない場合は判定で勝敗が決められ、審判の判断によってそれぞれ勝敗の決まり方の名が変わる……と、やけにルールについて詳しくなってしまったのは、後ろに座る妙に馴れ馴れしい帽子の男性にそう教えられたからで、ルールすら一切知らなかったなまえは試合を見ながらそのスポーツ性についてどうにか理解してみようと試みた。しかし。
「……エイトッ、ナインッ、テンッ!」
鳴り響く終了のゴングに、鼻血を流して動かない選手。それに異様なほど興奮し、沸き立つ観客たち。医師として本当にこれは大丈夫なのかと血の気が引く思いがする。
すると、リングの下ではようやく次次回の試合である降谷と、セコンドの松田が控えのために登場した。なまえはその瞬間、ドキリと心臓が脈打つ。零って、あんなに逞しかったっけ。腕は見ないうちに隆々とした筋肉がつき、その鋭い目は闘う男の目をしている。あれ、今、ドキっとした? いやいや、ないない。
なまえがそうして首を振って打ち消しているとき、降谷の視線がこちらに向いた。そしてばっちりと目が合った途端、彼の口が短く開閉する。読唇術など備わっていないが、皮肉なことにその二文字だけははっきりとわかった。
馬鹿、だ。
その言葉にカチンと来た。すぐに視線を逸らされ、まるで何事もなかったかのように首を回したり軽くジャンプしたりする降谷に、届かないとはわかっていても言い返したくなる。
「誰のために、どれだけ心配して一時帰国したと思ってるのよ。馬鹿……!」
試合終わったら絶対こっちが一発殴ってやる。そう思い、嫌々ながらも目の前に試合に視線を移すのだった。
一方の降谷は会うまで信じられなかったなまえの存在が本当にこの会場にいたことに僅かばかり緊張していた。これで松田の言う通り、下手なパンチは打てない。そして何より。絶対に負けてはならないのだ。たとえ、どんなことがあろうとも。
とはいえ、なんだよあのスカート。短すぎだろ。馬鹿か、あいつは。
悶々とする降谷の様子を見て、すべてを察したらしい松田はげらげらと笑った。そして拳を作って、降谷の前に差し出す。
「見せろよ、降谷。早めに終わらせてさっさとあの女抱いてこい」
当然そんな関係にはまだないが、降谷もまた同じく拳を作る。
「それはできないが。見せつけるつもりでは、ある」
そう言うと、ふたりは互いの拳を軽くぶつかり合わせた。画して、彼らの試合が始まったのである。
case42. 勝利の女神
第一ラウンド。始まってすぐ華麗なサイドステップで翻弄してきた相手に対応し、冷静にかわす降谷はまずは相手のことをじっくり観察することに努めているようだった。対戦相手は降谷とほとんど背格好変わらない男だったが、どこかのジムに所属をしているようでセコンドにはまるで反社会組織の一員かと疑いたくなるようないかつい男がついている。互いに慎重にジャブを打って牽制しあっているうちに、あっという間に開始二分を過ぎた。
そこからようやく降谷は動き出し、ボディーのフェイントを入れてから得意の右ストレートで相手の頬に強烈な一発を打ち込む。プロ顔負けの見事な決まりように周囲でも歓声が上がり、なまえもとっさに前につんのめった。軽くくらりとした相手はすぐに体制を立て直そうとするが、そんなことをあの降谷が許すはずがない。問答無用でその隙を狙う。
……はずだった。しかし、急にそのパンチは弱々しいものになり、相手が姿勢を立て直すきっかけを作ってしまう。これにはさすがに会場も、そしてなまえ自身もやきもきした。打つなら打て。それで、早く終わらせて。祈りにも似たその思いに手に汗を握った瞬間、ラウンド終了のゴングが鳴る。
ボクシングはただ三分間立っている方が勝利というスポーツではない。相手の出方を見て、それに臨機応変に対応する力。それに一撃を仕掛ける好機を常に張り詰めた集中力の中で闘わなくてはならないという、かなり神経的にも磨耗の激しいスポーツである。降谷は息を切らせて松田の元に戻ると、苦虫をかみつぶしたような顔をして水を口に含んで軽くゆすいだ。
「テメー、やる気あんのか」
松田は珍しく怒っていた。それはあの超絶なパンチの次の一手が、降谷から出なかったことに。あんなの、練習のときならもっと貪欲に打ち込んでいたはず。目の前にいるのが、松田の知る降谷なのなら。
しかし、降谷は乱暴に自分の口元を拭うと、それを上回る怒りの表情で松田を捉えた。それには一瞬、セコンドも彼もぎょっとする。
「な、何だよ……」
「松田。頼みがある」
「あ?」
「あいつ、盗撮されてる。なまえの後ろの席に座っている黒い帽子をかぶった五十代の男。すぐにヒロに連絡して捕まえてくれ。でないと先にあいつを殴りたくて僕の気が収まりそうにない」
冷静にそう伝える降谷に、松田はなまえの方へ視線を投げた。と同時に、彼女の背後で携帯電話をニヤつきながら確認しているらしい帽子の男も見え、顔をしかめる。ありゃ、マジだ。すぐにどこかにいる諸伏と連携をとって、捕まえさせなくてはならない。
しかし、松田には一点、気になることがあった。それならそれで、さっさとこの試合に蹴りをつけて自分で捕まえにいけばいいのではないかと思えたからだ。盗撮事件と試合はまったく別の話。先ほどのパンチを打たない理由には直結しない。いや、そうなるとすれば、それこそ降谷の隙である精神的な動揺だが、それじゃ降谷らしくもない。
「……っつーか、お前。それでパンチ打たねえんじゃねえだろうな?」
そう言うと、降谷はさも当然のように言い放った。
「そんなの、当たり前だろ」
「は?」
「……あいつ、僕が相手にいいパンチする度に前のめりになってるから、その隙を狙われて撮られてるんだよ。そんなの気づいたら、もう打てるわけないだろ」
それにはさすがの松田も、一呼吸置いて爆笑した。こいつ、どこまで警備会社やってんだよ。あれだけ試合に集中しながら、女のことも見て、それの盗撮にも気づき、挙句にその規則性を見てパンチをやめた、だと? つくづく敵には回したくねえ男だな、降谷零。
そろそろインターバルが終わる。松田は降谷の背を叩き、気合を入れて送り出すことにした。
「次のラウンドで諸伏に是が非でもとっ捕まえてもらう。あいつなら三分もありゃ十分だろ」
「頼んだ」
「だから、その次の最終ラウンドはお前が決めろよ。降谷!」
綺麗な歯列を見せて笑う松田に、降谷は頷く。
「ああ。それこそ、三分あれば十分だ」
第二ラウンドのゴングが鳴った。
その後の試合展開はまさに一進一退。今日の試合の中で最も接戦と思えるようないい試合ぶりであった。第二ラウンド冒頭からガードが目立っていた降谷に対し、相手はその隙をつけ入るように激しいパンチの連続で攻撃が入るのを狙う。そして強打のフックを降谷に決めると、カウントは取られないまでも今度は少しだけ降谷がよろめいた。そこを相手は見逃さない。第二ラウンドの時間ギリギリで、強烈なストレートを浴びせようとする。だが、今度は降谷の番。
そのままよろめいた体制から抜群の体幹を駆使し、守るのではなく、攻撃に転じてストレートを決めて見事に沈める。相手はリング上にダウンし、そのまま第二ラウンドが終了。その瞬間、なまえの後ろの席がやけに慌ただしくなったようだったが、すぐに相手選手が立ち上がったため試合は続行という判断になりそんなことは気にもならないほどの大歓声に包まれた。
そして第三セットは人が変わったかのように、降谷の殴打の嵐。相手はなすすべもなく守備に徹し、そしてそのまま硬いガードを決められたまま試合が終わる十秒前まで差し掛かる。
ここまでくれば判定で降谷が勝つことは目に見えていた。しかし、なまえは見たいのだ。あんなに野蛮だと思っていたボクシングというスポーツで、降谷が放つパンチが相手を一発ノックアウトで仕留めるところが。
「八……七……六……」
終了十秒前のカウントが始まる。懸命にジャブを繰り返す彼らの中で、先に降谷がその片鱗を見せた。
「五……四……三……二……」
そして左腕を引き、力を込める。
「一……ッ!」
ゼロ! その瞬間、強烈なボディーブローが相手の鳩尾に入ると同時にゴングが鳴り響いた。もう完全に立ち上がれないため、レフェリーが興奮気味にノックアウトを宣言する。それに思わずなまえは立ち上がり、降谷に向かって大きく手をあげた。
「零っ!」
金髪で碧眼。おまけに褐色の肌という、一見日本人離れした彼が、勝ち誇ったような笑顔を彼女に向けたとき。その瞬間こそ、なまえが「恋」をした瞬間だった。
試合終了後、会場前で待ち伏せをしていたなまえは降谷が来るのを今か今かと待っていた。そして、煙草を咥えた松田とともに出て来た彼に近づいて、おめでとう、と何度も言う。すっごく格好よかったよ、といつもの通り、何も考えてない様子で言えば降谷は困ったように照れていた。
そしてそんな様子を隣で見ていた松田も、思わずその微笑ましい雰囲気に笑ってしまったのである。こうなればさすがにふたりの邪魔は野暮。降谷に先に行くことを伝えた。
しかし去り際、松田はまたも悪い癖を発揮して降谷にけしかけるようなこと言ってしまう。
「祝賀の飲み会は遅れるかもって、萩原と伊達には言っとくぜ。どうせ、諸伏も盗撮事件の事情聴取に付き合わされて遅刻だろうしな」
「いいけど、僕は別に遅れるつもりなんて」
「テメーはこの後、なまえちゃんと一発ノックアウトするまでセックスしてからだろ」
「……怒るぞ?」
チッ、冗談通じねえ奴。松田はそう思い舌打ちすると、じゃあこれならどうだとばかりに強引になまえの肩を抱いた。そして、軟派にも頬にキスして堂々と見せつけるように言うのである。
「じゃーな、勝利の女神サン」
「松田、お前っ!」
「降谷に飽きたら、諸伏じゃなくて俺にしろよ」
そう言って、またもわしわしと犬のようになまえの頭を撫でて去る松田に対し、今にも飛びかかりそうな降谷を諌めるのに必死だった。それにこのくらい、アメリカでは普通だ。気にしてなんかいない。なまえがそうフォローすると、降谷は余計に肩を落とす。そんな普通、考えたくもない。
「で。ヒロは? カメラマンって聞いたけど」
「あいつなら……って、気づいてないのか?」
「?」
「あー、もういい。ヒロなら先に行ったよ。それより、帰ってくるなら事前に言えって言ったよな? ヒロと空港まで迎えに行ったのに」
「でも、内緒にしてるのも面白かったよ」
そう言うとなまえは斜陽かかる日差しの元で、再び有希子のサングラスをしてみせた。まるでスパイの気分を味わうように、悪戯な表情で。
「そうだ! 零、これから暇? あ、飲み会なんだっけ?」
「いや、二時間くらいなら暇だけど」
降谷はそう言いながら、先ほどの松田のせいでよからぬ考えが浮かんでしまっていた。「休憩、二時間、四千円」と堂々とのぼりを掲げた国道沿いのラブホテル。自分で考えて、首を振って打ち消す。いやいや、二時間じゃ足りないだろ。って、そういうことじゃない。
「じゃあ、私に教えてよ。恋しちゃったからさ」
「え?」
その一言には、さすがの降谷もどきっとした。しかし普通に考えて、あの工藤なまえが色恋沙汰の話を自分からするわけがなかったのである。
「ボクシングに! すごく好きになっちゃった!」
屈託なく笑う彼女に、自分の思いが届くのはいつになることやら。降谷はそう思いながらまるで諦めのようにため息をつくと、じゃあ行くか、といやらしくない方の意味で無尽の体力を見せつけるはめになったのである。