43...
「へえ、そういう経緯だったのですか」
買い出しからの帰り道、車の中で沖矢はなまえからボクシングが好きになったきっかけの話を聞き出していた。にしても、恋をした相手が選手として参加していた「彼」ではなく「ボクシング」という競技だったという点が、何とも彼女らしくてつい微笑んでしまう。まあ、その笑いにも彼女の方は一切気がついていないようではあったが、話をしているうちにすっかり彼女の機嫌も直ってしまったらしく結局はすべて結果オーライだったのかもしれない。
一方のなまえは、さきほどのイートインコーナーにて、なぜか子どもたちにまで見せつけるような沖矢の甘い態度に辟易して最初こそ口を閉ざしていたが、彼の巧みな質問で答えを引き出されていくうちに懐かしさが増し、ついには怒っていたことも忘れて最後までぽろぽろとこぼすようにすべて話し切ってしまっていた。あのとき一回きりしか会わなかった松田くん、今も元気にしているだろうか。それから、零は。今もどこかで元気にボクシングを続けていればいいな。なんて。そんなことを、祈るように思う。
後部座席の子どもたちは広い店舗内を回って疲れ切っていたらしく、あの灰原でさえ真ん中に座る歩美に寄りかかるようにして三人仲睦まじく眠っていた。きっと今頃みんな、バケツのように巨大なアイスクリームの夢を見ていることだろう。そう思うとなんだか可愛くてなまえはその安らかな寝顔をバックミラー越しに見て穏やかに笑った。
「じゃあ、やはりボクシングが強い男性がなまえさんの好みのタイプなのですか?」
そんな沖矢の質問に、なまえは首を振る。
「ううん。それはスポーツとして好きなの」
あまりにきっぱりと言い放つ彼女に、沖矢はまたも笑いが出そうになるのを堪えながら運転に集中した。その友人のことを、再びひどく不憫に思ってしまったからである。
もうすぐ博士の家に到着するということもあって、なまえはそろそろ子どもたちを起こすことにした。そして阿笠邸の前で彼らを降ろし、沖矢とふたりで工藤邸に帰宅する。時刻は既に四時を過ぎており、さっそく買い込んだ肉でビーフシチューの支度にとりかからなければならないのだが、なまえは先に携帯電話の充電をするために一度、彼に断って自室へと向かうことにした。
ケーブルに繋いでしばらく待つと、まるで息を吹き返すように短いバイブレーションとともに再起動が行われる。そして同時に一件のメッセージ受信を知らせ、それが誰からか確認するや否や、なまえの気持ちはらしくもなく高揚した。
差出人の名は安室透。彼から連絡をもらうのは、実にあの合コンの日以来だった。
『例のワンピースが届いたのでなまえさんのご都合をお伺いしたいです。ちなみに今日はどうしていますか? ポアロのシフトが三時までだったのでふたりで夕食でもどうかと思っているのですが、よければ連絡ください』
たったそれだけの文面を読み終える前から、うるさいくらい鼓動が高鳴っていくのがわかった。それもそのはず。気持ちを自覚し始めてから彼に会う予定自体が初めてで、どんな顔をすればいいのかわからない。しかも、それがもしかしたら思いがけず今日になるなんて。予想外のタイミングで指定されたことに、緊張してしまうのは当然のことだろう。
しかし、キッチンで先に夕食の支度を始めているであろう沖矢のことを思うと、なかなかこれから夕食を食べに出かけるとは言い出しにくい状況であった。まあ、今日でない方が逆に心の準備ができてちょうどいいのかもしれない。なまえはそう思い、断るためにメッセージを打つ手も煩わしくてすぐに安室へと電話をかける。待ち構えていたかのようにすぐに応対の声が聞こえた。
「もしもし? なまえさんですか?」
「あ、はい。こんにちは、安室さん」
「こんにちは。それで、今日はどうです?」
「はい。今日は、その……」
しかし、その瞬間、キィッという音を立てて部屋の戸が開く。
「なまえさん、そろそろ食事の支度を」
充電だけにしては戻ってくるのが遅いなまえを心配して、沖矢がなまえの部屋にノックとともに入ってきたのだった。彼の眼鏡越しに高揚した顔をはっきりと見られ、気まずい空気が室内には走る。
「あ、昴くん! え、えっと……」
「ああ、電話中でしたか。これは失礼」
謝罪を口にして部屋から去る沖矢に、なまえは何も声をかけられないでいた。ドアが閉まる音がやけに鼓膜に張りつく。そんなほんの些細な出来事だったのに、なぜかとても動揺していてしばらく凍ったように沈黙してしまった。
大丈夫ですか? と電話口から安室にかけられた声により、なんとか我に返ったなまえは、今の会話が聞こえていれば会うのを断る理由にもなるだろうと思い直す。そして、しどろもどろになりながら彼にその意を伝えようとした。
「すみません。残念ですけど今日は」
「僕は構いませんよ。食後でも」
「え?」
「迎えに行ってもいいですか。顔が見たいので」
顔を見て話をしているわけでもないのに、彼はきっと今、ひたむきな目をしているのだろうと思った。その一言に、なまえはどうしようもないくらいドキドキしてしまう。そして気が抜けたようにベッドに座り込んで、はい、と気づけば根負けのように返事をしてしまっていた。電話口で安室は安堵したように、よかった、と優しく笑う。
「じゃあ、八時くらいにしましょうか。それから少し僕の車でドライブでもしましょう。近くまで来たら連絡を入れますよ」
「……わかりました」
「では、また後ほど」
電話が終わると、なまえは充電ケーブルに繋がれたままの携帯電話を布団の上に放り投げた。そしてそのまま自身もベッドへ身体を横倒しにして目を閉じる。何度も何度も頭の中を往復する言葉。ねえ、安室さん。顔が見たいって、どういう意味なの。なんて聞けるはずもない。
ひとまずこの赤い顔を引かせてからでないとキッチンには行けないな。なまえはそう自嘲しながら、自分の心が落ち着くのをひたすらに待つことにしたのだった。
case43. まるで呪いにも似た予言を
食後。なまえは片づけを自ら買って出て、何食わぬ顔で沖矢に先に風呂に入ることを勧めた。彼はその言葉に甘えるように颯爽と浴室へ向かい、なまえはその背中を安堵しながら見送る。勘の鋭い彼のことなので電話の内容や相手を悟られたかもと危惧していたのだが、どうやらあの様子だと何とも思っていないらしい。ここは早めに片づけを終えて、彼の入浴中に出かけられるのであれば出かけてしまおうと算段を練る。
ただし、前回と同じ轍を踏まないためにも、きちんと嘘のない言葉で置き手紙をしておくことだけは忘れないようにしなければならなかった。キッチンに設置した固定電話の子機。その横に置いてあるユルリックマのメモ用紙に書くのは「友達と出かけます」という一言。これなら嘘にはならないだろう。安室との関係を公に言うとするなら、まだ友達という範疇の中だ。
手早く白いマウンテンパーカーを羽織って靴を履く。安室からのまだ連絡はないが、おそらく家の前に出て待っていれば大丈夫。そう思って足早に出ようとすれば、スニーカーの紐が解けていた。あー、もう。こんなときに限って。そんな焦りを小声ながら口にする。
はやる気持ちを抑えながら靴紐を結び直し、玄関のドアノブに手をかけた瞬間のことだった。背後から太い腕が伸び、途端にもう一歩も動けず囲われるように追い詰められる。そんなことができるのはこの家にひとりしかない。
「こんな時間からどこに行くんだ」
「あ、えっと……」
「またお得意の、言えないような場所か?」
振り向けば、沖矢。ではなく、そこには不敵に口の端を上げて、そんな皮肉を言う赤井秀一がいたのだった。しかも上半身は裸で、ぽたぽたと髪から雫が落ちて床を濡らしている。おまけに沖矢の変装道具のひとつであるチョーカー型変声機もつけていないことを考えると、相当、急いで風呂から上がったのだろう。そしてそれは、なまえの行動を察していたということに等しい。
風呂上がり特有の熱気や、シャンプーの匂いを、その距離の近さから強く感じた。汗ばんだ胸板を押す以前に触れることすらもはばかられ、視線を外す以外にできることがない。なまえはとっさに先ほど書き残した文言を口にする。
「いや、ちょっと友達と……」
「ほう。友達、か」
友達という言葉に嘘はない。なのに、なぜか責められている気になった。そしてよりいっそう顔が近づくと、まるで唇が触れ合うような距離まで達し、視界が彼でいっぱいになる。その表情は怒りではなく失笑だった。
「どうやら俺が言った意味がわかってないらしいな」
「え……?」
「あのボウヤが誘拐されたときに忠告したはずだ。狼には近づくなと」
「狼って、彼は別に……」
「わかるよ。奴のことが好きなんだろう?」
「!」
なまえは驚いた。自分でも最近になって気がついたその感情について、しかも断定するように見抜かれていたことが恥ずかしく、思わず肯定するように瞳を揺らす。しかし、それが赤井には面白くなかった。
今すぐこの女を押し倒して、化けの皮を被ったあの狼のことなど毛ほどにも考えられなくなるほど抱き潰したい。目の前で怯える仔鹿のようななまえに、赤井はそんな破壊衝動を抱く。そしてそれは、半ばすぐ実行に移された。
「だが、彼だけは駄目だ」
そう言うと、赤井はなまえの鎖骨にかかった髪を乱暴にどけ、彼女の右の首筋に顔を埋めて深いキスを落とした。その瞬間、そこからちりちりと焦げつくような熱を受け、なまえは何も考えられなくなる。背に腹は変えられず、汗ばむ彼を必死に押して離れようとしたがビクともしない。
「あ、っ、……赤井、さ……っん!」
離れ際、赤井の熱い舌で最後にべろりと舐められたそこを抑え、ずるずるとその場に座り込んでしまったなまえは、顔を真っ赤にして涙を浮かべていた。玄関に備えつけられた鏡には、くっきりとした鬱血の痕が映っている。所謂、キスマーク。髪で隠れる位置ではあるが、明るいところなら見える位置につけられたそれは、完全に誰が所有者かを表す証のように思えて赤井はぞくぞくした。
「それをつけたなら出かけてもいい。ただ」
「……」
「お前は近いうちに、あいつを好きになったことを後悔するだろう」
これは予言だ、と赤井は言った。それも回避できない、呪いのような予言。そしてふっと笑うと、部屋の中へと引っ込んでいってしまう。ちょうどパーカーのポケットに入れていた携帯電話が震えていて、安室の到着が近いことを知らせる連絡がきたところだった。
なまえは泣きたくなるような気持ちで、思う。
あなたは彼の何を知っているの。それを先に、私に教えてよ。じゃないと、私は馬鹿だから。もうこんなにも、引き返せないところまで来てしまっている。
私、安室さんが好きなんだ。こんなことがあってもまだ、性懲りもなく会いたいと願ってしまうくらいに。