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ぽろぽろとこぼれてくる涙を必死で拭い、つけられた痕を隠すために髪を右に流していたなまえは、まるで迷子のような心細い気持ちで工藤邸の前で立っていた。その間ずっと、赤井に言われた言葉が忙しなく頭の中をかけ巡っており、結論が出ないことをあれこれどうしようもなく考え込んでしまう。
『お前は近いうちに、あいつを好きになったことを後悔するだろう』
どうして彼に、そんなことが言い切れてしまうのだろうか。そして、その意味とはやはり、安室透という人物が自分の友人である降谷零を指し示していて、そのことを残酷にも彼が隠しているから、後々傷つける要因になると見越して「後悔」という単語を用いたのか。わからない。ただ、そう思ってみたところで、そのことをどうして赤井が知っているのかは説明がつかず、やはり違うことのようにも思えた。今のところ彼らの間には何の接点もない。いくら赤井が元FBIであったとはいえ、単なる探偵でアルバイターの身分である安室のことを調査する理由もないはず。
それに、そもそもあの安室が降谷のわけがなかった。なまえが自分でそうではないと、信じると決めたことなのだから。
安室のRX-7は約束通りの八時頃。彼女がそんなことを考え込んでいるとも知らずにやって来た。なまえは引っ込めた涙がもう溢れてこないように、頭の中で楽しい記憶だけを掘り返す。特に思い出すのは、高校時代の三年間の思い出。なのに、それすらも今は苦しい。
「こんばんは。どうやら待たせてしまったようですね」
わざわざ一度車を降りて爽やかに挨拶をする彼に、なまえはぺこりと頭を下げるだけで愛想もなく車に乗り込んでしまった。その妙な感じに安室が気づかないわけがなく、追うようにすぐに車に乗って彼女に声をかける。
「なまえさん、何かありましたか?」
「いえ、何も」
それは割と強めの口調だった。安室はやはりその様子を訝しんで、探偵らしく頭の中で推理をする。
慎重な彼女の性格からして、すぐに否定を口にすることはないはずだった。精々、なぜそんなことを尋ねるのかと尋ね返されるか、言葉に詰まって戸惑うくらいだろう。なのに、返されたのはまるで安室のことを撥ねつけるような断定的な否定。夕方電話で話したときの態度はもっと普通だったことを考えると、その後で彼女に何かがあったに違いないということは簡単に予測がついた。そして、その要因として考えられる可能性は、たったひとつ。
安室は視線を上げて、明かりのつく工藤邸を冷えた目で睨んだ。その中にいる人物。つまり、なまえとルームシェアをしている沖矢昴という男との間に、何かがあったのではないかと察すると、安室は途端に頭に血が上るような激しい怒りを感じてしまう。本当なら愛しいなまえが男と一緒に住んでいること自体許しがたいが、そもそもここは彼女の家。奴を出て行かせることができればそれが最適解だが、公安お得意の違法捜査でもなかなかそれは難しい。
なにせ、奴はとことん尻尾を掴ませない。どれだけ探したとしても、不思議なことに彼の経歴は一切不明のままで、出身や嗜好品、性格や利き手に到るまで未だに何もわかっていないのだから。
一方のなまえは助手席に座ってもなお、ずっと落ち着きなく安室側の首筋についた赤い痕を気にして髪を触っていた。そして、自分の語気が堪えきれず強かったことを反省していると、安室から声が掛かる。
「約束通り、少しドライブでもしましょう。行きたいところはありますか」
安室は苛立ちを必死に隠し、早口気味にそう言った。一刻も早く、彼女をここから遠ざけたい。その心の表れだった。
安室からの質問に、なまえは少し間を置いて考える。そして、この痕を隠し通すための保身として指定したのは、抽象的な場所だった。
「……明るくない、ところ」
それは思いがけない提案で。安室は小さく息を飲む。残念ながら彼女の意図がどういうものなのかはまだ計り知れないが、場所についてはすぐに思い当たった。
「なまえさんの、仰せのままに」
その様子を、赤井が静かに見つめているとも知らずに。

case44. この鼓動が今の真実
明るくないところ。そう言われた安室がなまえを連れてきたのは、誰もいない夜の海浜公園だった。昼間の雰囲気と違って月明かりしかないそこは、お互いの顔も近づかなければよく見えないほど暗く、はぐれないように指先を繋いでおく口実にもなる。ふたりは車を降りると、案の定、安室から手を取って砂浜の方まで歩くことにした。まるで世界を包むように潮騒の音だけが静かに聞こえ、気持ちまで凪ぐ心地よい風が吹き抜ける夜だった。
ここなら髪がはためこうともなまえは深く気にせずに済んだ。砂浜へと降りるコンクリート質の階段に腰掛け、結んだばかりだったスニーカーの紐を解いて靴を脱ぐ。そして、履いていたジーンズをわずかばかり折り返していると「なんだか子ども時代に戻ったみたいですね」と同じ動作をしている彼が懐かしむようにそう笑って、なまえは思わず馬鹿みたいにときめいていた。
安室とふたり。裸足で月明かりを頼りに砂浜を歩いた。触れる砂はさらさらとして冷たく、手を繋いだふたりの影が浜辺に浮いている。少し沖に出ただけで爪先に波が触れて思わず声を上げると、吹き出すように彼が笑って。だって、と頬を膨らませば、悪戯に彼がなまえの手を引いて、ふたりしてぱしゃぱしゃと水音を立てて足首まで海に浸かる。引いた波は指の隙間に細かい泡を残し、まるで輪郭まで溶かすみたいに弾けて消えた。
ふたりはそのまま、足元をくすぐる波を感じながらただしばらく海を眺めることにした。好きな彼と一緒で楽しいはずなのに、なぜだか物悲しいような気持ちになるのは誰のせいだろう。そんなことを思う儚げななまえの輪郭を眺めていた安室が、先に口を開く。
「少し、落ち着きましたか」
なまえは赤井の言葉のせいで、自分が荒れていることがお見通しであったことを一瞬恥ずかしく思った。しかし、探偵の安室にならそれも当然だろう。なまえはまたも赤井に言われた言葉を思って、答えのない迷宮を彷徨う。
いつかこの景色も、彼が言うように「後悔」する日が来るのかな。そんな呪いにも似た予言を胸に抱き、なまえは静かに睫毛を伏せる。
暗がりに乗じてどんな顔をしているのか知られない今なら、容易く心が弱って、性懲りもなく再び泣き出したくなってしまっていた。安室の優しさが、今は何よりも鋭く突き刺さるから。幸せすぎる今の状況下で、余計なことは何ひとつ考えたくないのに。
「僕でよければ話し相手くらいにはなりますよ」
安室はそう言うと、愛おしそうになまえの髪を優しく撫でた。繊細な絹糸のように潮風になびくそれは、気持ちよさそうに宙を泳いでいる。
なまえは目を細める彼の表情を見つめて、やはり忙しなくドキドキしたり、そして悲しくなったりした。そうした自分の心をひとつも整理できずに、思ったまま、口を開く。
「安室さんは」
髪を撫でる手を止めて、安室はその言葉の続きに耳を傾ける。言ってはいけないと、とっさに思った言葉はもう止められない。
「本当に、私に『嘘』ついてないですよね」
その震えた声に、安室はひどいくらい動揺してしまった。そしてしばらく何も言えないままでいれば、彼女の方から先に謝罪を口にする。
「……ごめんなさい。今の、忘れて」
お互いの顔がよく見えなくて、これほどよかったと思ったことはなかった。安室はそう思いながら、少し彼女と距離を取る。
なまえはやはり「安室透」という存在を疑い始めているのだ。おそらくそれも、忌々しいあのルームメイトとの何らかの会話がきっかけで。そして、自分が降谷零であることがバレてしまったときこそ、もう二度と彼女の前に現れる資格がなくなるということを安室自身が一番よくわかっている。
以前、涙目のなまえに言われた言葉がフラッシュバックする。
『裏切ったら、泣いちゃうかも』
確かにこれはひどい裏切りだった。けれど、この胸の想いはすべてに片がついてから、安室透ではなく降谷零として伝えたいという気持ちは依然として揺るぎない。ベルモットになまえの存在を目につけられてしまった以上、これより先には彼女を巻き込みたくないし、それに天国にいる親友の諸伏もきっと生きていれば自分と同じことをしているはずだ。だからふたりして断腸の思いでなまえと音信不通にすることを選んだ。組織に潜入すると決まった、あの日から。
ただ、すべて片づくまで彼女を騙し続けていくことがはたして自分にできるのか。察しのいい彼女を目の前にして安室にはその自信がなかった。
なぜなら、してはいけないはずだった再会を自分たちはもう果たしてしまったのだから。
「なまえさん」
安室は切なげに名前を呼ぶと、決心をつけたように再び彼女との距離を詰めた。そして両手でその柔い頬に触れ、軽く顔を持ち上げてみせる。それは、いくつもの顔を演じ分けてみせる安室だからこそ思いついたこの窮地を脱する方法。彼女が疑う「嘘」を「真実」にすることは、悲しいことに公安警察に所属している彼なら得意の仕事だった。
「あ、……」
暗がりでもわかるほど高揚した彼女の表情。薄桃色の唇からこぼれる困惑の短い声を聞き、安室はそこを指でなぞる。そして、愛しむようにゆっくりと自分のを重ねた。それはもちろん、安室透として。最近出会った工藤なまえという女性に惹かれてしまった、ただのしがない私立探偵という建前での、悲しすぎる計算上の行為だった。
それは一瞬にも、永遠にも思えるような特別なキスだった。重ねれば重ねるほど、不思議なくらい安心する。まるで足りないパズルのピースを合わせるような行為で、こうなることは必然だったとさえお互いに思えた。世界中に誰もいなくなってしまった、と言われても信じられるほど静かな夜。ただ、囁くような潮騒の音と、瞬きまで聞こえそうなほど澄んだ夜空に浮かぶ星たちだけがふたりの証人だった。
どちらからともなく離れた後、安室は引き寄せるように彼女を抱きしめて、その耳元で呟く。
「この鼓動が、僕の真実です」
そう言われてなまえは、ためらいがちにそっと彼の心臓辺りに触れてみた。暖かくて、早くて。毎日、過去の友人たちを思って願う「生」を彼からは強く感じた。そしてそれが到底嘘ではないことがわかる。今はもう、それだけで十分だった。

気まずくなった帰りの車内にて、安室となまえが互いに自分たちの関係について言及することは一切なかった。恋人になるともならないとも、キスがどういう意味だったのかということも、言葉にすればすべて魔法が解けるように思える。ただ、互いに気持ちがあるということだけをなんとなく理解して、ふわふわとしたまま共に時間を過ごした。それで十分すぎるほど幸せだった。
まるで夢を見た後のようなぼんやりとした気分のまま、車は工藤邸に到着する。すると安室は思い出したように後部座席に手を伸ばして、手提げの紙袋をなまえに差し出した。
そこにはあの、レモン柄のワンピースが入っていた。本来、今日はこれを受け取るために会ったのに、目的が逆についでのようになっていてふたりで笑ってしまう。なまえは改めて彼に何か礼をすると申し出たが、安室は静かに首を横に振った。
「お礼は十分すぎるほどあなたからもらっているので。近いうちに、それを着ているあなたに会えることだけを楽しみにしていますよ」
そういうわけにもいかないが、ひとまずその場は「ありがとう」と言ってなまえは車のドアを開ける。そして、車内灯がついた、その瞬間のことだった。
安室は初めてそれにはっきりと気がついた。完全に油断しきっていたなまえの右の首筋に、最近つけられたと思われる真新しいキスマーク。そしてそれがいつ、誰につけられたものであるかも瞬時に理解して顔が熱くなる。
「っ!」
とっさに頭に血が上って、彼女の腕を取って強引にそこを見た。すると、なまえは途端に顔を真っ赤にして手のひらで首筋を隠し、安室を振り払って車から足早に去っていく。その表情は悲しみに満ちていた。
込み上げてくる感情は怒りかと思ったが、意外にもそれは焦燥だと安室は感じていた。残された彼はまたもひどいくらい狼狽し、ちょっと待ってくれ、とあまりに追いつかない考えに頭を抱える。もちろん、まだ断定はできないが、その可能性については考えたこともなかった。
通常、相手の右首筋にキスマークを残す場合、対面する相手は左に顔を傾ける必要がある。その方向は利き手に準ずる場合が多く、そして、彼女に痕をつけたのはあのルームメイトに違いないと断言できる。
間違いない。沖矢昴は、左利きだ。
ようやく得た数少ない彼の情報に安室は人知れず震えていた。左利きなんてこの世にはいっぱいいるくせに、時期や事情を考えると、最悪の可能性ばかりが浮かんでしまう。混乱する頭では、冷静に判断すらできない。
ただ、口づけた感触だけが残って異様に熱くて。熱病のように浮かされて、いつまでもずきずきと心が疼いていた。