45...
「最近、よく髪下ろしてるのね」
とある事件のことで東都監察医務院に来ていた佐藤美和子は、帰り際、友人でもある監察医・工藤なまえの何気ない変化について特に深く考えることなく指摘した。しかし、それに一瞬、ビクついてしまったなまえは思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになり、ごほごほと咳き込んでしまう。しかし美和子は続けて、ほら、前はよくポニーテールとかしてたじゃない? と呑気に言うと、なまえは気にしている右首筋を触りながら何と返答すればいいか考えあぐねてしまっていた。
もちろん監察医として遺体解剖中は髪をまとめているのだが、それは仕事でどうしても必要であるため。それ以外の場面ではずっと髪を下ろし、絶対誰にも首筋を見られないように細心の注意を払っている。テープや湿布を貼るのは余計に目立つし、そして何より隠していることを赤井に知られたくない。気にしていると思われるのが癪だからだ。
そうした生活のおかげか、最近ではようやくその痕も色が薄くなってきたことになまえは安堵しつつあった。しかし、一番見られたくない人物に見られてしまったことは事実で、あの夜のことを思い返すと胸が張り裂けそうなくらい切なくなる。安室からの連絡はあれから一度もなく、それがどういう意味かなんて考えなくてもわかった。
戸惑うなまえが何かを答える前に、美和子が自分の横髪を触って気にしながら話を続ける。
「私もショート歴長いし、いっそ伸ばしてみようかしら」
「ああ。美和子ならロングもいいかもね。この年齢くらいになると結婚式とかでみんな伸ばすって言うじゃない? 髪、まとめるから」
「結婚?」
その言葉に、彼女は少し突っかかったようだった。あれ。噂の高木さんとはそこまでの仲じゃないのか、なんて。なまえがそんな風に意外に思っていると、美和子は大げさにため息をつく。そしてその理由は、決して高木との煮え切らない結婚話に嫌気がさしているからではなく、むしろなまえの方にあったのだった。
「それよか、あんたはどうなの。この前の合コン。噂によると、終わるなり即行で金髪のイケメンと一緒に帰ったって聞いたけど」
「えっ」
「今日はその話、詳しく聞くまで居座らせてもらうわよ?」
捜査一課のアイドルは冗談めかしてそう言うと足を組み替え、まるで事情聴取ならがらの様相ですごんでなまえに迫った。設置された医務院の円卓が、たちまち質素な取り調べ室に見えてくるから困る。それに、なまえにとって佐藤美和子という存在は気心の知れた数少ない友人ということもあって、そのことについての説明責任は間違いなく問われるだろうなと薄々思っていたのである。
ただ、今じゃない。今、話すときじゃないのだ、それは。
なまえがたじたじになって困っていると、ちょうどまるで助け舟のようなタイミングで白衣のポケットに入れていた電話が鳴り響いた。美和子はその間も厳しく眉根を寄せていたが、これ幸いとばかりに断って通話ボタンを押す。
電話の相手は沖矢昴。彼が仕事中に電話をかけてくることは稀だった。
「あ。もしもし、昴くん?」
なまえは明るい声色で気安く彼にそう尋ねる。しかし、残念ながら電話の向こうでは別人の声がした。
「俺だ。今、少し大丈夫か」
そう答えたのは赤井秀一。あまりの不意打ちに裏切られたような気持ちで言葉に詰まるが、怪訝な表情を浮かべたままの美和子の方が今はよっぽど怖いのでなまえは黙って彼に従うように頷いた。
「……ええ、何ですか?」
「今晩、急遽有希子さんが来ることになったんだが、早く帰ってこられそうか?」
「母さんが? そう。なるべく残業はしないよう上と掛け合って何とかしてみます。けど、別に今まで通り私がいなくても……」
「いや、今日は三人で大事な話があるんだ。また帰宅時間に連絡を入れてくれ」
「……わかりました」
まるで業務連絡のようなやりとりの後、電話は手短に切れ、なまえはしばらく携帯電話を見つめていた。母の有希子が来るということは、またも疑似家族風にカオスな宴会が繰り広げられるのであろうか。それに、三人で大事な話とは一体。
「何かあったの?」
「え?」
「だって今の、噂の年下大学院生でしょ? なのになまえ、敬語だったから」
さすがは警視庁刑事部捜査一課の警部補。その持ち前の洞察力はかなり優れていて、どうやらすぐにその違和について見抜いたらしい。それに、彼女に指摘されて初めて気づいたが、なまえは無意識的に沖矢にはタメ口で、そして赤井には敬語で話をしているらしかった。そのスイッチのオン・オフの使い分けを自分で呆れながら、美和子にはこう言っておく。
「そういうもんだよ、私たち」
本当。その言葉でしか自分たちのこのややこしい関係を説明できない。なまえはそう思い、少し苦く笑ってしまうのだった。
case45. 運命から逃げない
残業はしないつもりであったが、多少定時を過ぎてから帰宅することになったなまえは全速力で愛車のタイガーを飛ばして工藤邸に帰宅した。医務院を出る前に沖矢に連絡を入れたときにはもう母がいたようだったので、玄関の鍵を開ける前からどっと疲れたような気持ちになる。また結婚だなんだと言われてはつらいだけ。好きだった相手とは最近、疎遠になったばかりだし。それにまだ首筋の痕も完全には消えていない。
しかし、鍵を差し込もうとした瞬間、その思いは木っ端微塵に砕かれることになった。なぜなら先にドアが開いて、会いたいような会いたくないような人物がにっこりと顔を覗かせてきたからだった。
「おかえり、なまえちゃんっ!」
玄関で待ち構えていたらしい有希子からの猛烈なハグで、なまえは呼吸困難に陥りそうだった。その後ろで沖矢がくすくすと笑っていて、つい、じろりと軽く睨んでしまう。第一、衝撃的な親子の再会は前回で終わったはずだろうに。
「有希子さん。なまえさんもお腹空いているでしょうし、そろそろ中へ」
「そうね。何か先に食べてから……」
「いや。食事よりも先に話聞くよ。今日一日、気になってしょうがなかったから」
まあ、結婚だとかそういう話なら、後回しにして欲しいけどね。そう言うと、有希子と沖矢はふたりして顔を見合わせ、まるで切ないような悲しいような、複雑な顔をしたまま互いに首を横に振る。どうやら今日はもっと真面目な話らしく、なまえは首を傾げた。
「じゃ、続きはリビングで話しましょうか。新ちゃんチームの一員としてなまえちゃんを迎え入れるための大切な勧誘話なんだからね」
三人分の紅茶を運んできた沖矢が席についたところでその話はようやく幕を開けた。先ほど有希子が口走った「新ちゃんチーム」という言葉から察するに、つまり今から話す内容には新一も一枚噛んでいるらしいということがわかる。なまえはごくりと生唾を飲み、今から明かされるであろうその話に対してひしひしと突き刺さるような嫌な予感を感じ取っていた。
「なまえさん。まずはこの動画を見てください」
そう言って沖矢が、自身のスマートフォンを差し出した。そこには燃え盛る建物をバックに、女の子を抱えるひとりの若い女性が写っている。真ん中に表示された右三角の再生ボタンを指先で押すと静止画だった画質はより鮮明になり、再生された内容になまえは驚きで息を飲んだ。
抱きかかえられた女の子の正体は、なんと先日買い出しに一緒に行ったはずの歩美だった。そしてそんな彼女を抱えているフードの女性こそ姿は大人になっているが、正真正銘、隣人の灰原哀。本名、宮野志保の姿である。大人の姿になった彼女は初めて見たが面影がよく残っていて、事情を知る者なら同一人物であることがはっきりとわかるだろう。
「群馬のキャンプ場で子どもたちが事件に巻き込まれたのはご存知ですか?」
その問いに、初耳だったなまえは静かに首を横に振った。
話によれば、沖矢となまえが子どもたちを連れて買い出し出かけた数日後。予定通り群馬のキャンプ場に出かけた子どもたちは、飯盒を忘れた博士にコナンがつきそうような形で麓の売店まで買い物に出ている最中、四人で薪拾いをしていたらしい。その途中で運悪く殺人事件を目撃してしまい、犯人に追い詰められた先で小屋に閉じ込められた挙句、火を放たれて殺されかけたという。子どもの力ではどうにもできないまま無情にも火の手は回り、灰原はやむなく持っていたAPTX4869の解毒剤を服用。大人の姿に一時的に戻り、小屋にあった斧を使ってその場から脱出したという話だった。
「でも、それとこれと何の関係が」
「関係大アリよ。この動画を撮った子どもたちが、事件後、すぐにいなくなってしまった彼女の居場所を突き止めるために毛利探偵にメールで依頼を出したんだから。この動画と一緒にね」
「そしてそれが、組織の人間の目に触れた可能性があるということがわかったんです」
あくまで可能性ですが、とつけ加えられたものの、その話にはさすがに驚いて声を失ってしまった。当然、その後の展開的に考えられることはただひとつ。元組織の一員であったシェリーこと灰原を抹殺するために、彼らは近々、何かを仕掛けてくるに違いない。
「おそらく動画を見た可能性が最も高いのは、組織内随一の探り屋であるバーボン。そして、この動画の彼女がベルツリー急行のパスリングをしていることに目をつけて、彼らも乗り込んで来るかもしれないと判断したというわけです。走行中の電車は完全な密室。彼らにとっては願ってもない最高の狩場ですから」
バーボン。それは水無怜奈伝いにジョディさんから聞いていた組織側の人間のことだった。情報収集能力、観察力、洞察力に恐ろしく長けた探り屋だとは彼女からも聞いていたが、まさかこんな動画ひとつまで目ざとく見つけられるほどの環境下にいるとは。組織の手も、どこまで回っているかわかったものではないなと身が引き締まる思いがする。
「もし本当に彼らがこの列車に来るとすれば。乗り込んでくるのは間違いなくそのバーボンとベルモット」
「!」
「一般人になりすますためなら変装技術に特化しているシャロンが適任でしょう? だから私の登場ってわけ!」
有希子の言葉に、なまえは深く動揺していた。向こうが銀幕のスターを連れてくるなら、こっちは日本の伝説的大女優で勝負よ。なんて、そんな軽口も今の彼女の耳に届かない。
一度は憧れたシャロン・ヴィンヤードという世界的大女優。彼女が新一の体を小さくした組織側の人間だと言うことは、彼女と直接対決した新一から聞いて知っていた。
そして、その話を聞いたとき同時に確信したことがある。ニューヨークで起こった、あの一年前の事件の本当の思惑。あの日、心配をかけそうで通り魔に襲われたことすら誰にも言えなかったなまえが、ずっとひとりで抱え込んでいたすべての真相である。
「奴らはぞろぞろとグループで乗り込むことはせず、残りはこの列車の終着点である名古屋駅で待ち伏せしているはず。そこで僕と有希子さんは実際にベルツリー急行に乗り、子どもたちの周辺を護衛。場合によっては、宮野志保に変装した有希子さんが奴らの前で死んだように見せかけるつもりです」
「だから、なまえちゃんには新ちゃんチームのひとりとして、名古屋駅で待機しておいて欲しいの。怪しい人物の動向チェック、お願いね」
それにバイクを近くに停めておけば何かあったときに駆けつけやすいから、とふたりから念を押されるように言われた。しかし、深い動揺から回復したなまえはようやく不敵な笑みを見せる。
そして内心では震えるほどの恐怖を隠し持ちながら、奮い立たせたわずかばかりの反抗心で有希子と沖矢に言うのだ。
「……絶対ヤダ」
「!」
その様子にはふたりとも驚いた。しかしすぐに有希子が母親らしい口調で娘の反発を叱る。
「なまえちゃん。悪いけど、これはもう決定事項よ。私と昴くんなら心配しなくても」
「ふたりのことは心配だけど、そうじゃなくて。私は、私の運命から逃げたくないだけだから」
それに、いつかは会わないといけないと思っていたのだ。だって、約束をしたまま結局会えずに一年も経ってしまったんだから。
そうでしょう? シャロン。
「……そう言うと思っていましたよ」
沖矢はそう言うとなまえの前に跪いた。そして、まるで忠誠を誓うように彼女の右手を取ると、その薬指に指輪をはめる。それこそベルツリー急行のパスリング。そして自分たちの分である残りのふたつも、その手中には既に収められていたのだった。
「ちょっと、昴くん!? 私はなまえちゃんを乗せるのは絶対に反対よ! 危険すぎるわ」
「しかし、彼女がいた方が万が一の場合、検視に信憑性が出て死亡偽装がしやすいことは事実。この見解はコナンくんと同じです」
まあ、その彼もなまえさんを乗せたくないという点では有希子さんと同じようでしたが。そう言うと沖矢は明け透けに笑って、眼鏡をかけ直した。少し開いた瞳で捉えたのは、まっすぐすぎるくらい立ち向かってくるなまえの芯の強い目。
「それに、逃げないんでしょう。運命からは」
沖矢にそう尋ねられ、なまえは静かに頷いた。その途端に有希子はお手上げとばかりに両手を上げ、まるで馬鹿馬鹿しいとでも言いたげにため息をつく。なぜなら、そのパスリングを手配したのは沖矢。新一がそれについてどう助言したのかはさておき、なまえの返答を考慮に入れて最初から乗車券代わりのリングを三つ分を用意していたということなのだから。
それに、まあ。彼がなまえの傍にいてくれた方がある意味では安全かと有希子は諦観するように判断した。絶対に守ってみせなさい。何かあったら承知しないわよ。そんな顔をして、沖矢に娘の命を託すことにする。それはそれで親としては少し寂しい気持ちもするけれど、自分が見込んだ男なのだから信頼して任せようじゃないか。
その代わり、何かあったらただじゃ済まないんだから。有希子はそう思うと、工藤邸から早々に引き上げることにした。
「もう遅いし今日はホテルに帰って、明日、シャロンとの勝負ワンピでも買いに行くわ。それに、なまえちゃんと昴くんの仲、邪魔しちゃ悪いし」
案外情熱的なのね、ここ。そう言って右首筋を指差し、ウインクとともに去っていく有希子に、なまえは一瞬ひるんだ。とっさに痕を隠したが、もう遅い。また油断して、いつの間にか見られてしまったらしい。
有希子が帰った後、残されたふたりは珍しく沈黙に陥っていた。沖矢は手持ち無沙汰にすっかり冷めてしまった紅茶を片づけ、キッチンの流し場まで運ぼうとする。しかし、それを静止したのはなまえ。沖矢のジャケットの袖を掴む指先は微かに震えていた。
「ねえ、昴くん。私、赤井さんに聞いて欲しい話があるんだけど」
「……珍しいですね。あなたに毛嫌いされている赤井秀一という男は沖矢昴に対して嫉妬していると言うのに、今日はその逆ですか」
その皮肉に対してもなまえは何も言わない。その様子にただならぬ様子を察し、沖矢は首元についた変声機のスイッチを切る。
「そこで待っていろ。すぐに戻る」
そう言ってなまえの頭を撫でると一度その場を後にした。なまえはひとり、考え込む。
ベルツリー急行に乗る前に、どうしても話しておきたいことがある。それも沖矢昴にではなく赤井秀一としての彼に、今まで誰にも言えなかった心の傷を吐露するときがきたのだった。