46...


 言われた通りそこでしばらく待っていると、変装を解いて赤井の姿に戻った彼がリビングの扉を開けた。首元の開いた薄手の黒いTシャツに、ラフなカーキ色のカーゴパンツ。そして相変わらずの鋭い眼光で目の前に座る彼に、なまえはまたもひるんで負けそうになる。赤井の姿で会うのは、先日の、キスマークの一件以来。禁止令を出すくらいなるべく会うのを避けていた存在ではあったが、こんなにも早く会うことになるとは。自分から言い出したくせにいざ目の当たりにすると、何から切り出せばいいかさっそくわからなくなってしまう。

 そうして、あまりに何も言い出さないなまえの態度に業を煮やした赤井は、何を思ったかため息交じりに立ち上がる。まさか出て行かれるのではと心配に思っていると、それは杞憂に終わるらしく。わざわざ彼は席を移動してなまえの隣にどさりと腰掛け、呆れたような、それでいて慈しむような優しい目で彼女を見据えた。そんな、いつもとは違う彼の表情に戸惑っていれば、赤井は少し考えた後でこんなことを言う。


「沖矢昴なら、どうするか考えた」
「え?」
「今日は俺に話があるんだろう? お前が苦手意識を持つ、赤井秀一に」


 だが、どうやら俺相手ではいつまで経ってもお前は話しにくいらしいからな、と彼は薄く笑ってみせる。だから沖矢昴のように接してやるから、お前もあいつに話すみたいに話してみろ。別に敬語でなくても構わないさ、と。そう言うなり、彼はなまえの髪をもてあそぶように指先に巻きつけて自分の口元に持っていき、毛先にキスを落とした。そして向けられた射抜くような視線と目が合って。その光景がなぜだか沖矢と被ってしまい、やはり彼らが同一人物であることを途端に強く意識してしまう。

 今日、美和子に指摘されたばかりの言葉が、なまえの頭には思い浮かんでいた。今まで無意識的に赤井に対しては敬語を使ってきたけれど、おそらく彼ならとっくにそのことに気がついて、曲がりなりにも同居している相手に壁を作られていると感じていたことだろう。それに、禁止令まで出されてはまるで本当の彼に「会いたくない」と言っているようなものだ。最低なことをしているという自覚が湧くと同時に、失礼を承知で少し笑ってしまいたくなる。今の彼の行動はまるでそのことを気にしていたかのようで、あまりに可愛らしかったからだ。

 さすがにタメ口というわけにはいかなかったけれど、その言葉のおかげで完全に緊張がほぐれたなまえは背中を押されるようにぽつりぽつりと話し始める。

 沖矢ではなく、赤井に聞いて欲しかったこと。一年前起こった、あの事件について。


「赤井さんがアメリカから来たFBI捜査官だからこそ、何か知っているかもしれないと思って」
「……」
「一年前、ニューヨークで起きた事件のこと。私に少し、話させてください」


 そう言って、まっすぐ向かってくるようななまえの目はやはり美しくて。赤井は彼女のこの表情が、何よりも好きだなと思ったのだった。



case46. 一年越しの約束を果たしに行く


「ニューヨークで一年前といえば。確か週刊誌を騒がせていたのはブロードウエイでの殺人劇か」

 赤井はそう言いながら、一年前の出来事を思い出す。来日をきっかけに今の髪型にしたので彼女は覚えていないのだろうが、当時長髪だった自分と彼女は、ファントムシアターで俳優が殺されたその日にウエストサイドの路地で再会を果たしている。再会、とはその数年前。まだ医大生だった彼女がメリーランドのガンクラブで捜査官顔負けの並外れた集中力で射撃をしている姿を見て、思わず声をかけてしまったのが初対面のきっかけだった。まさか来日後、楠田陸道を使った偽装死体の解剖を彼女が担当し、そしてこうして一緒に住むことになるなど、一体誰が予想できただろう。安っぽい言葉は使いたくないものだが、この巡り合わせは「運命」と呼ぶ以外にふさわしくないような気さえした。

 そしてその運命に導かれるように、自分は彼女に惹かれている。誰にも渡したくないほどに。

 ブロードウエイの殺人劇。その単語を久しぶりに聞いたなまえは、ちくりと心が傷んだ。もちろん、その話も多少は絡んではくるのだが本質的に話したいのはそのことではない。その後に起こった事件の方である。


「それも少しは関係ありますけど、もうひとつ。ニューヨーク中を騒がせていた連続通り魔事件があったじゃないですか。犯人は長髪の日系人男性で、サイレンサーつきの銃で若い女性ばかりを狙っていた事件」
「ああ。そして犯人は、その殺人劇が起こったのと同日に拳銃自殺した」


 やっぱり知っている。なまえは赤井に頷いて、さらに詳しくその事件について語り出す。


「私、実は当時、母や弟たちと一緒に事件が起こったミュージカルを鑑賞していたんです。そのチケットを取ってくれたのが、シャロン・ヴィンヤード。彼女は母の親友なので」
「……」


 それからなまえは、時折目を閉じながら思い出を語り始める。まるで海馬という深い海の底に沈めた記憶を、ゆっくりと引き上げるように。実に穏やかで、物憂げな口調だった。

 一年前のあの日。シャロンは外せない用事があると言って、ミュージカルを見ずに帰ると言い出した。一同一様に残念がりはしたが、相手はあの大女優。用があるなら見送るより他にできることはない。そう思ってただその背を心残りに見つめていれば、彼女は去り際、なまえだけにとあるレストランの住所が書かれた紙を手渡してきたのだった。そして、こう言う。「後でこっそり落ち合いましょう」と。今思えばその誘い自体が甘い罠だったというのに、なまえは珍しく気持ちが高揚して、まったくその謀計に気がつかなかった。

 胸の高鳴りの理由はもちろん、遅刻気味だった有希子たちがシアターに到着する前にシャロンとふたりして変装道具を買いに出たことに起因していた。シャロンは写真でなまえの顔を事前に知っていたようではあったが、当然お互いに話すのはそれが初めて。なのに、不思議なくらい彼女になら何でも話してしまえて、その仲の良さは傍目にも、アメリカなら多く存在する養子縁組の親子のように思われていたことだろう。工藤家に引き取られて長いとはいえ、本当の親の愛を知らないなまえなら一瞬にしてシャロンという女性に母性を感じ、好感を持つのは至極当然のことだった。

 その後、有希子が運転するジャガーEタイプのスピード違反切符を切りに来たニューヨーク市警を、シャロンとともに用意していた刑事の変装で騙し。さらには有希子たちの前でそのマスクを剥いでみせたことによって、なまえとシャロンはより強固な共犯関係としての結束を作った。

 そうしたすべての事柄があるひとつの目的に従った布石とも知らずに。

 ブロードウエイでの事件後、殺された俳優の検視を終えたなまえがシャロンに呼び出された住所通りの場所に向かうと、そこは古い集合住宅が密集した路地だった。大女優がお忍びで通うような店も、人気すらもなく。寂れ、ひどいくらい不快な薄気味悪い場所。

 そこで出会ってしまったのだ。懸命に自分を守ってくれた捜査員の彼と、恐ろしい形相をした通り魔の男に。


「捜査員の彼は、紙を渡した人間……つまりシャロンと通り魔が共犯だと私に言いました。じゃないとそんな危険な場所に外国人の女ひとりで呼び出すはずないですし、現にレストランはその周辺に一軒もなかったわけですから」
「……」
「でも、私はそれを聞いて思ったんです。シャロンと通り魔が共犯なんじゃなくて、シャロンこそが通り魔だったんじゃないかって」
「お前……」
「だから、彼女と直接対決したコナンくんから『シャロン=ベルモット』だという話を聞いたとき。どうしてシャロンが私を、あの、曇天のウエストサイドに呼び出したのかようやくわかったんです。それは」


 そこまで一気に話してたなまえの言葉が、突然、消え入るように途切れた。そしてやや間があった後、悲しみに染まった笑みを浮かべて静かに赤井に告げる。その声は身につまされるほど震えていた。


「私が……工藤家の本当の娘じゃないから」
「!」
「きっと、シャロンはこう考えたはず。劇場前で母たちを待っていた私を連れ出し、信頼関係を築いた上で治安の悪いウエストサイドにひとりで呼び出す。海外旅行客の方が詳しい治安を知らずにその場におびき寄せやすいですし、それに通り魔が若い女を狙っているという情報は新聞やテレビでも頻繁に報道されていましたから。そのことをよく知らずに私が殺されたとしても、無知な外国人女の末路としてアメリカ国民は笑うだけ。だからこそ、本当の目的であった手にかけたい捜査員を油断させるための足かせとして私を使うことにした」
「もういい」
「私は友人の娘だけど、本当の意味で娘じゃない。そのことは、母の親友であり、私の写真を見たことがあるシャロンなら知っていて当然でしょう?」
「なまえ」
「つまり、彼女にとって一番接近しやすく、使いやすく、それでいて新一や蘭ちゃんみたいに生まれながらに愛されて育ったわけじゃない孤児の私を選んだ理由は、もし運悪く死んでも他の人より痛みが少ないから! 神様が定めた運命として自分自身でも割り切れる考えを持っていたから!」
「もういいと言ってるだろ」


 赤井は怒り気味にそう言うと、なまえの体をきつく抱きしめた。腕の中にすっぽりと収まった彼女の小さな体はガタガタと震えていて、赤井はそれを止めようと躍起になる。

 これがなまえの隠していた一年前の傷だった。心配されるのが嫌で。慕っていたシャロンを悪だと認めるのが嫌で。今まで誰にも話したことなかったくせに、赤井にならどんどん話せる自分になまえ自身が一番戸惑っている。

 きっと優しい沖矢になら遠慮して話せなかった。ふたりに根本的な違いはないくせに、それだけ繊細な問題にいつの間にか発展していたのだ。まるで膿のように肥大し、ずしりと重く心にのしかかって。


「そんなに震えるくらいなら、無理して会いに行かなくていい」


 ここで俺の帰りを待っていろ、と赤井は言った。しかしなまえは、それだけじゃやはり嫌なのだと思った。待つのは嫌い。親友たちにもずっと待たされ続けているから。やきもきしているくらいなら行動した方がマシだ。

 なまえは包み込まれていた赤井の胸を押し、上目に彼の瞳を見つめる。そして精一杯に笑ってみせた。


「……確かに怖いですけど、でも会わなきゃ前に進めないと思うんです。それに、悲鳴が聞こえるくらいの美味しいステーキ、まだ食べてないですしね」


 一年前にした約束をベルツリー急行で果たしに行く。なまえはこの一件でシャロンの話が出たときから、そう決心していたのだった。

 呆れたような赤井は再び大きな腕でなまえを胸に収めると、改めて強く、力を込めて抱きしめた。彼女が今生きていることを感謝し、その事実を愛しく思って仕方がない。この生暖かくて柔らかい命を、ずっと、自分は手繰り寄せるように掴んでおかなくてはならないのだ。

 その誓いはかつて宮野明美という存在が教えてくれた。


「お前のことは、俺が守る」
「え……」
「どんなに残酷なことが待っていようとも、俺だけはこの先ずっと味方だ。だから、自分の死に痛みが少ないだなんて嘘でも言うな」


 それに残酷なことは何も、ベルモットの件だけでは済まないだろう。心の中で、赤井はそう思っていた。しかし、それを告げるのは自分の役目ではない。彼女が前に進むために、そして「狼」の正体を知るために、ベルツリー急行になまえが乗ることはやはり不可欠なことに思える。おそらく彼もその残酷な事実がなまえに知られるのを是が非でも忌避しにくるはずだが、それはこちらとして許せない。

 今後、彼となまえを近づけさせないために、今、近づけさせるしかないのだ。


「あ……」
「?」
「赤井さんがなんか……甘いような? まだ無理して昴くんしてるんですか?」


 すっかり困惑したように眉根を寄せた彼女が言うから、赤井はつい大笑いを咳払いでごまかしてしまった。そんな彼に対して、大きな疑問符を頭に浮かべるなまえ。そのきょとんとした表情があまりに可愛いから、まるで愛しい飼い猫にしてやるように、赤井は彼女の額に自分のをひっつけた。


「努力家のお前にいいことを教えてやろう」
「はい?」
「俺はこう見えて、結構甘い」


 特に好きな女にはな。そう言うと、なまえは一呼吸置いて吹き出すようにけらけらと笑った。どうせこれも冗談にしか思われていないらしいが、今はそれでいい。泣き顔より、笑っている方がもっと彼女らしいから。

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