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 ベルツリー急行、乗車日。早朝。

 なまえは自室のクローゼットの前でうんうん唸りながら、恥もなくアンダーウエア姿で仁王立ちをしていた。それもそのはず、今日という運命にふさわしい服装を乗車が決まった日から今までずっと迷い続けているからである。母・有希子もあの作戦会議の翌日「お気に入りのワンピが買えたの!」とまるで少女のような声色で銀座から電話をかけてきたことだし、それに感化されて自分もワンピースにしようとは思っていたのだが、当日になった今でもとうとう決めきれないでいた。

 考えに考え、絞り込んだ選択肢はふたつ。

 ひとつは、今日のキーパーソンである隣人の灰原哀の協力で得た一点ものの緋色のワンピース。まだ一度しか着ておらず新品同様のそれはフォーマルな場でも映え、豪華なクルーズトレインの列車旅としてはふさわしい装いである。それに、以前、その服に合わせて沖矢がつけてくれたハートのペンダントは、先日、直々に母から貰い受けることになって、首元の寂しさを気にする必要もない。ともあれ、あれだけアメリカに行く前日、失くしたことを嘆いていたはずである結婚記念日の品を有希子が自分に快く譲ってくれた理由が、あの優作がまったく同じものを新しく買い与えたからだと聞くと、まさしく彼らの夫婦としての本物の愛を見せつけられてしまったかのようで。たった一着の赤いワンピースのせいで彼らに当てられたことを思い出してしまったのだが、それはまた別の話としておこう。

 そして、もう一着は。まるで事故のように安室に買い与えられた、まだ一度も袖を通していないレモン柄のワンピースだった。

 なまえの脳裏には、あの日、安室に言われた言葉が思い浮かぶ。

『近いうちに、それを着ているあなたに会えることだけを楽しみにしていますよ』

 あのときは酒や雰囲気に酔っていて、大好きなレモン柄のワンピースをショーウインドウ越しに見て衝動的に欲しいなと思ってしまったのだが、素面になってよく考えてみれば、二十九歳という年齢的に自分には些かハードルが高いように思えて。いざ実物を目の前にすると、あまりに可愛すぎるそれを着ることになまえはつい尻込みをしてしまっていたのである。しかし、安室はお世辞でも何でもなく、本気で楽しみにするようにそう言って自分に手渡してくれた。あのときの表情が今でもずっと忘れられない。

 もうすっかり消えてしまったキスマークを見られたことは今でも悔やまれることで、おそらくそのせいで避けられている身としては、これを着て会うこと以前に、もう二度と彼に会うことも叶わないのだろうと思う。だから。

 だから、初めての恋をこのワンピースとともに封印しよう。なまえはそう思って、大きなため息をついた。


「……決めた」


 ようやく決めた一着を身にまとったなまえは、くるりと鏡の前で一周し、頼りなく自分に笑いかける。そして自室を出て階段を降り、キッチンへと向かうのだった。

 同じチームとして一蓮托生することになった沖矢昴に、おはようと言うために。



case47. 運命の一着


 沖矢、有希子、そしてなまえは運命共同体とはいえ、基本的には別の部屋で、別行動を取ることになっていた。その中でも今回のミステリートレインへの参戦が遅くに決まったなまえの動きは他のふたりよりも特殊で、作戦上、行動に制限を設けられていない。偵察としてベルツリー急行内を歩き回り、怪しげな人物がいないかどうかをチェックして回ることになっている。ちなみに彼女がこの列車に乗ることを新一は結局(反対するので)知らないらしいのだが、あらかじめ立てていた「名古屋になまえを配置する」という作戦のときから役割的には変わっていないと参謀の沖矢は言った。


「組織の人間がベルツリー急行に乗車してくるかはまだ確証がありませんが、万が一の盗聴を回避するために電話は避け、連絡はお互いの安否確認も兼ねて頻繁にメールで取り合いましょう。誰に聞かれても『ひとりで乗車している』とうそぶくことだけは心がけてください」
「了解」
「僕は有希子さんと逐一連携を取るために列車内でも会いますが、なまえさんは僕らと極力接触はせず、無理のない範囲で単独行動をお願いします」
「わかった」


 要するにその役はスパイである。なまえは母のクローゼットから引っ張り出してきた女優帽と、いつかのティアドロップのサングラスで仰々しく素顔を隠しながら、自分の仕事についてそんな風に思っていた。その姿が逆に目立ってしまっていることに自覚はあるようだが、沖矢はむしろその格好を似合うと褒めて、大げさなくらい推奨する。豪華列車に乗り込むほどの人物であれば素性を隠すために変装で乗り込んでくる著名人も少なからずいるだろうから、と。しかし、本心はその逆で、あえて彼女を目立たせることこそが彼の狙いでもあったのだ。

 実はなまえをスパイ役に任命したのはフェイク。本当の狙いは、早々になまえをバーボンの前に晒すことで、必ず彼に大きな動揺を与えることができると画策したからである。おそらくプライドの高いバーボンは無様にも必死でなまえに正体をバラすまいと足掻くだろうが、その足掻きこそがチームにとっての大きな隙。たとえ、その事実で彼女が苦しむことになったとしても、逆に自分がフォローするいいきっかけにも繋がるだろう。そういう悪い下心も、正直、沖矢にはないわけではない。

 そして、彼女から事前にニューヨークでの通り魔事件の話を聞いたことで、ベルモットも同じ反応を示すのではないかと沖矢には思えていたのだ。ライとして長年、組織に身を置いていた自分だからこそそれがわかる。あの女狐の律儀な性格上、一度借りを作った人間に危害を与える可能性は低い。


「にしても、なまえさん」


 沖矢は鏡の前で格好を微調整し続けるなまえに、半ば強制的な提案のようにこんな言葉を投げかける。


「その服より、以前、着ていた緋色のワンピースの方がベルツリー急行にはお似合いそうですし、僕も好みでしたけど」


 すると、なまえはサングラスを外し、落胆の表情でため息をついた。


「……昴くんには絶対そう言われると思った」
「なら今からでも遅くは」
「でもね。これは封印のための一種の儀式だから」
「?」


 封印。儀式。そんな禍々しいオカルトめいた言葉に疑問符を浮かべていると、なまえはレモン柄の裾を持ってくるりと一周してみせる。そう、彼女が運命の一着にと選んだのは安室に贈られたレモン柄のワンピース。その姿はまるで可憐な少女のようで十分すぎるほど可愛かったのだが、沖矢にはやはり、先日の緋色のワンピースの方が彼女の魅力を最大限に引き出すように思えてならなかったのだった。

 しかし、なまえはある想いによって選んだ運命の一着に、決して信念を曲げることはない。


「嫌な記憶や、忘れたいことは、今日で全部おしまい」


 このワンピースも今日限り。なまえはそう言って、力なく笑った。ベルツリー急行から降りた後は、安室にこの姿を見せないまま、気持ちと一緒にクローゼットの中に封印しよう。だから今日だけは嫌なことともまっすぐ正面切って向き合うために、その勇気を、恋い慕う彼からもらうのだ。愛しいレモン柄に込めて。

 沖矢はそれを聞くと、まるで事情を悟ったように優しく笑みを返した。彼女なりの決意の表れなら、自分も尊重しないわけにはいかない。そう思ったのである。


「じゃあ、その儀式。僕も手伝いますよ」
「ありがとう! その代わり、車内ではあんまり動けないだろうから私が昴くんのこと怪しい人から守るね?」
「まも……いえ、まあそうですね。期待しています」


 とはいえ、守るのはこっちなのだが。そう思いながら、人の気も知らない彼女に手を焼く沖矢なのだった。

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