49...


 車内を歩き始めてすぐにわかったことは、この列車の各車両後方部にひとりずつ車掌が配置されている仕様であるらしいということだった。ベルツリー急行はオーナーの意向で車両番号が列車内につけられていない。この仕様は大方、車内で毎回発表されるという推理クイズのミスリードであると察するが、たとえクイズ外であっても、気を抜くと自分が今何号車にいるのかわからなくなってしまう客が多いらしく、車掌に車両番号を尋ねている乗客をすれ違いざまに何度か見かけた。また、車掌の仕事はそれ以外にも、乗客が部屋で呼び鈴を押せば部屋の外側についたランプが点燈し、それを目印にして用聞きに訪れることも含まれているようである。そんな仕事ぶりを大変だなと横目に見ながら、展望室へ寄り道したり、対面から来た乗客の中で怪しげな人物がいないかどうかを注意深く観察したりしながら、ようやくなまえは目的地であった食堂車へとたどり着いた。

 食堂車の席は、いち早くこの列車の景色を楽しみながら食事をしたいと思った客たちで既に満員だった。申し訳なさそうな表情をしたウエイターに席が空くまではしばらく待つようにと言われて入ることすらを迷っていると、視界の向こうからひとりの男性客がわざとらしいくらいに襟を正してこちらに近づいてくる。嫌な予感しかしなかったのでとっさに体をこわばらせていたのだが、その緊張が一瞬で解けたのは、その男と自分がまたも知り合いであるからだった。


「これはこれはお美しいお嬢さん! ぜひ、この毛利ポア郎と相席を……!」
「毛利探偵」
「え?」


 なまえはそこでようやくサングラスを外し、母直伝の女優ばりの顔で頬笑んでみせる。こんなところでよもや毛利探偵にナンパをされるなどとは思っていなかったが、相席したいとそちらから申し出るならそれに乗るしかないだろう。席は相変わらずすぐには空きそうにはないし、おまけに慣れない諜報活動による緊張で喉も渇いている。それに、食堂車に今いる客を一瞥しておく、いい機会にもなるだろうと思えたのだ。


「た、探偵ボウズのお姉さん……! どうしてこんなところに」
「私もミステリーファンなもので。毛利探偵もでしょう? 推理クイズ楽しみですね」
「ま、まあ。自分は解説役を頼まれましてここに……」
「そうだったんですか」


 ということは、もう推理クイズは始まっているのだろうか。なまえは遠慮なく彼と対面する席に座って、暖かいレモンティーを注文した。それを受けた感じのいいウエイターが「素敵なレモン柄のワンピースですね」とお世辞を言ってくれたので、思わず気をよくして微笑み返してしまう。


「解説役の毛利さんに聞いてしまうのは忍びないのですが、今回の推理クイズ、どのような感じだったのでしょうか? この列車が東京駅を出てすぐに散歩がてら車内をうろついていたので、自室にいなかったためか出題内容を聞いていないものでして」
「それはまだ私の口から申し上げられませんが、なに、任せてください! この名探偵、毛利ポア郎が推理クイズだろうが何だろうが事件を解決に導いてみせますよ!」
「は、はあ……頼もしいです……」


 小五郎は口髭をくるんと上向きにし、クリスティの生み出した名探偵エルキュール・ポアロを気取ってそんなことを自慢げに言う。きっとクリスティの代表作『オリエント急行』とこの列車を重ね合わせているのであろうが、眠りの小五郎の正体を知っている数少ない身としては苦笑いしか出てこない。事件を解決しているのは新一だぞ、と。

 しばらくすると洗練された白磁器のティーポットが運ばれて来て、カップに注ぐという単純な作業まで見事なくらい鮮やかに給仕役がこなしてくれた。最後に落とした輪切りのレモンが紅茶に浮くと同時に「ごゆっくりどうぞ」と颯爽とその場から立ち去るウエイターはまさに一流ホテルと同格である。なまえはその紅茶の香りを楽しみつつ、周囲にも目を配りながらしばらく毛利探偵とイマイチ噛み合わない会話を楽しんでみることにした。

 彼は最近解決した事件のことや、捜査した内容などを、もちろん守秘義務の範囲で楽しげに話してくれた。しかし、そのどれも肝心なところで眠り状態であるために、すべて不完全な話のように思えてならないから反応に困る。それは弟のせいなので仕方のないことではあるのだが、最初こそ律儀に応答しながら聞いていたなまえも、途中から失礼承知で半分程度聞き流してしまっていた。幸か不幸か、小五郎がそれに気づくことはない。

 見渡したところ、食堂車に怪しい人物はいないようであった。なまえはそう判断し、時間が経って味が渋くなる前に二杯目を継ぎ足す。そうとなればここでの長居は無用。喉の渇きさえ収まればそれでいい。


「そういえば! あなたに紹介したい人がおりまして」
「え?」


 突然そんなことを言うと小五郎は辺りを見渡し、きょろきょろと誰かを探し始める。紹介したい人と言われてなぜかとっさに女だと思ってしまったなまえは、さらに冷えた気持ちで彼を見つめてしまった。愛人とかだったらどうしよう。その場合は遠慮なく、妃法律事務所に通報する。

 しかし、目当ての人間は見つからなかったようで、小五郎はおかしいなあと何度も首を捻っているようであった。実はなまえがここに来る寸前、愛人ではなく、偶然乗り合わせた「小五郎の弟子」なる人物が傍にいたのだが、目を離した隙にどこかへ行ってしまったらしい。それにしても、彼のあの態度は偶然ここを通りかかったというより、まるで誰かを探しているような素ぶりであったが、それに気づいていながらも聞きそびれてしまった迷探偵・毛利ポア郎なのである。


「おっかしいなあ……さっきまでそこにいたと思ったんだが……」
「?」
「ああ、すみません。また後ほど紹介させていただきますよ。何て言ったって、ここは走る密室。すぐに顔を見合わせるでしょうからね。ナーッハッハッハ!」
「え、ええ……」
「それより紅茶だけでは小腹は満たされんでしょう。ケーキでもお召し上がりになりませんか? このポア郎がご馳走させていただきますよ。麗しきお嬢さん?」


 いくら工藤家の養女で年がひと回りも離れていないとはいえ、一応、娘の幼馴染の姉という立場。なのに、些か邪な気持ちでいい顔をしようとしていることに気づいたなまえは苦笑いを浮かべながら、食べている時間が惜しいのでとりあえずケーキは断った。まだ自室より後方の車両は見てもいないし、特に一等車がある八号車は部屋の内装は見学できないとはいえ、かなり気になる場所である。それに、一番後方である貨物車も立ち入れる範囲で見ておきたい。

 にしてもこのおじさん、昔から全然懲りてないな。なまえはそう思いながら、無理やり笑みを貼りつけて順調に紅茶を飲み干していくのだった。

 その同時刻。まるでオリエント急行のように殺人事件が起こっていたとも知らずに。



case49. 発端


 小五郎となまえが話をしている最中、一等車である八号車B室では殺人事件が発生していた。もともとそこはオーナーの姪である園子と蘭の部屋であったのだが、同室をダブルブッキングした結果七号車のB室に回された男と、推理クイズのためにカードで指定されて部屋を入れ替えていたのである。今回殺されたのはその男。世良とコナンがドアにかかっていたチェーンロックを引き千切って中に入るまで、そこは完全なる密室。硝煙と生臭い血の匂いが充満する、惨劇の舞台となっていた。

 被害者の男はサイレンサーつきの銃を持ってソファの上で息絶えていた。向かいのソファにも一発の銃痕があることから、おそらく、自死と見せかけるために一発余計に撃つことで被害者の服にも発射残渣をつけたかったのだろう。事件に精通していた世良やコナンは現場を一瞥するなり直感的にそう思ったが、密室という現場の異様さから、蘭や園子たちは殺人事件だとはあまり思いたくないらしい。それも当然である。何しろ殺人であれば、この列車内のどこかに恐ろしい犯人がいるということになるからだ。

 それならさあ、と世良はある人物の顔を頭に思い浮かべながら得意げに言う。今この列車内に自殺か他殺かを判断する「死体のプロ」がいるということを知っているのは、この場で彼女だけだった。


「せっかくだし専門家をここに呼ぼうよ。ボクたちだけじゃ、どうやったって素人の判断。プロが他殺だと認めれば今後の捜査において説得力も強くなるし、それに新たな発見があれば『彼女』に見つけて欲しいからね」


 車掌さんに頼んで呼び出してもらえば、一発で来てもらえるだろうからさ。そんなことを簡単に言ってのける世良に、その場にいた全員が同じように目を丸くした。彼女とはまるで、全員が知っているあの「彼女」のことを言っているようであったからだ。


「それってまさか……」
「ああ、もちろん工藤くんのお姉さんだよ。彼女、ボクの部屋の隣なんだ!」


 それを聞いたコナンと灰原は驚きのあまり声を失った。そして、蘭や園子、それに子どもたちは、なまえもこのベルツリー急行に乗っていることを知るや否や、心強い助っ人を得たかのように歓喜して沸き立っている。確かになまえならこの現場に物怖じひとつせず、見事な検視を行ってみせるだろう。しかし、コナンが考えるのはそれどころではない。

 小さな名探偵は、すぐに携帯電話を操作して母・有希子からのメールを確認した。それは今しがた受け取ったばかりの「この列車内でベルモットと思わしき人物を発見した」との目撃情報を伝えるもの。自分たちが考えていた最悪のシナリオが的中したこと知らせる、なんとも苦いメッセージだったのだ。

 つまり、このベルツリー急行には自分たちの見立て通り、少なくともバーボンとベルモットが乗り合わせているということになる。かつて組織の一員であった、シェリーこと灰原の命を狙うために。

 そんな危険な場所で大々的になまえを呼び出したりしては、いくら偶然を装ったとしても無理があり、大問題を引き起こすのではないかと思えた。特にベルモットはニューヨークの一件でなまえのことを知っているはずだし、組織とは無関係な姉に対して彼らの牙が剥かれるのは何としてでも避けたい。ここは是が非でも名指しでの呼び出しは回避し、彼女をこの八号車に招くのだけは避けなければならないと名探偵はとっさに頭を抱える。

 しかし、それと同時にコナンは、姉がこの列車に乗っているという事実を自分に黙っていたこの判断こそが、赤井によるひとつの作戦であるという可能性についても既に行き当たっていた。ベルモットに顔と名前が割れている彼女が乗っていることを逆手に取って、むしろ油断を誘うための鍵として使うつもりなのではないか、と。

 あの赤井が無断でそう仕向けたからこそ、何かとっておきの策があるに違いない。信頼の置ける彼だからこそ姉のことは全面的に任せることにして、ともかく今は目の前のこの事件を解く手がかりをひとつでも多く彼女から得ることが先決だろう。コナンはそう判断し、メールで手早く彼と連携を取ってから世良に返した。


「……なまえ姉ちゃん、車掌さんに呼んでもらおっか」


 その言葉と雰囲気に、灰原だけは落ち着かない様子で流れに身を任せていたのだった。




 そのアナウンスは唐突に行われた。

「お客様にご連絡いたします。先ほど車内で事故が発生しましたため、当列車は予定を変更し、最寄りの駅で停車することを検討中でございます。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、こちらの指示があるまでご自分の部屋で待機し、極力外には出られぬようご協力をお願いします。繰り返します、先ほど……」
「事故? 何だあ?」
「何でしょうね」


 推理クイズにしては些かドッキリが過ぎるような気もしたが、食堂車にいた乗客たちも同じようにクイズの一環であると思っているようで、意外に席を立つ者は少なかった。小五郎となまえは互いの出方を見るようにその顔を見合わせていると、繰り返し行われた二度目の同じアナウンスの後、引き続き別件でアナウンスが入る。


「お客様の中にご連絡いたします。工藤なまえ様、工藤なまえ様。至急、八号車B室までお越しください。繰り返します……」
「えっ、私?」
「きっと、あなたも推理クイズの何かの役に選ばれたんでしょう!」
「そうなのでしょうか……とりあえず、行ってきます」
「ええ! また!」


 なまえは小五郎に軽く会釈をし、席を立つ。にしても、この世のどこに実名で呼び出しを食らうスパイがいるというのだろうか。なまえは苦々しく思いながら、もう必要なくなってしまったサングラスをワンピースの胸元にかけて大きくため息をついた。そして食堂車を出ると同時に、小五郎との会話と周囲への観察に集中力を割いていたため、しばらく確認できていなかった携帯電話を歩きながら操作することにしたのである。

 すると二件、メッセージが届いていることに気づく。一通目は有希子からで、十五分ほど前だった。


『思った通り、この列車内でシャロンらしき人物の姿を発見したわ。なまえちゃんは彼女のこと知っているだろうけど、安心はしないで。どんな出方するかわからないから』


 そのメッセージを読むや否や、なまえの心臓は大きく震えた。この列車内のどこかに、シャロンが乗っている。しかも「らしき人物」ということは彼女が既に何者かに変装をしているということ。そして、それがどうして有希子に変装であるのかわかったかといえば、自分たちの知り合いになりすまして化けている可能性が高い。

 とにかく、今は呼び出された八号車へと向かおう。なまえは足早に後方へと進みながら、二通目に目を通す。それはたった今来たばかりの、沖矢からのメッセージだった。


『コナンくんと今しがた連携をとった結果、車掌にあなたの名をあえて実名で呼び出してもらうことになりました。八号車にて蘭さんたちと合流したら、くれぐれも彼らの傍を離れないように。灰原哀に関してはプランがあるのでご心配なく』


 何だそれ。その内容はとても勝手で、なまえはまるで部外者だと言われているような気がしてとても腹立たしくなった。しかし、そのメッセージには続きがある。

『ただし。この先、あなたに不用意に接触してくる人物はもれなく危険人物とみなしていただいて結構です。その者について慎重に観察し、気をつけながら行動してください』

 その一文を読んで、あえて自分の実名を使った理由をようやく悟った。これから自分に接触してくる人物こそベルモットなのだ、と。そしてその人物を警戒することで、予防線を張れという意味に違いなかったのだ。

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