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八号車はそれまでの雰囲気と一変して、全体的にシックな雰囲気を持つ気品高い車両であった。当該のB室の前では、蘭や園子、それに子どもたちという見知った顔ばかりが揃い踏みであり、さらにはガヤガヤと騒がしく八号車の乗客だと思わしき人物たちが集まって何やら話をしている。なまえはその間を掻い潜りながらようやく部屋に到着し、そこで見た光景に、自分が呼び出された理由をようやく思い知った。
それはクルーズトレインとしては見るも無残なほど惨たらしい現場だった。向かって左側のソファに恰幅のいい男性がひとり。こめかみから血を流して死んでいる。右手にしっかりと拳銃が握られていることから、事件を見慣れていない者ならそれがただの自殺死体のようにしか映らないだろう。だが、注視すればするほど監察医としてはその現場に対して奇妙な嘘くささを感じてしまう。こめかみの銃創。向かいのソファについた着弾の痕。そして床に散らばる密室を表していたチェーンロックの鎖。
しかし、凶器であるサイレンサーつきの拳銃を目にした瞬間、なまえの脳裏には一年前の事件がフラッシュバックする。
曇天のあの日、ウエストサイドの廃ガレージにて。恐ろしい風貌の男に睨まれながら突きつけられたサイレンサーの銃口。そしてその通り魔の正体が、憧れのシャロン・ヴィンヤードであるとわかった裏切りを、なまえはその胸に一生の傷として深く刻みつけてしまったのだった。この男を殺した犯人が彼女であるとまだ決まったわけでもないくせに、途端に今、目にしている殺人現場が異様な空間として切り取られてぐらぐらと視界が揺れる。その凶器が、シャロンの存在を誇示するかのようにしか思えなかったのだ。
「なまえ……?」
「え……?」
「どうしたんだよ、顔色悪ぃけど」
「だ、大丈夫……」
心配そうなコナンにそう言われてようやくなまえは我に返った。冷静になって考えてみると、この現場は絶対にシャロンの仕業などではない。なぜなら彼女なら、もっと上手く被害者を自殺に見せかけて殺すことなど造作もないからだ。現場から判断するに、やはりこれは素人の仕事。専門家の見地からすれば、お粗末すぎるほどハリボテのトリックである。
「なまえさん!」
「やっぱり乗ってたんですね!」
「蘭ちゃんに園子ちゃん。大丈夫? 怪我はない?」
「はい、私たちは」
「推理クイズのために部屋を入れ替わったこのおじさんが亡くなっちゃったのはかなりショックだけど……」
なるほど。もともとここは鈴木財閥が園子のために用意した一等室だったというわけか。なまえはそう合点しつつ、駆けつけていた眼鏡の車掌から一言断って白い手袋を借りた。いつも使っているラテックス製ではなく布製であるためあまり慣れなかったが、使用しないよりはマシだろう。そう思い、少しサイズの大きな男性用のそれをはめる。
「それより、この現場どうかな。なまえさん? 自殺か他殺か、わかるよね?」
世良のクイズのような問いかけに、なまえはもちろん即答する。
「そんなの、他殺に決まってるでしょう」
まだ部屋を一瞥しかしていないのに、そう断言するなまえに蘭たちは驚いた。続いてなまえはなるべく下足痕を残さないよう慎重に室内に入り、被害者の頭部に軽く触れてこめかみの傷口を観察する。そこには自殺であれば必ずつくはずの焦げ跡がない。つまり、銃口とこめかみは離れていたということになり、サイレンサーのような長物を装着して自分の頭を撃たなければならなかったというのは自殺現場の状況としては矛盾している。
もちろん、死ぬ直前に恐れをなして離してしまう可能性もないわけではないが、それなら僅かながらでも入射角がつくだろう。しかし、こめかみに風穴を開けている弾道の向きは迷いのない一直線。やはり自殺として考える方が不自然だ。
また、反対側のソファに銃痕がついていることも踏まえると、さらに他殺としての理由は余計なくらい説明がついた。自殺者がそこへわざわざ試し撃ちをする必要などなく、故に自殺の痕跡を残すためわざわざ被害者の腕に硝煙反応を残そうと、死後、犯人が握らせて撃ったと考える方が自然。つまり、この犯人は音が絶えず鳴る列車内にも拘わらず、サイレンサーを用意するほど慎重な性格で、周到な計画性を持っていた。おまけに発射残渣のことを気にするほどのミステリー好きではあるが、殺しには慣れていないズブの素人、というプロファイリングにまで繋がる。でもまあ、このベルツリー急行に乗っている乗客自体、ほぼ全員がミステリーファンであるだろうと判断できるので、そのプロファイリングがどこまで役に立つかは甚だ疑問である。
そういう説明でご満足いただけましたでしょうか、世良さん? なまえがそう言うと、まるで手品でも見ていた子どもたちからは途端に「格好いい!」という光栄な歓声が上がった。これにはさすがの世良も大満足で、コナンも先ほどの姉の態度を払拭する。やはりいつも通りのなまえだ、と。
「やっぱりプロが言うと迫力が違うよな!」
にこにこと八重歯を見せて笑う世良に、なまえも照れた笑いを返した。そして、やはり他殺の線で捜査を進めていくことを宣言し、女子高生探偵らしくこう続ける。
「じゃあ、後の操作はボクたちに任せて。子どもたちをよろしく頼むよ。コナンくんの言う通り、殺人犯がまだうろついているかもしれないからね」
「大人しく蘭姉ちゃんたちと部屋にいるんだぞ」
「はーい」
おもしろくなさそうな返事をする少年探偵団のみんなに、なまえはくすりと笑みを見せる。すると、一応その中のメンバーでもあるコナンが、彼女のレモン柄のワンピースの裾を引いた。
「おい、なまえ」
「ん?」
「オメーまでなんでこの列車に乗ってんだよ。名古屋で待機のはずだったろ」
「新ちゃんの情報、古いね。パスリングも昴くんからもらったし、結構前からこの列車に乗るのは決まってたよ。しばらく中で諜報活動もしてたぐらいだし」
そう言って、冗談ぽく大きなサングラスをかける彼女に、コナンは苦笑いを浮かべた。こいつ、本当に黒ずくめの組織の奴らが乗ってるかも知れねえってわかってんのか? そう思い、つい、呆れてしまう。しかし、どうやらやはり独断というわけではなさそうなので、沖矢に免じてそれは許そう。今の検視は十分すぎるほど納得できる推理材料になったことだし。
それにしても、となまえは言葉を続ける。その表情はどこか悲しげだった。
「全車両に向けて名指しで呼び出されたんじゃ、その役目ももう終わり。後は生贄として相手からの接触を待つのみって感じなのかな」
「え?」
「じゃあ、またね。新ちゃん。私の命も預けるわよ」
縁起でもないことを言う彼女の笑顔にある種の「決心」を見た。そして、こんなことを思う。もしかしてなまえは沖矢に言われたからではなく、なまえ自身の目的を果たすためにここに乗り込んで来たのではないか、と。
case50. 命を食べる狼
博士や子どもたちの部屋である六号車D室前の廊下で、なまえたちは蘭が小五郎に電話を終えるのを待っていた。その間も、周囲の客たちは先ほどから続報のないアナウンスをようやく本物だと信じ始めたらしく、ざわざわとした落ち着かない雰囲気を放っている。なまえはとりあえずすることもないので、手持ち無沙汰に車窓から猛スピードで流れていく景色を眺め、シャロンが接触して来るそのときを待った。
「にしてもなまえさん。そのワンピ、超似合ってる!」
「え?」
「レモン柄なんてまるでなまえさんのためにあるみたい! すっごく素敵!」
園子にそう言われてなまえは一度、目線を下げて自分の姿を見た。そしてはにかみながら答える。
「ありがとう……ちょっと可愛すぎたかな、なんて」
「ぜーんぜん! この肩のとこがオフショルだったら私も欲しいくらい。なまえさんもそのくらい露出があっても大丈夫だと思うけど」
「園子ちゃん、また京極くんに怒られちゃうよ」
「えー」
だって、可愛い洋服着たいじゃん! とまるで身悶えるように地団駄を踏む園子を、なまえは可愛いなあと微笑ましくなる。もし、自分が彼女たちくらいの年齢の頃、オフショルダーなんて着たらどんなことになっていただろうか。降谷には夏にプールで水着でさえもダメだと言われたこともあるほどなので、おそらくきっと、ダメなのだろう。……たぶん、公然的に。
「でも、園子ちゃんにそう言ってもらえてよかったよ。赤いワンピースと迷ったんだけどね」
そう言って、なまえはふと灰原に視線を落とした。もちろんそれは灰原のおかげで手に入れた例の緋色のワンピースを指して言っているのであるが、小さな彼女はそれどころではないらしく、電話をする蘭の後ろに隠れて目深にフードを被りぶるぶると小刻みに震えている。
「哀ちゃん……?」
そしてその視線の先にいた人物こそ、なまえも驚きで体が硬直してしまうほどであった。
「!」
帝都銀行強盗事件。そして米花百貨店爆破未遂事件のときに見かけた以来の、火傷の男。それも、今ならその人物が同居人である赤井秀一の顔だとなまえにはわかっており、死んだと見せかけられている彼にわざわざ変装してうろつくなど、そんな悪趣味な真似をする人間はこの世にひとりしかいない。
それは変装の名手。そして、この列車で組織の裏切り者であるシェリーの命を狙っている、ベルモット。彼女しかいないのだ。
つい体が反応し、なまえは火傷の男を追いかけるために一歩、体を前に出した。しかし、電話を終えたらしい蘭の明るい声が背後から聞こえて足を止める。
「あれ? あなたも乗ってたんですね!」
「え……?」
「安室さん!」
振り返るとそこにいたのは、友好的に笑みを浮かべる安室透。なまえの想い人だったのだ。