05...
高校の入学式からは少し経って、桜はもうすっかり散ってしまっていた。燦々と降り注ぐ太陽を浴びて青葉は生い茂り、長袖でいるのが既に嫌になるほど初夏の気配を感じさせる。
工藤なまえは孤児院時代に比べると、多少は工藤家に馴染んで笑うようにもなったが、それでも人づき合いが苦手な部類にあることには変わりなく、家族以外の人間には未だ上手に心を開けずにいた。まあそれも、不安がっていたのは両親だけで、当人は割にけろっとしているから余計にタチが悪い。なぜなら彼女自身、友達がいないということを別段、困るという認識がなかったからだ。
相変わらずホームズを窓辺で読み、最近シリーズ化されて好調である父の作品『闇の男爵』を読み、その他ミステリー以外の本も読み……たまに窓の外を見て季節の移ろいを感じては、またも活字に没頭する。高校生活に際しても、そういう退屈な生活が再び三年も続くのかと思う程度だった。
しかし、その日は違った。放課後、開け放った窓から爽やかな風に乗って何やら音が聞こえてきたのだ。
最初は雑音かと思って気にも止めていなかったが、次第に音はひとつにまとまって、美しい音色を奏でているらしい。それも、最近の流行歌をろくに知らないなまえでも知っている、有名な童謡。
「うさぎ、おいし、かの、や、ま……」
気づけば文字を追うのを止めて、音楽に合わせてその歌を口ずさんでいた。心地よいギターのアルペジオの音と、ベース? だろうか。その二層の音が、陸上部の掛け声や、野球部の打つボールの音と重なって、一段と空が高くなる気がする。そのコントラストの美しさに珍しく胸が鳴って、最後まで呟くような歌声を止めることができなかった。
そうして一曲聴き終えるや否や、なまえは突然、用事を思い出したように本をしまって、その日は走って家に帰った。そして、帰宅するなり工藤邸にあるピアノの前に腰掛けて、今日、聞いたばかりの演奏に合わせるように少しアレンジを加えながら鍵盤を叩いていく。単純な楽曲ではあったものの、だからこそ納得のいく演奏ができるまで、確かめるように何度も何度も繰り返した。
ようやく満足できる編曲で一曲すべてを弾き終えた頃、見計らったようなタイミングで背後から拍手が聞こえてくる。集中して全然気がつかなかったが、執筆中であった優作がいつの間にか彼女のリサイタルを見にきていたらしい。
「『ふるさと』か。美しい曲だね」
「……えっと」
「でも、急にどうしたんだい。というか、なまえはピアノが弾けたんだね」
それもかなり上手い、とつけ加えられなまえは少し赤面する。ピアノは孤児院で少し教わったことがある程度だ。そう回顧しながら、彼女は父親である優作に今日の出来事を話してみることにする。
放課後、聞こえてきたあの美しい曲のこと。誰が弾いていたのかもわからないが、自分の胸に、確かに響いたこと。
「ほほう。それはなかなかミステリー性を感じるね。放課後に聞こえる不思議な童謡の謎、か」
「謎?」
「そうだ。真実を知りたければ、明日、その曲を音楽室のピアノで弾いてみるといい。そうすれば、きっとわかるさ」
「わかるって、何が?」
「そんなに美しい曲を弾いて、オレの娘を虜にした犯人がね」
なまえは少しびっくりした。他人に興味がなかったはずなのに、演奏者について知りたがっている自分がいたことを、見事、優作に言い当てられてしまったからだ。
case05. つつがなしやともがき
翌日。なまえは優作に言われた通り、放課後、意を決して音楽室に来ていた。音楽教諭に「ピアノが弾きたい」と申し出ると、使用後は教室をしっかり施錠することという約束と引き換えに快く鍵を渡してくれて安堵する。反面、少し緊張もしていた。もし、優作の推理通り昨日の演奏者が来たところで、上手く話ができる自信がなかったからだ。
まずは人差し指で調律を確かめるように無作為に鍵盤を叩く。そしてピアノ椅子に腰掛けて、深呼吸。それから重々しくペダルに足を置き、前奏のために指を滑らせる。
ふるさとはその名の通り、故郷を思う曲。今は遠い場所に住むことになってしまった人が、出身の地を焦がれ、郷愁する。自分にとっての故郷は孤児院なのかもしれないが、もっと大人になってたくさんのことを経験すれば、今通っている学校や家が、自分にとっての故郷の一部になっていくのだろう。なまえはそんなことを思いながら、昨日アレンジを加えたオリジナルの『ふるさと』を弾いた。
ノックもなく扉が開いたのは、最後のワンフレーズというところだった。そこには見知らぬ男子生徒がふたり。ギターケースを抱えて、こちらの様子を伺うように怪訝な顔で立っている。
一方は黒い髪。もう一方は、褐色の肌に対照的な金の髪。
「あ……」
驚きで演奏が飛んだ。なのに、その金髪の彼の方が、顎を使って態度悪く言ってくる。
「さっさと弾けよ、続き」
「え?」
「ああ、えっと。上手いから、続き、弾いてくれないかって」
上から目線の言葉をフォローするように、今後は黒髪の彼の方が苦笑いを浮かべながら言った。なまえは少しむすっとしたが、言われるがまま止まってしまった演奏の、少し前から再び弾き始める。
彼らはいつの間にかピアノを囲むように集まって、伴奏に沿ってのびやかに鼻歌を歌い始めた。なまえにはそれがとても嬉しくて、自分も小声ながら、歌う。
いつか、この景色の一部も、自分の故郷になる。そんな確信があった。
「いいね! 上手い!」
「……まあまあだったな」
「いやいや。ほら、間奏のソロパートとかさ。自分でアレンジしたの? すごいな!」
「次のアレンジは変だったけど」
「……悪いね、君。ゼロはこういう奴なんだ」
「ヒロ。あんまり余計なこと言うなよ」
目の前を横切るようにテンポよく交わされる会話についていけず、なまえはとりあえずふたりの顔を交互に見て、気になったことを口にする。
「ゼロと、ヒロ?」
「ああ。オレの名前は諸伏景光。で、ヒロな。こっちは」
「降谷零。零は漢字でゼロって書くから、ゼロ」
ふたりはとても仲がいいようで、終始、顔を見合わせて笑っていた。いや、笑っているのは主に黒髪の諸伏と名乗った男子生徒だけだったが、それでも邪険に扱わない降谷の態度で、仲のよさは推し量れる。その点から見ても、息の合った昨日の演奏はこのふたりに違いない。
せっかく名前を教えてもらったので、なまえも真似をして「私は」と言いかける。しかし、降谷が冷たくそれを静止した。
「お前のことは知ってる。学年で浮いてるから」
「おいおい、そんな言い方するなよ。工藤だろ? 工藤なまえ。なあ、それより今からここでセッションやらないか。童謡で、格好つかないけど」
「はあ?」
「いいだろ、やってみたいんだ! なまえの伴奏で!」
突然、何の了承もなく下の名前を呼び捨てにされて、さすがに心臓が脈打った。何気なしの諸伏の言動がなまえには嬉しくて、つい俯いて顔を隠してしまう。
「……えーっと。なまえさん? ダメ?」
「ううん。その逆」
「え?」
「そうなったらいいなって、思ってたから」
それから日暮れまで、三人は飽きもせずいろんな音楽を奏でて遊んだ。まるで仔犬のじゃれ合いのような演奏ばかりだったが、なまえにとってはひとりでピアノを弾いている時よりずっとずっと楽しくて、一生、この時間が続けばいいと本気でそんなことを願った。
「はあーっ、楽しかった! なまえ、相当ピアノ上手いよ」
「そうかな」
「そうそう。自信持てって! な、ゼロ!」
「普通だろ」
「あっ、もういちいち言わなくてもわかってると思うけど、照れ屋なんだよな、こいつ」
ふたりはそれぞれ軽口を言い合いながら、ケースに楽器をしまって帰る支度を始めていた。なまえは手持ち無沙汰にそれを眺め、適当な旋律を弾いている。
時刻はいつの間にか六時を過ぎ、辺りはすっかり暗くなり始めていた。こんなに遅くまで学校に残っているのは、きっと今日が最初で最後だろう。
鍵を職員室に返しに行くのはふたりが去ってからにしよう。今は少し、楽しい余韻に浸っていたい。センチメンタルな気持ちでそう思っていたのに、しびれを切らした降谷が噛みつくようになまえに言う。
「何してるんだ? 置いて行くぞ」
「え?」
「遅くまで一緒に残らせたし、当然、一緒に帰るだろ? あ、そうだ! 喉乾いたし自販機寄ってから帰ろう。なまえも買うだろ? ゼロも」
「買う」
「……レモンスカッシュ、あるかな」
「あるよ! しかも、ゼロが奢ってくれる! ほら友情の証!」
「おい、ヒロ。いい加減、殴るぞ」
あまりにやりとりが可愛らしくて、なまえはその日、初めて声を出して笑った。工藤家でも滅多に見られない貴重な笑顔だったが、諸伏と降谷は当然そんなこと知らずに顔を見合わせる。そして互いに赤面して、頭を掻いた。
「お前。笑った方がマシだな」
「え?」
「そうやって笑ってなってこと! ずっとさ」
ふたりはそれだけ言うと、一足先に音楽室を出て行く。
ああ、そうか。こうやって人と笑い合うことこそが、生きるってことなんだ。なまえは本気でそのとき、友の背中に初めてそれを学んだのだ。