06...


 まるで「ふるさと」を思い出すような懐かしい夢を見て、なまえはいつまでもその甘い余韻に酩酊しているような気分だった。上の空のまま沖矢からコーヒーを受け取って、寝癖にパジャマ姿でダイニングテーブルに腰掛ける。こんな自分に向けて「笑ってろ」と大好きなふたりは口を揃えて言ってくれたはずなのに、今はどうやってその笑顔を作るのか、なまえにはわからない。

 映っているだけの朝のニュース番組は、ぼんやりと右から左に聞き流していくうちに徐々に視界からも遠くなっていった。泣いてはいないくせに、まるで端から虫が巣食っていくように輪郭が滲んでぼやけていく。

 ふと生きているのが怖くなって、眠るように目を閉じた。

 ヒロと零が生きている世界。それこそが自分にとって盲信すべき世界であるはずなのに、どうしてか、会えない時間が重なれば重なるほど、その実感が持てなくなっていった。両親の次に、生きることを教えてくれた人。自分の身よりも大切にしていたはずなのに、どうして突然、彼らは同時期に消息を絶ってしまったのだろうか。これじゃあ、まるで置き去り。捨てられた赤子。身勝手なふたりを恨めればいいのに、恨めもしない。

 悲しみが、行き場のない郵便のように、募る。


「……さん? なまえさん」
「……」
「なまえ」
「……え?」
「どうかしましたか?」


 顔色が悪いですよ、と沖矢に言われてようやくなまえは我に返った。今、一瞬、降谷に名前を呼ばれたような気がして鼓動がやけに激しくなる。でも、どうして諸伏だとは思わなかったのだろう。沖矢と降谷の声が、特別、似ているわけでもないのに。


「……きっと、零によく怒られてたせいだな」
「?」
「いえ、何も」


 なまえはそう結論づけて、隠れて自嘲した。そして取り繕うようにテーブルの中央に置かれたシュガーポットに手を伸ばし、苦く笑う。


「ごめんなさい。ちょっと疲れてるのかも」


 そう言いながら、いつもは入れない角砂糖をふたつ入れてそれらが仲よく溶け合う波紋をしばらく見つめていた。もう大丈夫。夢は夢。過去は記憶の底に深く沈めて、いつも通りの工藤なまえでいよう。

 しかし、まるでお見通しと言わんばかりに沖矢は心配そうになまえを眺め、カウンターに置かれた卓上カレンダーに視線を移す。そして、今日の日付についた「おやすみ」という眠ったユルリックマのシールを見つけると、優しく表情を一変させた。


「なまえさん、今日はお休みですよね?」
「あ、はい」
「もしよろしければ気分転換にどこか出かけませんか? 車出しますよ」
「いや、でも」
「では、お互いの親睦会ということで。ね?」


 その提案を、なまえは渋ったふりをしたが、本当は嬉しかった。誰かに気にかけてもらえることが、久しぶりにありがたいと感じてしまったのだ。



case06. ささやかで素敵な親睦会



 沖矢に連れてこられたのは意外にも、東都大の近くにできたばかりだという一軒のお洒落なカフェだった。内装も外装も木の素材にこだわっているらしく、温かみがある雰囲気で心地いい。そのおかげか混み合う時間をあえて避けてきたはずなのに、到着時で既に店内はほぼ満席という盛況ぶりに、ふたりして驚いた。

 周囲は主に、おしゃべりを楽しむ女性グループ客が大半を占めていた。職場が男社会であるせいか、その雰囲気がなまえには慣れなくて、つい、おどおどと不必要に萎縮してしまう。反して終始自然体である沖矢は、手慣れたように店員から受け取ったメニューをくるりとなまえの方向に反転させて、何にしましょうか? などと爽やかに口にするから逆に緊張感が増した。なんだか、彼の女性慣れした一面を垣間見たような気がした。


「そうだ。ここ、なまえさんの好きなレモンのタルトが有名らしいんですよ。だから一度お連れしたくて」


 沖矢はそう言いながらメニューをめくり、販促用に撮られた一枚の写真を指さした。焼き目のついたメレンゲにミントの葉があしらわれた、見た目にも愛らしいレモンタルト。確かに美味しそう、ではあるが。

 なまえにはそれよりも、一点気になることがある。


「……私、沖矢さんにレモンが好きって言いましたっけ」
「ああ。あの少年が教えてくれましたけど」


 ……新一か。脳内に浮かぶ、やけに無垢すぎる笑顔の弟。なまえが彼のおしゃべりに呆れていれば、沖矢は見透かしたようにくすりと笑う。

 注文はすぐに決まった。店一番の人気商品であるレモンタルトと、暖かい紅茶。それがふたつずつ。甘いものを食べるときは、他の雑味を感じないために「紅茶に砂糖はなし」という認識まで沖矢と一致する。そうすればスイーツの味がより引き立つのだと、まるで確かめ合うように話をした。

 運ばれてきたレモンタルトを前になまえはいつも通り手を合わせて「いただきます」と目を閉じると、さっそく一番尖った部分をフォークで小さく切って口に運ぶ。飛び込んできたのは、レモンカードのほどよい酸味。


「ん、美味しい!」
「ええ。とても美味しいですね」
「これは星三つですね」


 テイクアウトできるのなら蘭ちゃんに持って行きたいぐらいだ。まだこの前の片づけのお礼していないし、園子ちゃんにも。と、なまえがひとりでぶつぶつと話をしていると、沖矢はその様子を楽しげに眺めながら口を開く。


「その星の数にちなんで、僕から三つ、なまえさんにお聞きしたいことがあるのですが」
「え?」
「ああ、もちろん『干渉』に当たると見なせば答えていただかなくても結構ですけど」
「……質問くらいなら別にいいですけど」


 そう言いながらもなまえは少し身構えた。沖矢昴という男のことだ。とんでもない質問を繰り出すような、そんな気配を孕んでいる。


「では、遠慮なく。まずはひとつめ。もし配慮のない発言でしたら申し訳ないのですが、なまえさんはもしかして孤児院育ちでは? それも、キリスト教系の教会が主体の」


 身構えていたくせに、その質問にはさすがに一瞬、体がこわばってしまった。なかなか凄腕の占い師でも、初見でそれを見破る人はいないだろう。いや、もし気づいたとしても、彼のようにずけずけと指摘できるような話ではない。


「どうしてそう思うのですか?」
「理由はふたつあります。まずは、あなたとご両親の年齢が著しく合わないこと。確か作家の工藤優作、そして女優だった藤峰有希子の公表されている年齢とあなたの年齢は一回りほどしか空いていませんよね」
「ええ」
「もうひとつは、癖です。なまえさんはいつだって、食前に『いただきます』と言いますが、手を合わせている時間が普通の人より長いことをずっと不思議に思っていたんです。あなたが養子とわかって納得しました。キリスト教系の孤児院なら食前と食後は必ず祈りの時間が設けられますし、未だに癖が抜けず、心の中で祈りの言葉を捧げているのではないかと、そう思ったのですよ」


 まるで推理ショーを聞いているようだった。なまえには驚きやショックよりも単純に「すごい」という感情が上回り、無意識的に拍手を送ってしまう。

 それに、別に孤児であることを隠していたわけではない。みんなが腫れ物のように触れてこないだけだ。


「正解です。沖矢さんって探偵みたい。鋭い洞察力ですね」
「伊達にシャーロキアンじゃありませんから」


 それは数日前、自宅の書斎でばったり出会った時のことをさして言っているらしかった。彼もまた、なまえや新一と同様、相当なシャーロキアンらしく、それが判明したその日は、コーヒーが冷めるまで話が盛り上がったことを思い出す。火事で全集が燃えたのは、災難と言う以外に言いようがない。


「ふたつめは、なまえさんが監察医になろうと思ったきっかけの話が聞きたいです。やはり小説などの影響で?」
「いえ。それは全然関係なくて」


 なまえはそう言って、食べかけのレモンタルトに手を伸ばす。

 監察医になろうと思ったのは高校二年の夏。ちょうど、今の新一や蘭と同じ歳の頃、零とヒロとの、とある会話がきっかけだ。 


「高校時代の友人が警察関係者を目指すと言うので。私もそうなれたらいいなと思ったのですが、自分の中に明確な『正義』を持たない私が警察官になるのは、ちょっと。でも、どうにか彼らと繋がる仕事をと考えて、監察医を選びました。もともと医者になりたいとは思っていましたし」
「なるほど。となると、ご友人は警察官でいらっしゃるのですか?」
「それは。どうでしょうか」


 急に歯切れの悪くなったなまえを、沖矢は訝しげに見つめていた。だが、その視線に気づいていながらも、上手く返せる言葉が見当たらない。第一、そんなこと、なまえが一番知りたいくらいだ。


「というか、その質問で三つめですけど、それで終わりでいいです?」
「いやあ、最後にもうひとつ」
「何でしょう」


 上手く話を外らせたことに安堵しつつ、なまえは淡々と最後の一口を平らげた。一呼吸置いた後、沖矢は頬杖をついて、愛おしげに言う。

 人当たりのいい笑みを浮かべて。


「今、恋人はいらっしいますか?」
「……は?」
「いなければ、僭越ながら僕が立候補しても?」


 目が点になるとは、このことかと思った。けれど、なまえはその質問の回答を瞬時に弾き出す。


「沖矢さん。それ、『干渉』です」


 皿の上はミントの葉と少しのクリームをつけただけで、綺麗に胃の中へと片づいてしまった。ささやかで素敵な親睦会はこうして終わる。沖矢昴はわりと、面白い人なのかもしれない。なまえはそんなことを思っていた。

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