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「あれ? あなたも乗ってたんですね、安室さん!」
一刻も早く変装したベルモットを追わねばならない立場であるはずなのに、蘭の明るい声が聞こえた途端に立ち止まってしまったなまえは、思わずその名に反応して後ろを振り返った。そこにいたのは、まさかこんな場所で会うわけがないと高を括っていたはずの私立探偵・安室透。殺気立ったベルツリー急行内で、普段通りの爽やかすぎる笑みを浮かべた彼と触れ合うように目が合った瞬間どきりと心臓が跳ねたのは、確かに彼への好意も含まれていたが、あまりにこの状況が自分にとって想定外すぎたからだった。
「ええ。運よくチケットを手に入れたので。さっき食堂車で毛利先生ともお会いしましたよ」
それを聞いてなまえはようやく、先ほど小五郎が自分に紹介したいと申し出た人物こそが弟子を自称する安室であることに気がついた。それならそうともっと早く言って欲しかったと思う。シャロンとの約束のことで頭が一杯で、今さら彼と対峙する勇気や心積もりは、何も用意できそうにない。
「ねえ、蘭。誰よ、このイケメン」
「前に話したお父さんの弟子になりたいって探偵さん」
へえ、この人が。園子はそう言いながら、まるで値踏みするように安室のことを上から下までじっくりと眺めた。そして無類のイケメン好きな性格も相まって、いつかの合コンに参加していた女子のひとりのように、張り切って彼に自己紹介を繰り出す。
「どーもっ! 鈴木園子でーすっ!」
「あ、ああ、よろしく……。それより車内で事故があったそうですが、何か聞いてます?」
「それが、車内で殺人事件があったようで」
「ほう、それなら毛利先生にお任せした方がいいかな」
安室との思わぬ遭遇に体がこわばってしまうくらい驚いていたなまえだったが、背後では既に火傷の男に扮したベルモットが平然と後方車両への扉を開けて進んでいくのがわかった。ともかく今は、見失わないうちに彼女を追いかけなければならない。せっかくその尻尾を掴んだのだから。そう思い立つや否や、くるりと方向転換してこっそりと輪を抜け出す。誰にも知られないように。
しかしそれは結局のところ叶わず、目ざとく見つけられて阻止された。最近よく知った、体温の手に。
「まだ殺人犯がうろついている可能性が高いので特に後方部へ行くのは危険ですよ、なまえさん」
「え……」
「今後は絶対に僕から離れないように」
そんなことを言われて再び輪に引き戻される。かと思いきや、全員の間を通って、安室はその手を固く繋いだまま離さず、ずんずんと前方部へと歩き出したのだった。これにはさすがのなまえも理解が追いつかず困惑したまま、もつれそうになる足で前へと進む。そしてすれ違い様、彼は蘭に断りの言葉を告げたのだった。
「蘭さん、すみません。なまえさんは僕が責任を持ってお守りしますので、少しの間だけ連れ出させていただきますよ」
「え? あ、は、はい……どうぞ」
「ちょっと、安室さんっ!」
静止するなまえの声は耳に入らないとでも言いたげに、悠々と無視を決め込む安室透。そのにこやかな笑みとは対照的に、なまえは終始困ったような顔をして堂々とみんなの前から奪い去られてしまったのだった。その光景はなまえと沖矢の仲を知っている者なら当然、全員が驚いて、そして唖然と取り残されてしまう。敏腕監察医であるなまえと、私立探偵であり喫茶ポアロのアルバイターである安室という異色のふたりが、接点を持つ機会がいつあったのだろうか。そればかりを訝しんで、つい首を傾げてしまったのである。
そうした静寂の中、真っ先に口を開いたのは安室へのアピールに失敗したばかりの鈴木園子。難事件を解決する推理クイーンとして活躍するのはコナンによる時計型麻酔銃と変声機の助力ながら、恋愛に関しては割に鋭いところもあるらしく、その失敗にすら一切めげず得意げな様子で推理を繰り出した。
「ありゃかなりの強敵ね。なまえさん、今日はあの大学院生と一緒じゃないみたいだし、もしかしたら今のおじさまの弟子と併せて三角関係かもよ?」
「嘘!? でも、安室さんとなまえさん。接点なんてなさそうだったのに」
「美人を見たらすぅーぐ落としたくなるのがイケメンって生き物なのよ! 殺人犯なんてどうせ口実。一緒にいて口説きたいだけなんだから」
一応筋は通っているように思える園子の言葉に、蘭は上手く動揺を隠せない。そしてポケットに入れたばかりの携帯電話を再び取り出し、焦るように目まぐるしく操作して連絡先の中から「沖矢昴」の名を探し始める。
「どうしよう。昴さんに連絡した方がいいかな?」
「やめときなよ。大人の恋愛に部外者が口挟むのは野暮ってモンだし」
それに、その方が面白いじゃん? と歯列を見せて悪戯っぽく笑う園子に、蘭は「もう!」と呆れて不満そうに口を尖らせた。コナンとは違い、蘭は別段、安室を警戒したり、交際に反対したりするつもりもないのだが、彼女が見た感触としてはやはり沖矢と一緒にいるなまえの方がより自然体に見えて。故に、沖矢となまえの仲を個人的には応援していたのである。
一方。先日、なまえが見せた些細な表情の変化に疑問を持っていた灰原は、風邪のために数回咳込みながら、去って行く安室となまえの背を黙って見つめていた。先日、とは、沖矢となまえにキャンプの買い出しに連れて行ってもらった際のこと。彼らが着ていた上着が色違いのペアルックになっていたことを自分が戯れに指摘したとき、半ば冗談ながら歩美や光彦と囃し立てるような雰囲気になってしまったのだが、その際に見せたなまえの切なげな表情が灰原にはあまりに印象的だったのだ。
あれはまるで沖矢ではない別の人のことを強く想っているからこそ彼女が見せた、悲しげな表情。まるで叶わぬ恋の相手を想って、諦めているかのような。
それに加えて、今しがた彼女が連れ去られたときに見せた表情がほぼ決定打となった。確かに突然のことで困惑しているようではあったが、灰原にはそれがどこか照れているようにも見えて。それらのことから総じて察するに、きっと彼女が好きなのは沖矢ではなくあの安室とかいう人物の方なのだろう。そしてその彼も、なまえのことは誰の手も届かないよう囲ってしまうくらい箱入りで大切にしているようである。しかしながら、あの安室透なる人物がその他の人間にはまるで微塵も興味なく、尋常ではないくらい冷えた空気を放っていることに気づけるのは組織に長く属していた灰原以外、他にいない。
「……何なの、この列車」
熱っぽい灰原はズキズキと痛む頭を抱えながら、自分に対して刺さり続ける異様な殺気に震えが止められなかった。先ほどの火傷の男といい、安室といい。あの世良とかいう女探偵といい。そして工藤新一と、その姉であるなまえも含めれば、些か配役が揃いすぎではないだろうか。まるで、ひとつの目的を軸として集まったオールキャスト。その意味を知らないのは自分だけである。
でも、あなただけは無事でいてね、と灰原はなまえの背に祈る。だって、私、彼にも大好きな姉を失って欲しくはないもの。まるで自嘲のように灰原はそう願い、ようやく自室である六号車のD室に全員で入る。その間もずっと、なまえのことを気にかけていたのだった。
case51. 好きという言葉をくれさえすれば
安室に連れてこられたのは展望室として解放されていた二号車の一室だった。車内全体を流れた自室待機のアナウンスにより、そこには誰も人がおらず、広すぎる部屋にふたりきり。客室に設置されているものより数段柔い高級ソファに対面して座ると、お互いかなり気まずくて、車窓から流れていく景色になまえは黙って視線を移していた。
気まずいのは当然だった。最後に彼に会ったとき、自分たちはまるで何者かを確かめ合うような一度きりのキスをして、そしてその帰りに赤井につけられた首筋のキスマークを見られたのだ。その後、彼とはずっと音信不通。嫌われたとさえ思っていたほどである。今はもうそこにないはずの痕が急にくすぐったくなって、なまえは落ち着きなく、その辺りを無意識に手でさすっていた。
そして正直に言えば、今のなまえにはその腹の中に気になることを複数個抱えていた。あの火傷の男を追えなかったことで、せっかく一年越しに訪れたシャロンとの話をする機会を見失ってしまったこと。一度すれ違って姿を認識されてしまった身としては、再び接触できるチャンスが訪れるとは言い難い。
それに、それにだ。頭の中で信じたくない考えが、さっきからうろうろと回り続けている。まったくと言っていいほど気持ちが落ち着かない。安室を目の前にして、こんな自分ではいたくはないのに。
一方の安室も、思わず捕まえてしまった目の前の彼女をどうするか、まるで見えない相手とチェスをするように何手も先を読んで静かに考え込んでいた。バーボンとしてシェリーを確保するためにベルモットと組んでこのベルツリー急行に乗り込んだはいいが、彼女まで乗車していたことは完全なる誤算。先ほど車掌からのアナウンスでなまえの名前が呼び出されたとき、いても経ってもいられず気がつけば後方車両へと走り出していた。最初は声をかけることができず、ただ黙って八号車の様子を盗み見ていただけではあったが、殺人現場を悠然と歩き、見事なまでに検視をしてみせる姿に彼女の長らくの友人として感動を覚えたほどである。その後、何食わぬ顔で偶然を装い、毛利蘭と軽く会話をしながら出会ったふりをしたが、果たして自分はそのとき平静を保てていただろうか。輪からそっと離れるように抜け出そうとした彼女が、今も無言を貫き通していることを見ると、よっぽど自分に会いたくなかったのかもしれない。
とにかく、彼の周りにはなまえに隠さねばならない嘘がまるで蜘蛛の糸のように何重にも絡みついていた。工藤なまえに自分が降谷零であることが知られるよりも、反社会組織の一員であると知られることの方が問題だ。高校時代から諸伏とふたりで「正義」を貫き、彼女もまた自分たちの正義を信じて力を貸すために掴んだ監察医という仕事。いくら潜入捜査中とはいえ、それを裏切るような「悪」に身を染めていることなど、彼女にだけは絶対に知られたくない。
そして隠し通しながらも完璧にこなさなくてはならないのだ。バーボンとしての職務を。
「なまえさんは今回おひとりでご乗車されたんですか?」
「ええ、まあ」
「僕もそうなんです、奇遇ですね。今日はあのルームメイトは留守番ですか」
「はい」
「だとしたら本当にラッキーだ。この走る密室で、なまえさんを思う存分独り占めできるんですから」
そう言うと、なまえの頬は少し高揚した。そして安室は、今日、彼女に会ったときから絶対に触れると決めていた話題に平然を装いつつ触れる。
「そのレモン柄のワンピース。やっぱりとてもあなたに似合っていますよ。思った通り可憐で、すごく可愛い」
「あ、りがとう、ございます……」
そう言われて、なまえは悪い気はしなかった。もともと安室に見せるためにもらったような服である。まさかそれが今日叶うとは思ってもいなかったが、彼にそう言われるのが誰に言われるよりも光栄だった。
見せられてよかったな。そう呟くよりも先に、彼がまったく同じことを呟く。
「……見られてよかった」
「え?」
「あ、いえ。なんだかいつもあなたに会う度に、距離が縮んでいるのか遠ざかっているのかよくわからなくなってしまうんですよね。僕としてはあなたとの距離を何とか縮めたいと思っているのですが、なかなか上手く気持ちの表現ができなくて、難しいなと」
安室はそう言うと、恥ずかしそうに頬を掻いた。なまえはその様子を見て、堪らず精一杯の勇気を出す。まるでレモン柄のワンピースに込められた想いを発揮するかのように。
「気持ちの表現なら……」
「え?」
「早く、素直に、伝えてもらった方が、嬉しいことだってあるんですよ」
相変わらず恥ずかしそうに目を伏せたままではあったが、珍しくなまえの方からテーブルの上に何気なく置いてあった彼の手に触れて、たどたどしくその指を絡めた。安室は我を忘れるくらい胸を熱くして、一気に熱が顔に集まってくる。とっさに見られないように反対の手で口元を覆ったが自分でも意味のある行為には思えない。っていうか、何だよ、それ。どこで覚えたんだ、そんな誘い方。
先日、キスをしたときから、薄々は彼女と自分は同じ気持ちを抱えていると思っていた。つまり、好きだという言葉を口にはしないだけで、お互いがお互いを求めるように好き合っている、と。しかし、今までそれを言葉にしなかったのは、彼女の前にいる自分が安室透だからだ。本当に好いていて欲しい降谷零ではない。そのことが安室を深く傷つけ、そして困惑させてしまう。触れたいのに、触れてはいけない。この指も、何も考えずに握り返してはいけないのだ、と。
好き、というたった二文字を言うだけのことが、嘘にも真実にもできなくて、今はこんなにも苦しい。
降谷零としてその言葉を彼女に直接伝えられたのは、過去にたった一度だけ。安室はそのときのことをまるで「ふるさと」のように思い出し、つい、胸がぎりぎりと締めつけられるように痛くなった。あのときほど緊張したことなんて、たぶん、今まで一度もない。残念ながらなまえは何も聞いていなかっただろうけど。
一方。ある意味で賭けに出ていたなまえは、恥も忍んで自分の想いをひたすらに込め、好きという二文字を引き出させるために懸命に指先から彼にせがんでいた。そして彼の口から一刻も早くその言葉が聞けるのを待つ。もしも聞ければ、自分は。今すぐにでも彼のことを無条件で信じ、何もかもを受け入れようと思っていた。恋人になるのだって、キスだって、その先だって。彼とならどこまででも一緒にいよう。たとえそれが、地獄の果てでも。
今、「好き」という言葉をくれさえすれば。しかし。
突然、けたたましく鳴り出した携帯電話に、ふたりの指はとっさに離れた。その音はなまえにとって聞き覚えがなく、安室のものであろうとすぐに察する。そして彼は一言断って、その画面をタップして眺めた。
途端、一瞬だけ彼の表情が険しくなる。
「どうかしましたか?」
「いえ……何でもありませんよ」
苦虫を噛み潰したような顔をした彼に疑問符を浮かべていると、彼は首を横に振った。何でもありませんよ、と告げた言葉はどう見ても嘘だと思えた。
「すみません。少し毛利先生の捜査の見学に行ってきます。やはり事件のことが気になってしまって」
「そうですか」
「部屋まで送っていきますよ。さあ、行きましょう」
そう言って差し出された手を、なまえはとっさに取るかどうか迷ってしまう。するとその迷いに気づいた安室は悲しげに笑って、その手を静かに下ろした。
なまえと安室がふたりきりになって手を繋がなかったのは、実はそれが初めてのことだった。