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 長いトンネルのせいで車窓を流れていた美しい絵画のような景色を見るための視界は一気に闇に包まれて、よりいっそう気持ちを陰鬱にさせた。なまえは安室の言いつけを守るように、自室でじっと待機を続けており、椅子に座って落ち着きなく自分の手を組んで祈り続けている。それが今の自分を守る唯一の術であり、安室透という人物を信頼するための強い気持ちの表れでもあった。

 八号車で起こった殺人事件の方は、一体どうなったであろうか。最寄りの駅で停車するか検討中だというアナウンスはあったが、列車は一向に停まる気配はなく、終着地点である名古屋へと向かって進んでいく。まるで時の流れと同じように不可逆的で、進むことしかできないとでも言うように。

 安室と展望室で話をしたことを、なまえはずっと忘れないよう丁寧に思い返していた。らしくもなく、彼の指に自分のを絡めたのはある種の賭け。彼から「好きだ」という言葉を引き出して、どうしても安心したかったから。でなければ、このレモン柄のワンピースに込めてきた決意が無駄になりそうで、それは是が非でも避けたかったのだ。

 しかし、その指を握り返すように絡めるどころか、今日の彼はなまえにほとんど触れてこなかった。最後に差し出された手も、ためらっているうちに取り下げられて。いつもなら強引にでも腕を取られるはずなのに、そういった細やかな行動の片鱗が、考えたくもない結末を予期させる。信じたい。信じたいのに、そう思えば思うほど迷宮に入り込んでしまうようで、思い詰めるうちに組み締めた指に水滴が落ちた。なまえはひとりでぽろぽろと涙を溢す。

 まだこの推理が真実であるとは限らない。けれど、今は何もかもが突き刺さるように痛い。


「好きだって、言って欲しかった……」


 嘘でもいいから。自分がチャンスをあげたときにそう言って欲しかった。でもいつだって、自分は欲しいときにその言葉をかけてもらえない。昔から、そう。

 以前、沖矢がした推理によると、なまえのことをずっと好いていたらしい降谷でさえ、一緒にいたはずの三年間の中でその言葉をくれたことは一度だってなかった。もし、時間を巻き戻してあの頃に戻れるとするなら、高校生の彼の口から「好きだ」と聞いてみたい。そうしたら、たとえ彼の気持ちに応えられなくとも、諸伏ともども音信不通になんてさせなかったと改めて思う。自分は永遠に欲しい言葉をもらえない境遇にあるというのか。あるいは、恋愛といういつまでも要領を得ないものに高望みをしすぎなのかもしれない。

 しばらくそうやって静かに泣いていれば、外出できないはずの廊下から誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。なまえはぐっと息をのみ、涙を拭く。

 いつまでもめそめそと泣いている場合ではない。泣いたって何も解決しないのだ。そう思い、まるで思い出したかのようにスパイとしての職務を果たすためにその人物を盗み見ようと部屋から顔を覗かせる。

 そこにいたのは何故か世良を横抱きにしたルームメイトの沖矢。その目と目が合って、なまえは思わず驚いて声をあげそうになったのだった。



case53. だってそれが真実なのだから


 世良と沖矢という一見、合わないような組み合わせに驚いたなまえは思わず、安室に言われた言いつけを破って部屋を飛び出し彼の元に駆け寄った。別段驚きもしない様子の沖矢は世良の具合を医者でもあるなまえに見せるために一瞬立ち止まったが、見たところ単純に気絶をしているだけのようで、世良は沖矢の腕の中で無垢な少女のように静かに眠りについている。すると彼は小声でシィと言い、なまえの隣室である世良の部屋に堂々と入っていってしまった。おずおずとなまえもその後に続く。

 部屋に入るなり、沖矢は粛々と彼女をソファに下ろした。そして甲斐甲斐しく寝相を整えているその様子はまるで距離を感じさせないもので、彼らの関係性をなんとなくなまえが訝しんでいると、夢を見ているらしい世良の口元が微かに動く。


「秀、兄……」
「秀兄って」


 そう言いかけたなまえを制止するように沖矢はまたも笑みを浮かべ、口元で人差し指を立てた。そして眠る彼女を一瞥する彼のこもった視線に、なまえはそれを思い知る。苗字こそ違うものの、彼女と赤井秀一は、血の繋がった兄妹であるのではないかと。

 そして沖矢は優しくエスコートするようになまえの背に手を当てて扉の外へと軽く押す。そして、廊下に出るとようやく声を出して話を始めた。


「状況報告がしたいので、とりあえずなまえさんの部屋で話しましょう」


 いくら安否確認に連絡をよこせと言っても、待っているだけではあなたから一向に連絡はもらえないようなので。と、沖矢は笑いながらそんな皮肉を言う。しかし、なまえは気まずそうに目を伏せているばかりで、硬く口を閉ざし続けていた。連絡をしなければならないことは、本当はわかっていた。でも怖かったのだ。自分のこの推理を言葉にしてしまうと、すべてが真実になってしまうような気がして。

 すると、沖矢は少し怪訝そうに首を傾げる。そしてそのとき気づいた。

 また泣いていたのか、お前は。心の中でそう呟き、わずかに赤く腫れたなまえの目を心苦しく見つめた。有希子に任されたばかりなのに、途端に不甲斐なくなる。泣くのは、自分の、この腕の中だけにして欲しい。

 なまえの部屋に入り戸を閉めると、沖矢は彼女のプライドを傷つけないために泣いていたと指摘することはなく、さっそく今の戦況について説明した。大方、バーボン絡みの涙の理由を聞くより、おそらく最も気になっていることについて説明してやる方が安心できる材料になるのではないかと思ったからである。


「灰原哀に関しては何も心配いりませんよ。僕の方で彼女は子どもたちとは別の部屋にて安全に保護しています。もちろん、解毒薬の服用はしていません」


 そう言われてなまえはホッとしたのも束の間、沖矢は緊迫した様子で携帯電話を確認しながら言う。


「しかし、状況的にまずいのは有希子さんの方。最後に会ってからしばらく経ちますが一向に応答がありません」


 それにはさすがのなまえも大きなショックを受け、取り乱す。


「母さんは今どこに!?」
「おそらく彼女の自室にてベルモットと対峙中でしょうね。灰原哀に扮するために用意していた変装道具はすべて捨てられたと思っていいでしょう」
「そんな。私ちょっと行って……!」


 そう言って、なまえはとっさに扉の方へと駆け寄った。しかしそれは、いつか、玄関でそうされたように、彼の太い腕に邪魔される。


「行かなくていい」


 声色は沖矢なのに、口調では赤井が滲み出していた。なまえは唇を噛み、籠の中の鳥のように自分が囲われていることをまた腹立たしく思う。


「お前が怖い思いをしてまでそこへ行く必要はない。あの女にはもう接触するな」


 沖矢は赤井らしい口調でそう言うと、どこにも行かせないようになまえの背を包むように抱きしめた。いくらベルモットから直接の危害をくわえられる可能性が低いとはいえ、みすみす行かせることはない。ベルモットとなまえが接触するプランニングは、もう、沖矢にとって何の意味もなさないからだ。

 しかし、何気ないその言葉が過敏になったなまえの胸には引っかかる。そして両手の拳をきつく握りしめ、震える声で彼に背を向けたまま尋ねるのだ。


「昴くん。には、ってどういうこと」


 今しがた沖矢は、あの女「には」接触するなと確かに言った。それが今、なまえが考えている推理の裏づけになってしまう。じゃあ、誰になら自分は接触してもいいと言うのか。

 その答えは、「バーボン」だろう。


「組織に潜入していたことがある赤井秀一になら、本当は最初から『バーボン』の顔を知っていたんじゃない? なのに、その特徴をひとつも同じチームの私に共有してくれないのは、どうしてだったの」
「……」
「よく考えれば私の立ち位置はおかしいところだらけだった。わざと目立つように仕向けられた変装と、実名で流されるアナウンス。でも、一番おかしいと思ったのは、その呼び出しのアナウンスの直後に受けた昴くんからきたメッセージだよ」


 それは小五郎と離れた後に見た『この先、あなたに不用意に接触してくる人物はもれなく危険人物とみなしていただいて結構です』というもの。あのとき、その危険人物とはベルモットであるとなまえは思い込んでいたが「彼」に会ってその印象は百八十度変わってしまった。


「実名でアナウンスをした後、私が乗っていることに驚いて真っ先に接触してくるのはシャロンだと思った。けれど、本当はそうじゃない。バーボンの方だって言いたかったんじゃないの?」
「……」
「答えて」


 考えたくもないことだった。しかし、安室に会うタイミングとしてはできすぎているし、彼がただ推理クイズを楽しむためだけにこのベルツリー急行に乗るのは不自然すぎる。それは自分と同様、何かこの列車に目的があって乗り合わせたとしか考えられない。

 近づけば近づくほど離れていくのは安室の方だ。まるで、汚れた手でなまえに触るのを躊躇するように、触れてこない手。「好き」とも言わない唇。そして、赤井が以前言った後悔の呪いという言葉の意味。

 でもそんな推理、気づいてみたって確証も何もあるわけではなかった。だから、たかが推理と鼻で笑い飛ばし「何を言っているんだ」と諌めてくれるのはこの世界で唯一、沖矢昴の格好をした赤井秀一だけしかいない。だからなまえは彼に乞うように言う。


「お願いだから、違うって言ってよ」


 半泣きでそう言えば、彼はなまえを黙らせるためによりいっそうきつく抱きしめる。そして耳元でこう呟くのだ。


「……そんなこと、言えないさ」


 だってそれが真実なのだから。あまりに残酷すぎるその言葉の意味を理解したとき、なまえは沖矢の体を勢いよく押して離れた。そして、泣きながら扉を開け後方車両の方へ走って行く。なぜか数名の乗客たちが慌てたように前方へと駆けていくが、その流れに逆行していることは今はどうだっていい。

 今すぐ安室に会わなくてはいけないと思った。感情がぐちゃぐちゃのままで、何ができるというわけでもないが、そうしなければ自分の気が収まりそうになかったのだ。

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