52...


 部屋までなまえを無事に送り届けた安室は、女性のひとり部屋ということもあってその中には一歩も踏み入らず、扉に手をかけたまま別れの挨拶をすることにした。本当は、今すぐにでも抱きしめてしまいたいほど愛しい彼女。なのに、まるで怯えるように不安げな表情を浮かべたまま既に部屋の中ほどまで入ってしまっていたため、その境界線上にはまるで彼らを隔つ透明な壁ができてしまったと錯覚するほど距離を遠くに感じてしまう。やはり自分たちは近づいても近づいても、結局は離れていくようにしか思えない。そんな、半ば諦めにも似た自嘲をしていた安室も、視線だけは決して逃さないようになまえの瞳を見つめながら、ただただ触れられないことを胸が張り裂けそうになるくらい切なく思っていた。


「今日はこうして少しでもあなたに会えてよかったです。絶対に誰が来ても、何が起こっても、この部屋からは一歩も出ないように。いいですね?」
「はい」


 その発言はもちろん八号車で起こった殺人事件のことを指してはいたが、実のところ、バーボンとして今後の計画を踏まえて彼女に正体を知られないための口実という意味合いの方が大きかった。八号車の人間は過去に巻き込まれた火災のせいで全員が火事恐怖症。それを逆手に利用して彼らを追い出し、なおかつ人気を避けて逃げるだろうと思われるシェリーをおびき寄せるためには、後方の数車両だけに煙の出るガス缶を配置することが必要なのである。なまえの部屋があるこの車両は全体より前方部であるためその用意の必要はなく、だからこそ、この部屋に彼女を閉じ込めておけさえすれば自分の正体は何も知られずに済むはず。それですべてがハッピーエンド。そうなることだけを、今は祈るように遂行するしかない。

 まるで聞き分けのいい子どものように肯定の返事を繰り出した彼女の頭を、撫でてやりたいと安室は何度も思った。いや、撫でるだけじゃ到底足りない。その細腕を引き寄せて抱きしめ、強引にキスして、堂々と「好きだ」と言葉をかけて今すぐ自分に溺れさせてやりたいのだ。けれど、結局、勇気が出ずに手を固く握りしめるだけで何もできない自分が、途方もなく惨めな気持ちになる。

 それを察するように、なまえは彼の身を案じるようにささやかで優しい言葉を紡いだ。


「安室さん」
「はい」
「どうか、危険なことだけはしないでくださいね」


 なぜだかそんなわけないのに、まるで見透かされているような気がして。安室は悲痛が顔に漏れないように、いつものポーカーフェイスを気取って口角を上げた。それが今の彼にとって精一杯だったのだ。


「ええ。約束しますよ」


 絡めない、立てただけのお互いの小指。ふたりしてそれを微かに笑って、まるで永遠の別れのように静かにドアを閉める。

 それからすぐに走り去っていく彼の足音を聞くや否や、なまえは扉に額を預けて、どうしてか、おかしいくらい泣いてしまいそうだった。鈍感なままでいれば幸せだったことを、鋭くも感じとってしまったことを後悔する。

 このまま、もう彼には会えないのだと。そんな予感が頭の中で、激しい警鐘を鳴らしていたのだった。



case52. ハッピーエンド


 当然、安室はその足で事件の起きた八号車へ小五郎の捜査の見学になど行くわけがなかった。なまえといた展望室で見たのは、この作戦の相棒であるベルモットから届いた一件のメール。内容は「車内でシェリーを発見した」というもので、やはり裏切り者である彼女が関東から脱出するためにこの列車を利用していたという自分の予測が見事に的中した形となる。けれど、そうした事実ですら手放しで喜べないのは、いつだって運命が自分にとっては残酷なものであるからだった。

 ベルモットと同様、安室自身もこのベルツリー急行が東京駅を発車して「密室」になってからすぐ車両内を歩き回り、毛利探偵事務所で盗み見た動画に映ったシェリーとよく似た人物を探していた。しかし、その途中でなまえがこの列車に乗っていることを知り、その任務さえ忘れて彼女に近づいてしまったのである。できるだけ、バーボンとしての自分から遠ざけておくために。

 安室が自室の扉を開けると、そこで悠然と待ち構えていたのは余裕の笑みを含んだベルモット。その姿は既に安室にとって吐き気がするほど憎たらしい男・赤井秀一に扮していて、その見事なまでの変装ぶりに、彼女の本当の顔さえ一瞬忘れてしまいそうになる。その顔は皮肉にも、かつて帝都銀行強盗事件や米花百貨店爆破未遂事件などのときに、自分が彼女に頼んで施してもらった変装でもあり、最悪なことに彼の中ではすっかり馴染みのある顔になっていたのだった。

 右目に大きな火傷の痕をつけたのは、あの来葉峠で赤井が焼けたシボレーの中から逃げ出したとFBIの奴らを錯覚させて反応を見るため。けれど、いくら自分が憎き赤井になりすましてうろついても、奴が生きているという確証はどうやったって得られなかった。故に、今回はベルモット自身が火傷の赤井になりすまし、このベルツリー急行に乗っているという彼の妹・世良真純に近づいて、赤井の安否に関するより強い確証を得る算段を立てていたのである。まあ、それはあくまでシェリー奪還のついでではあるが。


「随分と余裕そうだな、バーボン」


 作戦のためとはいえ、ベルモットは戯れに彼の声色と口調のまま、その神経を逆撫でするように安室を視界に捉えて話を始める。その様子はまるで組織に「ライ」として奴がいたときのことを思い出させるほどそっくりで、安室はますます苛ついた。


「どうやら車内でシェリーを発見したらしいですね。それで、今、彼女は?」
「その前に少し話をしようじゃないか。君が気になっている工藤なまえについて」
「!」


 目線だけで「前の席に座れ」と促されて、まるで売られた喧嘩を買うように睨みつけながらそこへ腰掛けた。ぴりぴりとした張り詰めた空気は一瞬、仲間であることさえ忘れてしまいそうになる。いや、そもそも自分と彼女は仲間などではない。安室は彼らをひとり残らず牢獄へぶち込むために「悪」という毛皮を被っているだけなのだ。たとえ法外なことを起こしたとしても。そして彼女に触れられない運命を選んでしまったとしても。その笑顔が永遠に守られるならそれでいい。愛する彼女が住むこの国を、自分は死んでも守り抜きたいのだ。

 何より二度目とはいえ、組織の人間であるベルモットの口から愛しい彼女の名前などやはり聞きたくはなかった。以前、レモンの香水を振りかけてきたことを追求したとき「盗られちゃうわよ」と指摘されたことは、一体、どういう意味だったのか。何を見て、そう言ったのか。自分は絶対に彼女のことを誰にも譲るつもりはないというのに。


「まさか、あなたは彼女がここにいることを事前に知っていたのですか?」
「いや、それはこちらとしても計算外。彼女が車内アナウンスで呼び出されたときはさすがに驚いたよ。同姓同名の別人かと疑ったぐらいさ」


 ベルモットは赤井の姿のまま、自分より数分早く、あの場を通りかかっていた。そのとき確認したのだろう。彼女が同姓同名の別人などではなく、正真正銘の本物の工藤なまえであることを。


「あなたと彼女の間に、一体、何があったのか。是非お聞きしても?」


 安室はそう言うと、とっさに隠し持っていた拳銃をいつでも抜けるような心づもりをした。それがここで使われないことを切に祈るが、すべては返答による。どうかこれ以上、僕の神経を逆撫でしないで欲しい。

 しかし、彼女は馬鹿にするように口の端を曲げる。そして笑いながらこう言うのだ。


「ここで無駄な詮索はするなよ。ただ、一年前、とある作戦中に巻き添えとして命を狙ったことがあるだけだ。まあ、邪魔が入って殺し損ねたはしたが」


 どうやら祈りは届かなかった。安室はすぐに拳銃を抜き、目の前の人間に構える。頭に血は上っていたが、いつもよりも冷えた低い声で強く言い放った。


「なまえには絶対に近づくな」
「ああ。こちらとしても近づきたくはないさ。何しろ利口で察しがいい女だからな」
「……」
「だが、向こうから来るのなら話は別だろう?」


 思わず、舌打ちが出た。そして銃を下げて、元の場所にしまう。


「彼女にはプレゼントがあるんだ、とっておきの。もし果敢にもこちらに接触してきた場合には勲章としてそれを手渡そう。でも、おそらくお前は彼女を自室にでも閉じ込めてきたのだろう? 殺人犯がうろついているからだとでも言って、決してそこから出ないように」
「……」
「保身にも必死だな、バーボン」
「ッ……!」
「彼女の話はこれで終わりにしよう。そろそろシェリーにメールを送らなければ。『覚悟はできたか?』と」


 後は手筈通りに。そう言ってくつくつと笑う赤井に扮したベルモットは部屋から出て行った。安室は頭を抱えながら、彼女が自分の言いつけ通り、部屋から出ないことを祈るしかできない。


「なまえ……」


 本当は誰よりも傍にいて守りたいのに、この身では傍にはいられない。彼女との幸せを築くにはどこまでも不自由なトリプルフェイスという足かせが、今はあまりにも憎い。




 自室で待機するようにとアナウンスが流れた後、沖矢と有希子は合流し、今後の作戦について確認するために殺された男の部屋である七号車B室にいた。有希子が見かけたという火傷の赤井。以前から彼になりすましてジョディやキャメルの周りをうろついていたのは、おそらく赤井が本当に死んだかどうか探りを入れて確認するため。そして、ここにもその格好で乗り込んできたのは、どこで知り得たかは知らないが、赤井の妹である世良真純が乗っているという情報を聞きつけて彼女に遭遇し、その真偽を尋ねてより強固な確信を得るつもりなのだろうと予想される。まあ、世良も一番上の兄である赤井が本気で死んでいると思っているので何を訊かれたって別に問題はないが、世界で一番知っている顔に変装されているとは考えただけで沖矢は気分が悪くなった。しかし。

 それよりも今はなまえだ。沖矢はそう思い、やや苛立ち気味に何度もメッセージを問い合わせていた。あれだけ今朝「安否確認のために連絡は頻繁に取り合いましょう」と言ったはずなのに、彼女からの連絡は一向にないまま。ベルモットに接触したかどうかも判断しかねる状況である。それに、沖矢はこの部屋の前で蘭が小五郎に電話をかけた後、私立探偵という皮を被ったあの「狼」に連れ去られるところを目撃してしまっていた。彼女が彼に殺されることなど億が一にもあり得ないだろうが、それは見ていて実に不愉快極まりない目障りな行動で。それも沖矢の計画のうちであるため、ある意味、仕方がないことなのであるが、まるで自分のものを盗られているような苛立ちがふつふつと募っていく。

 そしてこう思うのだ。足掻くのはさっさとやめてその正体を大切な女に明かしてしまえよ、バーボン、と。


「昴くん。さっきから眉間にしわ寄ってるわよ」
「……」
「ふふふ」


 有希子に笑顔でそう指摘され、沖矢は一度眼鏡を外し、目頭をつまむように押さえてまた眼鏡を掛け直す。そして、心配するのは一旦やめようと携帯電話を置けば、有希子は再び嬉しそうな顔をして、赤い口紅を引いた唇で弧を作った。


「ありがとう、昴くん」
「え?」
「なまえちゃんのこと、いつも私たち以上に気にかけてくれて」
「……」
「あの子、あんまり人前で泣いたりしないでしょう? あなたの前だけよ。あんなに素のままでいられるの」


 確かに、彼女は今までで二度ほどこの胸の中で泣いた。一度目は彼女も覚えていないだろうが、一年前のニューヨークで。そして、二度目は大喧嘩した末に、外で何かがあったらしいときに。玄関で泣き崩れて一歩も動けなくなった彼女を抱きしめたことは、割に記憶に新しい。

 それに、泣いてはいないが、一年前のシャロン・ヴィンヤードとのことも赤井だけは直接、彼女から聞かされて知っていた。あんなに酷い話は、おそらく死ぬまで親にもできないだろう。特に、親友関係にあった母親にはなおさらだ。

 けれど、それは自分が工藤邸に居候し始めたここ最近の話。高校時代は彼女からもよく話に聞く友人たちが、自分と同じ役割をしていたのだろうと思うと、些か複雑な気持ちにもなる。沖矢はそう思って、ずっとなまえには聞けていない彼らのことを有希子に詳しく尋ねてみることにした。


「しかし、なまえさんには高校時代、仲のいい友人がいたと聞きましたが」
「ああ、AくんとBくんの話ね」
「AくんとBくん?」
「あんまり話によく出てくる割に、いつまで経っても恥ずかしがって彼らの名前を言いたがらなくって。だから私がつけたの、AくんとBくんってね。ま、何年か前から音信不通になっちゃったらしいからもう二度とその名前も聞けないんだけど」


 あんなに仲よかったのに、あの子、音信不通になったってことにも泣かなかったから。と、有希子はまるで懐かしむようにそう言った。確かに沖矢自身も、その名については聞いたことがない。ただ、いつか彼女が寝言で口走った「零」という名前だけが彼らに繋がる唯一の手掛かりだった。

 彼女が過去の話をするときはいつも楽しそうで、けれど、話し終えるや否や、急に物悲しいような顔つきになる。その表情が見ていて何よりもつらかったと、沖矢はその話を聞いて思い返す。


「だから。ずっと傍にいてくれる人が、あの子にも必要なのよ。特にあなたみたいな包容力のある人が」
「……」
「ねえ、昴くん。なまえちゃんのこと、本当にあなたに任せてもいいかしら」


 こんなこと頼むの、親としてすっごく不甲斐ないんだけど。有希子はそう言って寂しそうに笑った。沖矢はそんな彼女を安心させるように笑う。


「僕でよければ一生をかけて大切にしますよ」
「まあっ! その言葉、この作戦が終わったら絶対になまえちゃんにも言ってあげてね!」


 肯定の意で返せたのは、精一杯のはにかみだった。けれど、沖矢は本当に続けたかった言葉を口にはできない。それを彼女自身が望んでくれればの話だ、ということを。

 沖矢は再び、自身の携帯電話を手に取った。しかし確認するのはなまえからのメールではなく、この列車に乗る前からハッキングしている灰原哀の携帯電話の画面の方。

 そこには登録のないアドレスから一件の不審なメールが届いたばかりであり、文面にはこう書かれていたのだった。


『覚悟は決まった? Vermouth』


 ベルモット。まさにあの女らしい見透かしたようなメールに灰原の動揺を手に取るように感じた沖矢は、芳しくない状況に眉根を寄せながらも、いよいよ自分の出番を見る。ベルモットの存在を同じ列車内で感じたあの灰原哀が、次に取ると思われる行動はただひとつ。他人に迷惑をかけないための離別であり、それこそが奴らの思うツボであった。


「有希子さん。これから僕は彼女の保護に向かいます。後は作戦通りに」
「ええ。私はここで待ってるから、哀ちゃんのことよろしくね」


 ふたりはそう言うと、同時に立ち上がった。沖矢は灰原の保護。そして、有希子は沖矢を見送るために。

 あの灰原が素直に沖矢の保護に応じてくれれば話は別だが、もし応じない場合は、唯一部屋の主人がいなくなったこの七号車B室に逃げ込むに違いない。そこを入れ替わり、有希子が宮野志保に成り代わって灰原の死亡を偽装をするのである。なまえが事件の検視をしたおかげで、彼女も偽装に加わればより信憑性も出ると踏んで。

 列車はもうじき長いトンネルに入る。それぞれの思う、ハッピーエンドに向けて。

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