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 八号車で小火騒ぎがあったのは、B室で起こった殺人事件が毛利小五郎によって推理、解決された直後のことであった。一等車に乗り合わせた乗客たち全員が火事恐怖症であることは、事前に少し調べていれば誰にだってわかること。故に、彼らは車両内で一気に広がっていく白煙にパニックを起こし、コナンや小五郎も含めた全員が我先にと急いで前方車両へと逃げ込んでいく。しかし、それこそがバーボンとベルモットによるシェリー確保への第一の布石。無関係な殺人事件のせいで計画に遅れが出たものの、ようやく取ることのできたスタートの合図であったのだ。

 弟子として小五郎の推理の冒頭から何食わぬ顔で聞きに来ていた安室は、タイミングを見計らってベルモットに連絡。彼女が持っていた遠隔スイッチで、まずは殺人現場である八号車B室に設置していた煙を吐く装置を起動させた。そして、安室が自ら買って出るようにその煙の元を確認しに行き、火の手もないのに「火事です!」と大声を上げれば、後は大筋の通り。その発言を嘘だと疑う者は、誰ひとりとしていない。

 彼らの狙いはまず、八号車をもぬけの殻にすること。続いて六号車・七号車にも設置している同様の装置も順次起動させ、人を遠ざけさせることで後方車両全体を無人にする。さすれば、シェリーは自ずと身を隠すために八号車に移動してくるに違いない。すかさずそこを叩く。動揺する原因にもなりかねないなまえの存在は一度忘れ、安室は仕組んでいた手筈通りに、密かに八号車から逃げたように見せかけてそこに留まっていたのだった。




「緊急連絡です! ただいま当列車の八号車で火災が発生いたしました! 七号車と六号車のお客様も念のため、前の車両に避難していただきますようお願いいたします! 繰り返します! ただいま当列車の八号車で火災が発生いたしました! ……」


 相当慌てているような声の車掌アナウンスを聞きながら、なまえは既にごった返し始めていた列車内でひとり、後方車両へと逆走していた。その目からは止めどなく大粒の涙が溢れていたが、自分の身や家族の無事を第一に考える乗客たちは逆行してくる女に迷惑そうにするだけで、そのことに一切気づかない。それでよかった。彼女の頭の中には、沖矢の一言によって完成されてしまった推理のパズルにより「バーボン=安室透」という方程式が既にできあがっていて、きっとその彼なら、自ら作り上げたこの状況を逆手に後方車両にいるに違いないと察しがついていたのである。

 ひどいくらい取り乱していたなまえは、彼に会うために走っているはずなのに、何を言うかはまるで考えてはいなかった。ただ、今すぐ安室に会わなければならないと強く思う。これ以上、罪を重ねるのをやめさせるために。別段、彼と恋人関係にあるわけでもない自分にそんなことができるのかはさておいて、考えて後悔するよりも先に行動しなければ前には進めないような気がしていたのだった。


「安室さんっ!」


 飛び込むように開けた七号車の扉。しかし、なまえが着く頃にはもう既に周囲は避難を終えており、車両内は水を打ったように静まり返っていた。その異様な光景が急に緊張感を増長させ、なまえは静かに、震える足で前に進み出す。このおかしな状況を作り出したのも彼だということが今は何よりもショックで、信じられない気持ちでいっぱいだった。

 そして、その信じられない気持ちを引きずったまま、煙が充満する八号車への扉に恐る恐る指をかける。今度は慎重に、息を殺して。

 うっすらと開いた先に見えたのは、大人になった灰原哀とそれに対峙する安室透の背中。


「はじめまして。バーボン。これが僕のコードネームです」


 安室の声を聞いた瞬間、わかっていたくせになまえは大きく息を飲む。しかし、そこから先はいつの間にか背後から忍び寄ってきていた人物に扉を閉じられ、続きの会話を聞くことはできなかった。

 驚きのあまり振り返ると、そこにいたのはベルモット……ではなく、先ほどまで沖矢昴として目の前にいたはずの赤井秀一。右目に火傷痕がないことと、最近見慣れ始めていたその表情から本物であることを察したなまえは、強い動揺で声を震わせる。


「あ、かい、さん……」


 しかし、その動揺は沖矢が変装を解いて赤井秀一として現れたということよりも、あの安室が自分のことを「バーボン」だと自称したことの方が大きかった。信じていた者にまた裏切られてしまった悲しみを抱えて、再び心が深く傷ついてしまっている。

 けれど、どうしてだろう。もう涙は出そうにない。

 すると、赤井はなまえのぐらぐらと揺れる瞳に堪らなくなり、すぐに彼女を腕の中に招くために引き寄せた。そして壊さないように優しく抱きしめて耳元でこう言ったのだ。


「お前が欲しい説明なら、後で全部くれてやるさ」
「……」
「だが、悪いが今は彼女を助ける方が先だ」


 その瞬間、ハッとして彼から離れる。それはそうだ。沖矢に匿われていたはずの灰原は既に解毒薬を服用してしまって、宮野志保という元の姿に戻っている。なまえはそう思い、またも大きな焦りを抱えてしまうが、それを察した赤井は余裕そうに告げた。


「いや、彼女と言うより彼と言うべきか」
「え?」


 彼? そう言われて、固く閉ざされた八号車へと続く扉をしばらく見つめた。すると赤井はこの豪華列車の旅の最後にふさわしく、まるでダンスのパートナーでも誘うようになまえの手を取る。そして今度は一気に、八号車の扉を開けた。

 一瞬ひやりとしたものの、そこにはもう手品のように誰もいない。つまり、ふたりが揃って既に貨物車の方へ移動してしまったことを表していた。


「好奇心旺盛なお前に、これ以上『待っていろ』とばかり言うのは忍びない」
「……」
「ここから先は一緒に行こう、なまえ。お前が知りたがっていた真実を見せてやる」


 そう言って口角を上げて笑う彼の横顔に、初めて少しどきりとする。しかし、その理由が何なのか彼女には皆目、見当がつかなかったのだった。



case54. 終点


 八号車と貨物車の車両連結部にて、バーボンとシェリーはしばらく互いに睨み合っていた。突きつけた銃で脅しながら彼女をここまで連れて来たはいいが、シェリーは両手を挙げてはいるものの向けられている銃口には物怖じひとつ見せてくれない。さすが、とバーボンは舌を巻く。実際のシェリーに会うのはこれが初めてだったが、その性格はかつて組織に所属していた彼女の母親と瓜ふたつで。つい「ヘル・エンジェル」と呼ばれていた彼女のことを懐かしんでしまう。淡い初恋の記憶とともに。

 慕っていた人の娘を脅すことは忍びないが、これも組織の上層部へと上りつめるため。杯戸シティホテルで起こったピスコの不始末のせいとは言え、あのジンでさえ捕らえることに失敗したシェリーを自分が確保できたとなれば、組織からは飛び抜けて高い評価を得られるだろう。さすればもっと真相に近づける。六年前からずっと待たせ続けているなまえを堂々と迎えに行くためにも、反吐が出るこの生活に終止符を打つときが早く自分に訪れてほしい。

 ベルモットには既に「八号車でシェリーを見つけた」という連絡を出していた。状況はすべてこちらの予定調和。まるで列車が終着点へと向かうかのように、順調に事が進んでいく。


「さあ、その扉を開けて中へ」


 シェリーはその言葉通りに、貨物車の中へと一歩足を踏み入れた。するとバーボンは車両の継ぎ目の上に爆弾を起き、スイッチを入れる。これは決してシェリーを殺すためのものではなく、車両の連結を吹き飛ばすためのものだった。


「ご心配なく。僕は君を生きたまま組織に連れ戻すつもりですから」
「……」
「この爆弾で連結部分を破壊して、その貨物車を切り離し、止まり次第、僕の仲間が君を回収するという段取りです。その間、君には少々気絶をしてもらいますがね」


 シェリーは落ち着きなく瞳を動かして、貨物車の中をきょろきょろと見渡しているようだった。その様子から、今しがた置いた爆弾と自分の距離を測っているのだろうと察し、バーボンは安心させるために少し笑う。やはり誰でも、自分の命が一番か。方法まではわからないが、あのガス室から逃げ果せたシェリーなら生への執着もなおさらだろう。


「大丈夫。扉から離れた位置に寝てもらいますので爆発に巻き込まれる心配は」
「大丈夫じゃないみたいよ」
「え?」
「この貨物車の中、爆弾だらけみたいだし」
「!」


 シェリーはそう言うと、近くの棚にかけてあった布を剥ぐ。すると、既に起爆スイッチの入った爆弾が山のように詰め込まれていて、それにはさすがに驚いた。どうやら段取りに手違いがあったようね、と余裕そうに呟くシェリーに対し、彼は思う。なるほど、ベルモットは是が非でも彼女の命を絶とうという腹づもりか、と。

 いくら洞察力の高いバーボンでも、相棒による独断先行は予期できずまるで呆れるように深いため息をついた。彼女には悪いが、シェリーに死なれては元も子もない。それに、誰かを殺すという作戦に加担するのはなるべく避けたいのだ。でないと、それこそもう二度と「彼女」に触れられないような気がするから。


「仕方ない。僕と一緒に来てもらえますか」


 そう言って、バーボンは再び銃口を構え直し、シェリーを八号車まで連れ戻そうとした。だが、それは彼女によってはっきりと拒絶される。悪いけど断るわ、と。そんな調子で同時に貨物車の扉は固く閉ざされてしまい、一挙に籠城してしまった彼女はまるで多感な思春期の少女のようにも思えた。

 しかし、それも無意味な抵抗。この走る密室では、どこまで行こうと袋の鼠である。


「ふん。噂どうりの困った娘だ。少々手荒くいかせてもらいますよ」


 バーボンが拳銃で貨物車の扉を撃とうとしたその瞬間、背後の扉が隙間を空けるように開く。


「!」


 白煙が充満する八号車、車両内。そこにうっすらと見えたのは相棒のベルモットが扮していた赤井秀一のシルエット。


「ベルモットか。悪いが彼女は僕が連れて……」


 しかし、その影は奥にも重なって、予想外にもうひとりの影を見せる。そしてその人物に驚いている隙に投げ込まれたのは、ピンを抜いた小型の手榴弾。


「手榴弾!?」
「……」
「誰だっ! 誰だ、お前!」


 その質問も虚しく、八号車の扉は再び閉ざされる。その寸前、相手は笑ったのだ。この世で最も憎たらしい、不敵な笑みで。

 バーボンが自分の身を退避させるのと、爆発が起こったのはほぼ同時だった。手榴弾は小型ながらも事前に置いていた爆弾と合わさってその威力を増し、貨物車を切り離すには十分すぎるほどの力を発揮する。途端、眩しいくらい外光が入り、背けていた目が眩みそうになりながらも、バーボンは未だシェリーが乗ったまま切り離されていく貨物車の方を見つめた。


「くそッ……!」


 奇しくもちょうど列車は川を渡る赤い鉄橋の上。機関車による引力を持たなくなった貨物車はずんずんと置いていかれるようにその場に留まり、ついには止まる。その瞬間、念願のように待っていたベルモットが貨物車に乗せていた爆弾をベルツリー急行内のどこかの車両で爆破させたのだ。車両を切り離したのが、作戦通りバーボンだと察して。

 粉々に砕け散って炎に包まれる貨物車を、バーボンは焦燥とともに見つめていた。あの規模の爆発に巻き込まれては、いくら脱獄のプロでも到底、助からない。ベルモットの作戦通り、シェリーは死んだと考えて間違いないだろう。

 だが、バーボンはそのことに対して焦りを感じているわけではなかった。

 先ほど手榴弾をこちらに投げ込んだ男。扉が閉まる直前に見えたその顔の右目に、火傷の痕はなかった。そのことがつまり何を意味するのかといえば、考えられる可能性はひとつ。赤井秀一はやはり、自分が思った通り死んでおらず、こちらの策を読んでこの列車に乗り合わせていた。そして、そのシルエットの後ろにもうひとり小さな人影が見えたことも、とある推理を証拠づける。

 あれは女。しかも、自分がよく見知った人間に背格好が似ていた。


「工藤、なまえ……」


 世界で一番愛しい女を、彼が見間違えるはずなどなかった。工藤なまえ。なぜ赤井秀一と彼女が組んでいるかなんて、少し考えればわかること。彼女の首筋のキスマークを見たときに感じた自分の予感が正しいからだ。

 さすがに貨物車が切り離されて爆発したとあっては、もう列車は動かせない。ベルツリー急行は急遽最寄りの駅で緊急停車され、舞台はようやくその幕を閉じたのだった。

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