55...
名古屋まであと一時間足らずで着くという地点で、貨物車を失ったベルツリー急行はようやく全車両を緊急停車させた。名もないような山奥の駅で降ろされた乗客たちは、ひとり残らず警察による事情聴取を受けることが決まっており、各自で準備が整った者から続々と下車を始めている。散々な目に逢った、という一般客の声が多く聞かれる中、列車が停まるまでに赤井からすべての事情を聞き終えていたなまえは、降車のために列をなしていたとある人物を待ち伏せして声をかけた。
「ようやく約束が果たせたね、シャロン」
赤井秀一という屈強な男の変装をしていたとは到底思えない、華奢な外国人の女。薄いブルーのサングラスに、白い帽子。ゆたかなブロンドの髪を後ろで結っているこの人物こそが、一年前のなまえの約束の相手であるベルモットこと、シャロン・ヴィンヤードに間違いなかった。
一方のベルモットも、声をかけてきたなまえに対してまるで母性を滲み出させるような懐かしい笑みを見せる。そして内心ではこんなことを思うのだ。
ほらね、バーボン。やっぱり来たでしょう、と。
「……ええ。でも残念ね、なまえ。悲鳴の聞こえるステーキやあなたの好物のレモンのケーキはもう食堂車に頼んだって出してはくれないわよ」
そんなジョークにふたりして笑う。
一年前に止めたはずの時計が、ようやく動き出そうとしていた。
case55. ようやく時は動き出す
適当な部屋に入ってしばらく話をすることにしたベルモットとなまえは、完全に停車してそれこそ絵画のように切り取られた山々の風景を車窓から眺めて、わずかに再会の言葉を交わす。ただし、互いにそれほど時間が取れないことはわかっていたので用件は手短に。なまえは、余裕ある大人の笑みを見せるベルモットから受けたかつての裏切りを跳ね除けるように、こんな話から会話を切り出した。
「シャロンはやっぱり、悪人なんかじゃなかったね」
その一言に、ベルモットは一瞬ひるんだように声を失った。なまえは話を続ける。
「切り離された貨物車を爆破させたのは、名古屋で待ち構えていた組織の一員にシェリーを引き渡さないため。一緒に乗っていた『彼』は生きたまま彼女を奪還するつもりだったみたいだから、シャロンは是が非でもそれを阻止したかったんじゃない? もし組織に連れて行かれれば彼女が薬で幼児化していることがばれて、新一が幼児化していることも一緒にばれちゃうからね」
「……」
「幼児化がシャロンの不利益になることを新一や母さんはしきりに指摘してたらしいけど、私は個人的に、そのことはどっちでもいいの。新一を守ろうとしてくれているってことは同じだし、やっぱりあなたは完全な悪じゃないって改めて今日はそう思えたから」
そんななまえの推理を聞くや否や、ベルモットはまるで彼女の思いを吹き飛ばすように大声で笑った。確かに自分はあの小さなシルバーブレットを大切にはしているが、爆破を待てなかった理由は決して誰かを守るためなんかじゃない。ただ自分が死にたくなかったからだ。ジンが持っていった爆薬の量から察するに、終着地点である名古屋に到着次第、このベルツリー急行が駅ごと爆破させられることは想定の範囲内。そんなことをされれば、いくら自分でも助かる見込みはないだろう。
それに、正義か悪かなんて議論、正直、自分には馬鹿馬鹿しい話だった。なぜなら、その推理を踏まえても、ベルモット自身が悪ではないと言い切れる理由には到底なり得ないからである。
「それのどこが悪人じゃないの?」
「……」
「忘れたの? 私はあなたを殺そうとしたのよ、なまえ? 一年前のあの日。ウエストサイドの廃ガレージでね」
今まで憶測を出なかったその記憶に色をつけるように、ベルモットはそう言って高笑いを繰り返す。
「当時、ニューヨーク中を震撼させていた通り魔事件の犯人に変装してFBI捜査官だった『彼』の命を狙おうという計画のもと、油断させる駒として私はあなたをあの場に誘った。もちろん、警官の変装に付き合わせたり、優しくしたのだってその計画のための単なる布石。利口なあなただから、本当はもう気がついているんでしょう? この列車内で私たちがすれ違ったとき、あなた、すごく怯えた目をしていたものね」
「……」
「シェリーだってそうじゃない? バーボンが切り離した貨物車の中で息絶えた。私が起動させた爆弾でね」
一年前の事件に関して、なまえはやはり自分の推理が正しかったことを思い知る。けれど、その自白を聞いてもなお以前より悲観して考えなかった理由は、彼女が神様の存在を母に聞かせて話すくらい、なまえに対してある種の罪悪感を持ってくれているのではないかと感じ取っていたからだった。そして、今回のベルツリー急行でも、彼らの幼児化について仲間に通知していないらしいという点からそんな彼女の思いを垣間見る。それだけで十分、救われた気持ちになったのだ。
それに、今の彼女は大きな思い違いをしている。自分がついさっき、その手でひとりの少女の命を奪った、と。
ベルモットが得意げに自身を悪人だと称すると、今度はなまえが逆に吹き出した。瞬時にきょとんとする彼女を見て、やはり気づいていないのだと納得する。まあ、それも当然だろう。自分も赤井に聞くまでは「彼女」が本当に宮野志保だと思っていたのだから。
「ふふ」
「何がおかしいの?」
「やっぱり、それがシャロンの優しさだよ。だって、みんなこうして生きてるんだもん。私も、母さんも、新一も。もちろん、シェリーと呼ばれたあの子だって」
「え?」
なまえにそう言われた瞬間、珍しくベルモットは大きな驚きの表情を見せていた。そんなはずはない。確かにバーボンから事情を聞き、シェリーが爆死するところを目撃したとの報告を受けている。貨物車で用意していた爆弾の存在を黙っていたとはいえ、彼がそんなことで報復とばかりに嘘をつくとは考えられない。
しかし、それを聞けば妙に腑に落ちるところがあったのも事実だった。あくまでシェリーの死は貨物車の爆発に巻き込まれて、という間接的な話。確実に彼女が死ぬところをバーボンが目撃したわけではない。
だが、そんなマジックが果たして常人に可能だろうか。あるいは、常人ではない何者かがあの場にいたとでも言いたいのか。有希子があのとき言っていた「スペシャルゲスト」という名前通りの、誰かが。
彼女が懸命にそのマジックのタネについて考えている間に、なまえは言葉を続ける。新一チームが賭けに勝ったことで、ひとまず、目の前にいる彼女だけはたとえシェリーが生きていると知っても、手を引いてくれると思えたのだった。だから、今回、彼女に釘を刺すためにも真実を話す役目をなまえは自ら買って出た。ベルモットに会うことに否定的だった赤井も渋々と言った風ではあったが最終的には認め、なまえたっての希望は一年越しにこうして叶えられることになったのである。まあ、おかげでこの会話はどこかの部屋で彼に盗聴されているらしいが、それはまた別の話にしよう。
「やっぱり私は一度憧れたあなたを恨むことはできないみたい。だから、いつまでも私の憧れでいてね、シャロン」
「相変わらず、あなたって本当にお人よしね」
「ありがとう」
別に褒めてないけど。そう言いながら、ベルモットはまるで匙を投げるようにそのゲストの存在について考えるのをやめた。そして、なまえの名を車内アナウンスで聞いたときから渡そうと思っていたものをバッグから取り出す。
それは、このベルツリー急行内でバーボンとの話にも出てきたとっておきのプレゼントであり、もし彼女と接触する機会があれば「勲章」として手渡そうと思っていたもの。自分たちの出会いの場所であるニューヨークからわざわざ取り寄せた、彼女好みのレモンの香水だった。
「これ、あなたの勇気を讃えてプレゼントするわ。一度使っただけのほぼ新品よ。偶然だったけど、今日持ってきて正解だったみたい」
「レモンの、香水?」
「あなたの今日の服装にお似合いね」
そう言って、ベルモットは部屋を出ようとする。
なまえは窓からの外光でキラキラと輝いて見える、その手に収まりきるほどの大きさの香水を眺めて思った。そうか、あのとき。思い出すのは、安室が初めて東都監察医務院まで自分を迎えに来たときのこと。彼はなまえに会う直前に、探偵として女性の依頼人を乗せたと言っていたが、本当はベルモットを乗せていたのだ。それで彼からレモンの匂いがした。同時に、ジャズがかかっていた理由も頷ける。にしても。
安室透。その名を思い出すだけで、今はずきずきと胸が痛んでしまった。遅すぎた初めての恋の相手は、やはり好きになってはいけない相手。そんなの初めからわかっていたはずなのに、この身が引きちぎれるような思いがする。自業自得だ。馬鹿みたい。
「ねえ、なまえ」
まるでそのことを見透かすように、ベルモットが背を向けたままで声をかけてくる。
「私のことは恨まないって言ってたけど、バーボンのことはどうする?」
「……」
「……Love or Leave?」
愛するか、離れるか。しかし、なまえは何も答えを出せない。ただ今だけはそのことについて、あまり深く考えたくはなかったのだった。
列車を降りたベルモットは、すぐさま携帯電話でジンに今の状況を報告した。もちろん賭けに負けた彼女は潔く、先ほどなまえから聞いた話は一切伏せて、バーボンから聞いた情報と自分が列車内で知り得た情報をかけ合わせただけの内容を端的に告げる。貨物車の爆発に巻き込まれ、シェリーが死んだこと。そのせいで列車が緊急停車し、近くの駅で降ろされて、これから事情聴取を受けること。それから、ジンが名古屋で起こそうとしていた爆破を予期していたこと。テロ事件を起こせなくてわずかに不服そうなジンであったが、こちらだって粉々になるのはまっぴら御免である。
電話を切った後、ベルモットはなまえの話通り、幼児化したシェリーである灰原哀の姿を目撃した。殺人事件によって死んだ男の部屋である七号車のB室でひとり、悠々と休んでいたらしい。なるほど、事前に有希子が部屋で匿っていたということか、とベルモットは子どもたちが灰原を心配する様子を見て妙に納得した。さすがは日本の伝説的大女優。その名演技には以前からたびたび驚かされてはいたが、その息子である彼もなかなかの演技。
有希子とベルモットが部屋で話をしているときにかかってきた一件の着信。工藤新一からのそれは、灰原哀ことシェリーを心配する内容ではあったが、あれはベルモットを有希子の部屋に足止めするためのフェイク。よく考えれば、どこに仕掛けられているかわからない盗聴の危機を冒してまで彼が電話をしたのはあのとき一度だけ。それ以外、彼らのやり取りはすべてメールのようだったし、そのことについて不審がればこちらの勝機はあったかも、なんて。負け惜しみかもしれないが、そんな風に思ってしまう。
にしても、バーボンが追い詰めた彼らの協力者は一体、誰なのか。そのトリックが未だ解けず、やはり彼女の頭の中は依然としてもやもやとしたまま。ベルモットはおもむろにその場に立ち尽くして考え込んでしまう。するとその背後から、園子と蘭。そして携帯電話で何者かと話している江戸川コナンが通りかかる。
「はぁーあっ、ガッカリよ! これでキッド様来られなくなっちゃったし」
「この列車、現場検証で当分使えないしね」
「……悪ぃ、悪ぃ! なんか超ヤバかったらしいな!」
まさか。その協力者って。ベルモットはひとり、とうとう思い当たる人物を見つけた。それは誰も考えつかなかった、稀代の怪盗。それはさすがに予期できない最高のキャスティングだった。
すべてを理解したベルモットは不敵に笑って歩き出す。すると、前方で立ち止まっていたキャスケット帽を被った男、安室透がすれ違いざまに彼女に告げた。
「赤井が死ぬ前後の詳細なファイル、もう一度見せてくれないか」
「ええ。それは構わないけど」
数歩先で足を止めたベルモットが振り向かずに続ける。
「あの子、嘘つきなあなたには勿体ないわ」
そして再び歩き出す彼女の背を、安室は見ずに目を伏せた。そんなこと言われなくてもわかっている。
だが、もうどうしようもない。たとえ傷つけるとわかっていたとしても、何も知らないふりをして、いつも通り平然と彼女に接するしか自分には残されていないのだ。
まあ、それも。彼女が許してくれればの話ではあるが。
安室のすぐ傍を、まるで風に運ばれるかのように爽やかな香りが通り抜けていった。それは今しがた想ったばかりの相手。レモン柄のワンピースを可憐に翻し、颯爽と改札へと歩んでいく工藤なまえ。安室に気づいていないのか、そうでないのかはわかりかねたが、彼は思わず、反射的に彼女を呼び止めてしまった。
「なまえさん!」
しかし、その声はやはり届かず。なまえはちらりと安室を一瞥しただけでその場から足早に去っていく。それがどれほどショックなことか。安室は呆然とその場で立ち尽くした。
やはり近づけば近づくほど、彼女は遠くなる。「好き」というたった二文字を言えなかったことが、こんなにも重く心にのしかかってくるとは思ってもいなかったのだ。