56...


 昼休み特有の、がやがやとした騒がしい廊下。両腕を窓枠にかけてそこに顔半分を埋めるように伏せていた降谷零は、目下にある校庭をひとりでぼんやりと眺めていた。今日は火曜日。昼一の体育という不運な時間割を持つ生徒たちが、毎週のことと慣れたようにジャージ姿でてきぱきと次の時間の準備をしている。その様子が、なんとも平和的で好きなのだ。

 ただ、その行為自体に何の理由もないわけではない。晴れの日の、火曜日の、この時間。決まってそこが彼にとっての特等席になる。

 その視線の先にいるのはやはり、降谷がひたむきに好意を寄せ続けている相手。工藤なまえ。今日の彼女は寡黙に白線を引くという作業に没頭しているらしく、何も知らないようなそのあどけない横顔につい見とれて釘づけになる。あいつ、今日も可愛いな、と。惚れた者の弱みとして、悔しくなるくらいだった。

 いつもは下ろしているはずの髪をひとつに束ねて、その毛先が動くたびにひょこひょこと揺れているのが如何にも愛らしい。体育のときだけに見られる貴重なそれが毎度あまりに可愛いので、以前、彼女が同じような髪型をしていたときに「たぬきの尻尾みたいだな」って言ったら半日ほど拗ねられた。降谷には、何を言えば彼女が喜ぶのか未だにまったくわからない。っていうか、いいだろ。たぬき、可愛くないか?


「ゼーロッ!」


 降谷がたぬきの可愛さの是非について熟考していたその瞬間、冷たい何かが頬に触れて、反射的に短い声が漏れる。そこにいたのは、いつものレモンスカッシュの缶ジュースをふたつ、両手に持って立っていた幼馴染の諸伏景光。その表情はしてやったりといった具合で、子どものときから何ひとつ変わっていない悪戯な笑みを見せていた。

 渡されたジュースを渋々受け取りながらも、降谷はついじと目でその親友を睨みつけて、思ったことを遠慮なく言う。


「ヒロ。それ、普通は男女でやるもんだろ」
「おーおー。なまえじゃなくて悪かったな」
「はあ? 別にそういうわけじゃ」


 ないけど。と、やや語気を強めて言いかけたが、いやどうだろうとすぐさま心の中で打ち消した。本当は彼の言う通りかもしれない。愛しい彼女とのそんな微笑ましいやり取りをわずかに想像してみただけなのに、意識した途端、何も言い返せなくてなって。うやむやにするようにプルタブを開けた。

 諸伏はそんな幼馴染の様子を横目で見透かして、ついくすくすと笑ってしまう。そして、降谷がここにいる目的が完全にお見通しな上で、あえてその特等席を邪魔するかのように窓枠に頬杖をついてもたれかかった。そこから眺めるのはやはり、仲のいい友人であるなまえのこと。

 季節は高校三年の夏。吹き抜けていく生ぬるい風とともに、なまえと出会ってからまだ二年と少しという事実に信じ難いような気持ちで想いを馳せる。降谷と諸伏の関係から考えると、彼女との出会いはそんなに時間が経っていないはずなのに、いつの間にか三人で育んだ楽しい思い出が積み重なって、まるで外国のお姫様のように大切に思う存在になってしまっている。そして、一体どこまで仲がいいと言うのか。ふたりして、真似をするみたいに一途に彼女に想いを寄せて。でも、抜け駆けのように気持ちを告げてしまわないのは、その方が不容易になまえを困らせることがないとわかっているからだった。

 しかし、実は諸伏だけは最近、自分の気持ちの変化にいち早く気がつき始めていた。それは幼馴染みである降谷にもまだ告げていない、なまえへの気持ちに関する大きな変化。愛情とはまた違うベクトルでの、新たな感情の芽生え。幼馴染として、いつかは彼にそのことを告げなくてはならないという漠然とした気持ちだけが心に渦巻いていて、この頃は密かにそのタイミングを見計らっているのである。

 いっそ、今、言ってしまおうか。なんて。そう思った瞬間、目で追っていたなまえの、汗を拭う仕草がやけにセクシーに見えて。思わずふたりでゴクリと見入ってしまい、互いに顔を見合わせた。

 やっぱり、まだやめよう。諸伏はそう思った。


「にしても、よく飽きないなあ。なまえの警備」
「別に警備じゃないし」
「おやおや? 降谷零ともあろう人が警備じゃないと?」
「何だよ、それ」


 うざそうに睨む降谷に、諸伏は歯列を見せてニシシと笑う。そして、しばらく目線を外していたなまえの方を指差して言った。


「じゃ、あれ見てみなよ」
「え?」


 陸上トラック用にあれだけ黙々とラインを引いていたはずのなまえが、いつのまにか同じクラスの男子と思われる人物と会話を交わしていたのだった。しかも、その光景がとても仲睦まじく、楽しそうに見えて。特に男子生徒の方は終始照れたような笑顔を浮かべていて、なまえへの好意もまんざらではなさそうな風であったのである。

 降谷は思わずカッとなり、衝動のまま、無言かつ鬼のような形相で今にも窓を飛び越えようと両手と片足をかけ出していた。まさかそこまでするとは思っていなかった諸伏は途端にぎょっとして、飛び降り自殺を決めようとしているようにしか見えない親友の背を死に物狂いで後ろに引っ張る。


「ちょっ、ゼロ! ここ、三階っ! 三階だからっ!」
「あいつ殺す」
「だあああ! ただのクラスメイトだろ!?」


 そうやって騒いでいた声が聞こえたらしく、校庭にいたなまえが初めてふたりに気がついた。そして、呼び慣れた彼らの名前を叫びながら、満面の笑みで大手を振ってくる。どうやらあの男子生徒とは白線を引く係を交代しただけのことだったらしく、既に彼はなまえから離れて悠々と校庭に線を引いていた。自分が危うく殺されかけていたということにも気づかずに。

 諸伏はとっさになまえに手を振り返した。しかし、降谷は一切手を振ることもなく、素っ気なく顔を背けると、あんなにもへばりついていた特等席である窓から即座に離れて教室の中へと入ってしまう。別にいつものこととしてなまえはさして気にしていない様子であったが、最初こそ、あれで気にしてたんだからなという思いで、諸伏は降谷の背を追った。


「手くらい振り返してやればいいのに」
「……」
「そんで。早く、素直に『好きだ』って言えばいいのにさ。卒業したらなまえがアメリカ行くこと、さすがにゼロも知ってるだろ?」


 そう言われて、降谷はぴたりと動きを止める。それは高校二年の修了式の日に突然言われた、彼女からの思わぬ言葉。早々に進路を決めていた自分たちに向けて「監察医になりたい」という夢を、初めてなまえの方から口にしたのだ。その理由は警察官を目指している降谷と諸伏をサポートするため。そして、いつまでも三人で一緒にいられるようにという、ささやかで健気な彼女らしい願いだった。

 でも、ふたりにふさわしい自分にならなきゃ意味がないの。ストイックな彼女はそう言うと、自ら茨の路を選ぶ。だから、卒業後は単身でアメリカに行くのだと。希望という「光」をいっぱいに溜めたその瞳の覚悟は、もう十分すぎるほどふさわしいというのに。


「……知ってるよ、そんなこと」
「だったらなおさら」
「ヒロは」
「え?」
「ヒロは言わないのか。なまえに『好きだ』って」


 諸伏は思わず、言葉に詰まる。確かに、なまえのことは好きだ。付き合えたら嬉しいと思うし、幸せだろう。なまえとなら毎日が楽しすぎて、自分が馬鹿になるのではないかと思うほどである。本質的に三人で一緒にいることは変わらないだろうが、ふたりきりの時間がもっと堂々と取れて。デートらしいこともして。……別れ際、キスなんかもしたりして。彼女とのそういうことを想像したことがないと言えば嘘になるし、そしてそれは親友である降谷も同じ。

 だが、諸伏は思う。自分は降谷と違って、三人でいられなくなることを回避したいという思いから告白しないわけじゃない。それこそが諸伏にとって、ここ最近得た大きな感情の変化なのだ。

 今は、まだ、言えそうにないけど。


「……だって、ゼロの警備怖いし」
「!」
「なーんてな。冗談だよ」


 でも、そうだなあ。と、諸伏は考え込むように顎に手をやって唸る。そして、何かを思いついたかのように大声をあげて、こんなことを言い出したのだ。


「あ、そうだ! 勝負しようか。なまえにどっちが先に告白できるか」
「は?」
「ってことで、先手必勝! じゃーなっ、ゼロ!」


 そう言って、諸伏は爽やかな笑みで教室から出て行った。それはいつまで経っても素直にならない降谷をけしかけるための単なる提案にすぎなかったのだが、実のところ、本心でもそうなればいいと彼は思っている。あれだけ真剣になまえのことを考えられる人間は、きっと未来永劫、降谷零という人物より他にいないだろう。

 一方の降谷も、諸伏のことを今すぐにでも追いかけて冗談かどうかもわからない告白を阻止しにいきたかったのだが、瞬間にチャイムが鳴り、優等生である彼にはもう追いかけることは叶わなかった。まさか、本気でなまえに告白しに行っただろうか。そう考えるだけで、何やら考えたくない気持ちがどす黒く渦を巻いて広がり、どうしようもない気分にさせる。だが。


「……ヒロだったら、悪くないかもな」


 きっと、彼ならなまえを幸せにしてくれるだろう。降谷はそう思い直して、痛む自分の気持ちを諌めた。拗ねさせたり、泣かせたりする方が得意な自分と違って、いつも笑顔にさせてくれる諸伏のことが、なまえも好きに決まっているから。



case56. この先、僕は何度も君に恋をする


 結局、その日は諸伏にもなまえにも会えないまま。放課後になってようやく気になっていた動向について探ろうとすれば、委員会であることを思い出して降谷は深いため息をつく。今頃、もう告白に成功して、自分を差し置いて一緒に下校しているとすれば、立ち直れるか心配になるくらいショックだ。しかし、諸伏以外の人間に盗られるよりはマシだと思ってしまうあたり、自分はあの幼馴染に相当弱いのかもしれない。

 委員会のある教室に筆記具とともに移動しようとした矢先、廊下の角で出くわしたのはすっかり髪を下ろしたなまえだった。


「あ、零!」
「っ!?」


 その思わぬ登場に降谷は言葉を詰め、微かに体をこわばらせる。次の瞬間には「ヒロと付き合ったの」なんて無邪気な言葉がくるのではと身構えていれば、彼女はふにゃりと表情を緩め、取るに足りないような話を口にした。


「体育の前、見てたでしょ? 手くらい振ってくれてもよかったのに」
「……なんで僕が」


 予想外の世間話に対して、自分でもそれが可愛げのない応答だということはわかっていた。だが、どうしても彼女を目の前にすると悪態が止められない。本当は見てたし、何ならいつも見てる。心配なんだ。可愛いから、誰かに盗られてしまうんじゃないかと思うと気が気じゃない。いっそ、ヒロのものになれば諦めもつくのだろうか。そう自問自答して、降谷は目を伏せる。さっきまであんなに諸伏なら悪くないと思っていたくせに、やっぱり、絶対無理な気がした。


「そうだ。今日、委員会でしょう? 待っててもいい?」
「え?」
「ヒロ、何か予定があるんだって。先帰るって走って行っちゃったよ、さっき」


 彼女が不思議そうに首を傾げてそう言うところを見ると、諸伏による例の告白はまだ済んでいないのではないかと察した。それだけで、荒れ放題だった心の中が一挙に静まり、降谷は大きく胸を撫で下ろす。そして、何の予定かは知らないが、意図せずふたりきりになれるチャンスを掴んだことを諸伏に感謝し、緊張でかすかに頬を染めながらこう言った。


「なまえ」
「ん?」
「今日、お前に言いたいことがあるから」


 終わるまで、僕の教室で待ってて。その、ただならぬ彼の雰囲気にきょとんとしたなまえは、とりあえず頷く。降谷はそんな彼女の表情すら激しい緊張のせいで直視ができず、伏せた視線のまま、たどたどしい歩き方で委員会のある教室に歩を進めた。

 しかし、その拳はまるでガッツポーズのように固く握りしめられている。そして内心ではこう思うのだ。悪いな、ヒロ。この勝負、僕がもらった、と。




 今日に限って委員会での議論は無駄に長引き、すっかり遅くなってしまったことに降谷はかなり焦っていた。急いで自分の教室に戻る頃には既に日が傾いていて、勝手に帰っていたとしても文句は言えないほどである。でも、彼女なら絶対に待っているという確固たる自信もあった。思えば、その優しさに出会ったときからずっと甘えているのかもしれない。

 とにかく。何が何でも、今日、絶対に言わないと。じゃないと、もう一生言えないような気がするから。


「なまえっ!」


 息を弾ませながらその名を呼び、自分の教室に飛び込む。するとそこには、降谷の席でノートを広げたまま、すやすやと安らかに眠っている愛しい彼女の姿があった。開け放った窓からそよぐ風が、薄いカーテンと彼女の髪を揺らしていて、それが神々しいくらい綺麗に見えて思わず絶句してしまう。

 その瞬間、降谷は思った。この先、自分は何度でも彼女に恋をする。たとえ離れたって、たとえ振られたって。何度だって懲りずに彼女を好きになるだろう。そして、そんな予感を一般的にはこう呼ぶのだ。

 運命だ、って。


「好きだ」


 揺れる彼女の細い髪に触れた途端、気がつけば、彼は今まで渋っていたはずのその言葉を自然と口に出していた。呟くように告げた瞬間、吹き込んだぬるい風がその言葉ごと溶かし、消していく。なのに、彼の鼓膜ではずっと反すうし続けている「好き」の二文字。今までで一番心臓が激しく脈打っていて、まるで自分のものじゃないみたいだった。


「んっ」
「え……」
「……あ。零だ。ごめん。英語やりながら寝てた」


 なまえはそう言いながら、寝ぼけ眼でむくりと上体を起こした。赤面していた降谷は今の言葉が聞こえていないことを切に祈ったが、ぼんやりと眠そうに目を擦っている彼女の様子を見たところ、それも単なる杞憂らしい。安堵から崩れ落ちるように前の席に腰掛けると、口から出てくるのはやっぱり悪態だった。


「しっかりしろよ。卒業したらアメリカ暮らしだろ」
「そうだよね」


 しかし、そう言ったものの。机いっぱいに広げられたノートの内容はとっくに高校英語の範疇を超えている。彼女が努力家なことは、人一倍知っているから。だから、監察医を目指してアメリカに行くと言われたとき、一瞬だけ意地悪く思った「日本でもいいじゃないか」なんて言葉、絶対に言えなかった。


「そういえば、言いたいことって何?」


 帰り支度のためにノートを片づけながらそう言うなまえに、降谷は一瞬、どきりとする。

 起きている彼女にそれを伝えることは、やっぱりまだ、できそうにはなかった。諸伏との勝負は一応これで自分が勝利を収めたことになるだろうし、今はそれでいいのだと思う。

 でも、そうだな。あえて今のなまえに何かを伝えるとすれば。降谷は即座にそれを思いつき、機嫌よく笑って机に頬杖をついた。そして得意げに言う。対面した顔の距離は、割に近かった。


「……なまえが向こうの大学を卒業して、アメリカからこっちに帰ってくるときは……そのときは、僕とヒロが必ず迎えに行くから絶対に連絡しろよ」


 すると、なまえは途端に花でも咲かせるように嬉しそうな顔を見せて笑う。その表情を、降谷は何よりも守りたい。


「うん、約束だよ」


 しかし、その約束が果たされるはずだった八年後。なまえはたったひとりきりで日本に帰ってきた。約束したはずの友人たちとはその二年前から音信不通。奇しくも帰国したその年に諸伏が殉職してしまっていたことなど、当然、知る由もない。

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