58...


 一方、その頃。珍しく赤井はキッチンのカウンター席でくしゃみを二回連続で出し、その無防備な様子を眺めていたなまえはぼんやり「赤井さんでもくしゃみするんだ」と当たり前のことを思っていた。万国共通、くしゃみをしたことがない人間なんてこの世には存在しないのだから今さら疑問に思うこともないのだが、一ミリの隙もなさそうな彼の場合はどうにも新鮮である。日本ではくしゃみをすると「噂をされている」なんて言うが、英語圏の場合はくしゃみを放つ瞬間に魂が抜け出るという迷信があり「God bless you!(神のご加護がありますように!)」と相手に言ってあげる習慣がある。故に、彼にも魂が抜けることなどあるのだろうかと。そんな馬鹿馬鹿しいことを、妙に真剣に考え込んでしまっていた。

 いや、それよりも新鮮なのは、普段通りの工藤邸の風景であるはずなのに彼の姿がいつもの沖矢昴ではないという点である。なまえはそう思い、うんうんと頷いて納得した。

 そうか、今そこにいるのがもし沖矢だったら、確かにくしゃみのことなど何も思わなかったかもしれない。本来の姿でいることすら禁止にするくらい沖矢と長い時間をともにしたからこそ、いつの間にか日常で起こっていた些細な出来事にも馴染んでいた。なまえはそんなことを考えて、彼とお揃いのユルリックマのプレートに特製のラタトゥイユを盛りつける。最後に、日当たりのよい窓際で室内栽培をしていたローズマリーを摘み取って彩りにすれば完成。事前に作っていたサーモンのムニエルとオムレツ、サラダを食卓に並べると、目にも美味しい豪華な夕食の出来上がりである。


「感慨深いな」


 それが今日の夕食を見た最初の彼の反応だった。なまえは疑問符を浮かべながら鼻歌交じりにカトラリーを並べている。その様子を機嫌よく眺め、赤井は言葉を続ける。


「お前が初めてひとりで作ってくれた夕食を食べるのが、沖矢昴という男ではなく、俺だということがな」
「私も光栄です」


 なまえは歯列を見せて余裕ありげに返したが、その裏では悪戯っぽく笑いたい気持ちを咬み殺す。だって、あのあなたが、こんな子どもじみたユルリックマのプレートでご飯を食べているところを見られるのだから、と。しかし実際には、洞察力の高い赤井がそのことに気づかないはずもなく、口元がわずかににやけている彼女への些細なプレゼントとしてあえて口出ししていないだけの優しさにすぎなかったのだが、逆にそのことに気づかない彼女が愛おしくて堪らなかった。

 赤井は食卓に座り直し、長い足を組んで支度が終わるのを待つ。残りわずかになったバーボンウイスキーを片手に。

 見た目的な違いは一見すると大きい。粗暴で大胆な赤井とは対照的に、沖矢はその物腰のやわらかさで他人に親切な印象を与えやすいためである。しかし、それは彼らが別人だと思っている人に対してだけ。同一人物であることを知っていて、なおかつルームシェア歴も嵩んできたなまえにとっては、彼らの些細な共通点を見つけるだけで嬉しくて、つい、いいことがあるような気がしてくる。まるで四つ葉のクローバーでも見つけたみたいに、いちいち手に取ってにこにこしたいくらいだ。

 そのバーボンだってそう。最初こそ沖矢のその嗜好品に対して警戒心を持っていたものの、彼の正体を知っていればもう怖くも何ともない。なまえは優作が残していったカッティングの美しいロックグラスに、ストックしていた製氷機から真円の氷を入れる。そして「どうぞ」と一級ウエイトレスのように差し出すと、赤井は目を細めた。


「気が効くな」
「今日は祝賀も兼ねてますから。ベルツリー急行の」
「そうか」


 短い会話が、逆に心地いい。なまえは自分が飲む用の炭酸水を注いで、ようやく食卓につく。そして手を合わせていつも通り長く、神様に祈りを捧げてからこう呟くのだ。



case58. 「いただきます!」


 ベルツリー急行の祝賀会をしようと言い出したのは、意外にもなまえの方からだった。今回のキーパーソンであった隣人の灰原哀。その命は、沖矢、有希子、それから下見に来ていた怪盗キッドに助けられながらもなんとか無事に守られて、今頃、黒ずくめの組織の中ではシェリーは死んだということになっていると察せられる。それは、あのベルモットがなまえから聞いた情報を一切漏らしていないことが前提条件ではあるが、何を隠そう、なまえが一番その点に関しては信頼していた。シャロンはもう二度と自分との約束を破ったりしない。そんな確固たる自信が彼女にはある。

 それに、祝賀会でもしなければやっていられないとも思えたのだ。その理由は、レモン柄のワンピースとともにクローゼットの奥底にしまった安室透の記憶。ベルツリー急行から降車後、なまえは彼のことを忘れるための決意としてすぐにその名を連絡先から抹消していた。彼からの呼び止めにも応じなかったのは、あえてその気を伝えるため。本当は、恨み言のひとつでも言えばよかったのにと思うと切ない自嘲が漏れる。

 ベルモットから最後に提起された質問である「Love or Leave?」について、あのときは返答することができなかったが、なまえの腹づもりはもう決まっていた。答えはもちろん後者。決別である。もう二度と彼に会うつもりはないし、きっと彼の方も、今はどの程度なまえが組織のことを知っているかは計りかねているだろうが、少なくとも悪者という見方をされているとわかれば近づくこともできないはず。喫茶ポアロのアルバイトもずっと休んでいるらしいということはその上階に住む弟の新一から聞いて知っていたし、ひょっとすると彼はもうこの街からいなくなってしまったのかもしれない。そんな風に思うと、じくじくと膿んだ初恋の傷が顔を覗かせてくるから、なまえは気づかないように目を閉じてその傷口に蓋をした。


「にしても。祝賀パーティをやるなら、俺よりも沖矢昴の方がよかったんじゃないのか」
「え?」
「お前、俺が苦手だっただろう」


 確信を突くような質問を繰り出され、なまえは途端にスプーンを置く。そしてしばらく答えを考えて、正直に思ったことを告げてみることにした。


「今回のことを振り返ってみて、私、思ったんです」


 ベルツリー急行の乗車日、当日。別入りのために乗り込むところを直接見た訳ではないが、東京駅であの列車に乗ったのは確実に沖矢昴。その後、世良を抱きかかえた彼と列車内で再会するまで、ただの大学院生の姿としていつも通り彼は存在していたはずである。

 しかし、安室に裏切られたことを確信したなまえを八号車まで迎えに来たのは、意外にも沖矢ではなく赤井秀一の方だった。そして、宮野志保に変装した怪盗キッドを助けるためにふたりで八号車と貨物車の連結部まで行き、手榴弾を投げ込むなり、今度は急いで彼の部屋に戻る。その姿を誰かに、不用意に目撃されるわけにはいかなかったからだ。

 列車が最寄りの駅で緊急停車するまでの間、事情のすべてをまるで種明かしするようになまえに話してくれた彼は、その間も、急ピッチで自身に沖矢昴の変装を施していた。もちろんその師である有希子と一緒にではあったが、ひとりの人間を別人にすり替えるトリックが、こんなにも忙しく、こんなにも大変であることを、なまえはその変身風景を見ていて思い知ったのである。


「だから、撤回しようと思って」
「?」
「禁止令ですよ。その方が楽でしょう? だから、今後は昴くんじゃなくて赤井さんの姿でこの家にいてもらっても大丈夫です」


 でも、どこかしこで煙草を吸ったり、上半身裸でうろついたりするのはやめてくださいね、と嫌味っぽくつけ加えれば、何を思ったか赤井は一呼吸置いて肩を震わせる。そしてそれは次第に大きくなり、とうとう大笑いにまで発展したのだった。

 なまえは思わずきょとんとして、完全に言葉を失ってしまっていた。それは奇しくも十年前、さざ波の音が聞こえる海辺で幼い新一が彼に魔法をかけてみせた笑顔と同じであり、知る人が見れば「さすがは姉弟」と思うのだろうが、そんなこと彼女が知る由もない。

 ほとんど平らげてしまった食器が並ぶ食卓で、ひとり、大笑いをしている彼。なまえはだんだん自分が笑われているような気持ちがして居心地が悪く、空いた皿を先に片づけるために立ち上がったとき。彼がおもむろにこんなことを言ったのだ。


「なまえ」
「はい?」
「付き合ってみないか、俺たち」


 一瞬、なまえは自分の耳を疑った。だが、自信たっぷりな表情でこちらを見つめてくる赤井の表情を見つめていれば、いくら鈍い彼女でもその意味がわかる。

 つまり、恋人になろうと言われているのだ。彼と、自分が。

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