59...
「付き合ってみないか、俺たち」
赤井のその言葉は、なまえの動きを止めてしまうには十分すぎるほどの効力があった。それはあまりに何の前触れもなく、食卓という日常風景に溶け込む場所で放たれた思わぬ提案で。そしてその意味はいくら鈍い彼女でもしっかりと理解できている。FBIの切り札とも言うべき彼相手では、一瞬だけ頭を過ぎっていった「どこへ付き合えば?」というわざとらしいとぼけ方が絶対に通用しないことも含めて。
勝気なその目に見つめられると、つい言葉に詰まって、もはやどこにも逃げられそうにないのだ。それは赤井秀一として初めて彼に出会ったときからわかっていたことだし、今さらずるく逃げるつもりもない。
だが、なまえにはやはりどうも考えられなかった。赤井がどうとかいう話ではなく、恋愛全般について、が。
ベルツリー急行の一件で、なまえは安室に対してひどすぎる失恋を経験したばかりだった。大切に見守ってきたはずの恋の芽吹きが、ただ育たず枯れていく。時間を薬代わりにして忘れていくしかないと思っていた矢先にその申し出を受ければ、まるで彼を薬にしてしまうようで。それは絶対に無理だと思い、決まりきったように断りの返事をしようと口を開く。
しかし、その言葉は彼によって阻まれた。
「俺を利用すればいい」
「……利用?」
「お前が組織の一員である『彼』に惹かれていたことは、あのボウヤが誘拐された事件のときから気づいていたさ。そして、今回の件で激しく手を噛まれ、その心に深手を負っていることも十分わかっている。一応、すべてを話せないまでも、お前の右首筋に呪いを刻むよう忠告をくれてやったんだが……人の話をまともに聞かなかったお前も悪いな」
そう言われると、途端になまえは決まりが悪くなる。その点は赤井の言う通り。もっと彼の言うことを聞いていれば、この胸の痛みも感じずに済んだはず。まあ、それも今となっては後の祭りであるが。
要するに、安室につけられた傷を癒すために自分を利用してもいい、とそういうことが彼は言いたいらしかった。しかし、それでもとなまえはまだ食い下がる。利用だ何だと言われては、余計に罪悪感が募る。まるでひどい女のそれだ。
それに、そもそもなぜそんな面倒なことを彼が買って出るというのか。いまいち理解ができず、なまえはつい彼に対して純粋な質問を投げかける。
「でも。そんなことして、赤井さんに何のメリットが」
「……お前、それ本気で言ってるのか?」
「え?」
「好きな女と一緒に暮らしていれば、もっと関係を深めたいと欲が出るのは自然だろう」
そう言うと、彼は座ったままでなまえの腕に手を伸ばし、軽く引いて自分の元に寄せた。その指先は彼女の肘の辺りからするすると手のひらまで下りて、そのまま手の甲にキスを落とす。一連のその行為があまりに恥ずかしすぎて火がつくように赤面したなまえは、思わず色気もなく自分の手を引っ込めた。
「す、好きな女って……!」
「ちょっとはその眼中に俺のことを入れろ」
「で、でもっ、そんな……」
「大丈夫。俺ならお前を泣かせたりはしない」
「え……?」
「一生をかけて大切にすると神様に誓うよ。だからもう覚悟を決めて、ただ頷いてくれないか」
俺の女になることを、と。似つかわしくないくらい甘えるようにそんなことをのたまう。あの赤井秀一が、こんな自分に。到底、考えられないことだった。
さすがのなまえもその言葉には引き続き赤面しきって、思わず目を逸らしてしまうくらいたじたじになってしまっていた。赤井にとっては、ベルツリー急行内で有希子と交わした約束をこれで完璧に果たしたことになるのだが、彼女がそのことを知っているはずもない。
それに当然のことながら、それはただ約束を果たすための上辺だけの言葉ではなく、心の底から出た彼の本音。付き合うかどうかはすっ飛ばして、実質的にはまるで永遠の愛を誓うようなプロポーズの言葉であったが、アメリカで長く住んでいた彼にとって好きな女に与えるには当たり前すぎるほどの情熱を込めていた。
強請るように再び掴まれた手首の力からも、いつもの強引さがない彼の純粋な本心が刺さって揺れてしまう。これまで沖矢として、いつも傍で微笑んで見守ってくれていた彼。過ぎるように思い出すのは、安室と降谷を混同して泣きじゃくっていた自分をあの夜、抱きしめてくれた優しさ。彼との穏やかな日常。新一が幼児化して以来の暖かい「おはよう」がある家。もう飾る必要は何もなく、彼の前でなら素のままの自分でいられること。六年ぶりに心から笑えるようになったその強さをくれたのは、確かに好きだった安室じゃなく、彼だった。
そして、赤井としてこれから一生をかけて守っていくと誓ってくれたことはきっと嘘じゃない。泣かせやしないというその言葉通りに、彼はこの先、自分の命に代えてでもなまえを大切にしてくれることをその目が教えてくれている。
珍しいほどなまえは素直に、この手を繋ぐ体温からその真剣さを感じ取っていた。そしてこんなことを思う。
これ以上愛される幸せなんて、果たしてこの先、自分にあるのだろうかと。
「……考えさせてください」
今は絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。返事を保留にすることで期待をさせてしまうのかもしれないが、それでもまだ、内心でも答えは否定寄り。やはり自分が今のこの状況で、誰かと恋人になることは考えられそうにない。
ただ、今すぐに否定してしまうこともできないのだ。そのくらい、彼の目が強く呼びかけるから。
離してもらった手の体温に名残惜しさを感じている、ずるい女のような自分がいた。けれど、その余韻さえも計算され尽くしているのではないかと疑ってしまうほど、赤井は余裕そうに目を細めている。考えさせてくださいと言ったなまえに対して、彼の返事はとても簡潔。いくらでも、と。たったそれだけ。
「せっかく作ってもらったんだ、片づけは俺がするよ。冷蔵庫に入れておくから明日また一緒に食べよう。どうせお前はもう、満腹だろうからな」
赤井はそう言うと立ち上がり、すれ違いざまに彼女の頭にぽんぽんと二回ほど叩いて颯爽と食器をシンクへ片づけてしまう。なまえは未だ引かない熱を顔に集めたまま、今日はとりあえずその言葉に甘えておこうと思い、小声で礼を言った。くすりと、控えめに笑う彼の声が聞こえる。
赤井のままでいてもいいと言ってしまった手前、明日からまた彼に会うのが気まずくなってしまったなと思っていた。けれど、そんなことを微塵も気にしていないような風に彼は平然としていて、なんだかとてつもなく悔しい気持ちになってしまう。
しばらくそうして負けを認めるように彼を見つめていれば、その視線に気づいた赤井が戯れのように言った。
「ああ、そうだ。美味かったよ。料理」
「え……」
「今さらわかっていたことではあるが、この分なら俺の妻としても十分やっていけそうだな」
追い討ちをかけるような甘い言葉に、慣れないなまえはついに沸騰した。そして、むせるように「ど、どうも!」とよくわからない返事をしてドタドタと音を立てて部屋から出ていってしまう。動揺しているのがバレバレすぎて穴があったら入りたい。なまえはそう思いながら閉じた扉に背を預けて、どうもって何だ、と自嘲気味に呟いた。
もちろん赤井はその様子を知った上で堪えきれず、食後の一服がてら取り出した煙草に火をつけて笑っていた。初めてこの身の正体を明かしたとき、自分は確かに彼女にこう言ったはず。いつか絶対に惚れさせてやる、と。どうやらそれを本当に思い知らせてやらねばならないときがようやくきたらしい。
「つくづく、可愛い女」
紫煙を吐きながらそんなことをひとりごちる。絶対に誰にも渡したくない。他の何よりも、あの女が欲しいのだ。
case59. どちらに転ぶかはわからないけれど
こういうときばかりに呼び出して申し訳ないとは思いながらも、なまえが相談相手として選ぶできるのはこの世でたったひとりしかいない。比較的予定が合いやすく、自分のこの状況もある程度は知っていて、かつ気心の知れた相手……といえばもう、弟のガールフレンドである毛利蘭以外に思いつかなかったのだった。しかしながら毎度毎度、経験値のなさすぎる恋愛について相談に乗ってもらうのがひと回り歳の離れた女子校生という状況に、そろそろ自分は恥を知るべきなのだと思う。
電話をかけた際、蘭は園子とショッピングに出ている最中であったらしいのだが、なんとか無理を頼んで来てもらう約束を取りつけることができた。彼女たちの位置的に来やすい場所をと選んで指定したのは、奇しくも以前、沖矢と初めて親睦会をした東都大近くのレモンタルトが美味しい店。あのときから随分時間が経ってしまったものの、一度食べさせてあげたいと思っていた念願がようやく叶ってその点に関しては嬉しくなる。
先に着いてしまったため店で大人しく彼女たちを待っていれば、しばらくして蘭と園子が入って来たのが見えた。なまえは店の入り口に向かって、手を振って合図をする。
「蘭ちゃん、園子ちゃん!」
「なまえさん!」
「ごめんね、いつも急に呼び出して」
「全然! 私たちもなまえさんと話したかったし!」
そう言って、薄着の園子が太陽みたいにからりと笑う。蘭もそれに同調するようにうんうんと頷きながら、ふたりは並んで前の席に腰掛けた。まるでお揃いのように珍しくスポーツメーカーの紙袋を持っていたのが印象的で、なまえは思わずその仲のよさに目を細める。
「ベルツリー急行以来だもんね。あのとき、事情聴取とかで降りた後も大変だったし」
「そうね。ところで、今日は世良さんは一緒じゃないの?」
密かに期待してたんだけど、と思いながらふたりにそんな質問をする。あの日、殺人事件の現場となった八号車のB室で顔を合わせることになったものの、それ以降、世良と話す機会は結局なく、有言不実行になってしまったことをなまえは気にしていたのである。世良自身も楽しみにしていたように見えたし、それに今なら一度、赤井秀一の妹であることを踏まえた上で彼女と話をしてみたかったのだが、いくら仲がいいとはいえ蘭と園子を含めた三人でいつも行動をともにしているわけではないらしい。
「私たち、実は明日、園子の別荘がある伊豆高原までテニスの練習に行くんですけど、今日はそのためのウエアを見に行ってただけなので」
「あの子。ジークンドーとかいう格闘技系は超好きだけど、他のスポーツはまるで興味ないらしいから」
なるほど、それでスポーツメーカーの紙袋か。なまえはそう納得して、ちょうど注文を聞きに来た店員にオススメのレモンタルトと紅茶のセットを三つ頼んだ。まるで、沖矢とのあの日をなぞるように。
「それで、単刀直入に聞きますけど。おじさまの助手っていうイケメン探偵の安室さんと、東都大学という高学歴イケメン沖矢昴さんだったら…… なまえさんはどっちを取るんですか!?」
「ちょっと、園子!」
「だってねえ? 気になるじゃん!」
ニシシと笑う園子に、はらはらと呆れる蘭。しかし、さっそくその話題が来てよかったと逆になまえは思う。経験がなさすぎる分、自分から恋愛の話は振りにくいからだ。
「昴くんはともかく、安室さんと私は何でもないよ」
「え?」
「あのときも展望室でちょっとだけ話はしたけど、殺人犯がうろついてるかもって言われてすぐに部屋まで送ってくれただけだから」
その発言は、自分でも少し嘘っぽく聞こえてしまったかも知れないとなまえは若干気にしてしまった。やけに発音よく、はっきりと言いすぎてしまったような気がしたからである。実際は心が焦がれるくらい好きだったのだから何でもないわけないのだが、今は平然と言わない方が胸が苦しい。
しかし、ふたりはそれに全然気づいていないらしく、全面的になまえの話を信頼したまま会話を続ける。
「そうなんですか」
「なーんだっ!口説かれたんじゃなかったわけね!」
やっぱりそんな風に思っていたんだ、となまえは笑った。園子の発言はむしろ逆。安室から「好き」という言葉を引き出させるために指を絡めたのは自分から。だが、何らかの思惑があったらしいバーボンこと彼は、頑なにその誘いに乗ってくることはなかった。おそらくシェリーのことで頭がいっぱいだったのだろうけど。
注文した品が運ばれて来て、一旦、会話は中断された。店員がいる間はつい美味しそうなレモンタルトに感嘆して、目線を奪われてしまうからである。しかし、そこはさすが女子校生。スイーツと恋愛話は同時多発的に切り崩される。
「でも『昴くんはともかく』ってことは、あの大学院生の方と何かあったんだ?」
「ベルツリー急行から帰って来て、相当、心配されたんじゃないですか? あの事件、連日ニュースで持ちきりだったし」
なまえはそう言われて、恥ずかしそうに目を伏せた。心配どころかベルツリー急行には一緒に彼と乗っていたのだが、そのことを知らない彼女たちに今は説明している時間はない。だからひとまずそういうことにしておいて、なまえは再び口を開く。
「うん、まあ……。付き合おうって、言われて」
その瞬間、ふたりは口元に手を当てて赤面した。手から滑り落ちたフォークが大袈裟なくらい皿の上でガシャンと音を立てる。
「わあ! つ、ついに!?」
「で、で、で、で! 何て答えたんですか!?」
「考えさせてくださいって言って保留にしてるけど」
でもたぶん、断るよ。紅茶を飲みながらそう言うと、園子は机を叩く。
「駄目よ、そんなの!」
「え」
「一度は付き合ってみて、違うと思ったら別れればいいのよ! 何事も経験! 恋人になって見えてくることもあるんだから!」
「で、でも園子。そんなことしたら、もうルームシェア継続できなさそうだけど」
「なまえさんの家なんだから、そんときは追っ払って彼に出てってもらえばいいのよ」
「それは……そうかもしれないけど……」
なぜか園子と蘭が、当事者であるなまえそっちのけで真剣に言い合いのようなことをしている。最終的にどう帰結するのか蚊帳の外で見守っていれば、突然、園子にビッと指を向けられた。
「じゃあ、もう一回、デートしてみたらどうですか!? 今度はもっとちゃんとした!」
「え……?」
「それ、いいかも! 今度はもっとラブラブなデートスポットに!」
「ら、ラブラブ……? ちゃんとした……?」
思わぬ結論にたどり着いた彼女たちの見解に、さすがのなまえは大きく混乱していた。ラブラブはまだしも、ちゃんとした、とは一体。以前、米花百貨店での買い物デートはちゃんとしたものではなかったのだろうかと思えて、よくわからなくなる。あのとき、沖矢は「デートですから」としきりに言っていたし、自分もデートだと疑っていなかったのだが。彼女たちからすれば、あれはちゃんとしていなかったらしい。
けれど、その後すぐ、なまえは安室と出かけた場所のことを思い返してみた。閉館時間ぎりぎりの東都水族館。ネオン街の遠足。星の瞬きさえ聞こえてきそうな暗がりの海辺。ベルツリー急行の展望室でさえ、彼と一緒なら特別に思えた。その理由は単純明快。それらのどの場面でも、なまえは安室のことをきちんと異性として意識していたからである。
沖矢との決定的なデートの違いに気づいたなまえは、レモンタルトを口に運びながら呟くように彼女たちに返事をする。
「……わかった、誘ってみる」
「!」
「頭ごなしに拒否するんじゃなくて、彼のこと、ちゃんと真剣に考えたいから」
それが結局どちらに転ぶかはわからないけれど。なまえはそう思いながら、今日、彼女たちに相談してよかったと思う。失恋以来、なんだか初めて元気が出てきたように思えたのだ。
一方、蘭と園子は姉として幼少時代から慕っている彼女の表情を見て、お互いに顔を見合わせた。「デートしてみろ」と人任せにけしかけたはいいが、シャイな彼女の通例から言えば絶対に否定すると思っていたのに、珍しく彼女は今回、それを素直に受け止めたのである。
そのときふたりは気づいた。なまえはきっと自分を変えようとしているのだ、と。
「私たち、応援してます!」
そんな姉代わりの彼女のことをさらにふたりは好きになって、その後はそれぞれの恋愛トークに花を咲かせていくのであった。