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翌日。いつものダイニングキッチンにて、緊張した面持ちのなまえは朝早くからルームメイトである「彼」のことを待っていた。普段なら朝起きればいつも既に用意があるのだが、早起きした今日くらいはそのお返しとばかりに電源を入れて仕込んでいたコーヒーメーカー。それがこぽこぽと愛しく音を立てている以外に部屋に音はなく、その静寂が余計に緊張を増幅させている。「今日、絶対に言う」と強く決め込んでいたせいか、昨日はあまり眠れていない。何しろ二十九年間生きてきて、そんなことを誰かに言おうと決心したのは生まれて初めてのことだったからだ。
ちなみになぜ昨夜の時点で言わなかったのかと言えば、その理由は明白。その「彼」は既になまえの想定していた「彼」ではなく、今の自分では到底手に負えない相手であると判断したからである。
故に今日、用事があって待っているのは、一緒の長く時間を過ごしてきた分、会話が容易い男の方。
「あれ? なまえさん。今日は随分早いですね」
前触れもなく意外そうな顔をして入って来たのは、予想通り、優しい表情に眼鏡をかけた大学院生の沖矢昴。正真正銘、なまえが待っていた方の「彼」である。昨日の夜に交わした会話の内容から、今日、彼が大学に登校するということは予見済み。そのため、既にきっちりと外行きの変装を施し終えて彼がここにやってくると踏んでわざわざ待ち伏せていたのだった。
赤井とはまた違って馴染み深い沖矢の声に、なまえは思わず猫のように背筋をピンと立てた。そして恐る恐る「おはよう」と口にする。顔中の筋肉が、面白いくらい自分でも引きつっているのがわかる。そんな微妙な変化を、彼が見逃さないはずがない。
「どうかしましたか? 目の下の隈がひどいようですが」
「え」
「まあ、僕に言われたくないでしょうけど」
そう言ってウインクするようにわずかに開眼してみせた彼の目の下にも、同じように隈があった。それは言わずもがな赤井秀一の特徴的な部分で、そんな彼の片鱗とも言うべき目になまえはひるむように言葉を失ってしまう。その様子に彼がくすりと笑ったところを見れば、その開眼が意図的だということは悔しいくらいよくわかった。
彼はコーヒーを注ぐため一度こちらに背を向けた。やはり正面からでは勝てない。なまえはそう思った瞬間、彼の背に「今だ」と決意を固める。そして小刻みに震える体をなんとか支え、思い切り机にバンッと両手をついて立ち上がったのだった。
「す、昴くんっ!」
「?」
「わ、私とっ!……デートしてっく、れ、な、いか、な……?」
言う前は強く保っていたはずの気力が、不恰好にもだんだん語尾とともに消え入るように弱くなる。なまえはやっぱり先日と同じく穴があったら入りたいような気持ちに浸ってしまって、一刻も早く彼が何かを言ってくれるのを待っていた。
一方で、その言葉は沖矢を振り向かせるには十分すぎた。残念ながら伏せていたせいでなまえの顔はまったく見えないが、細い髪の隙間から耳まで真っ赤に染まっていることは彼の目から見てよくわかる。
そして珍しく彼は、湯気の立つコーヒーを片手に硬直してしまっていたのだった。さすがにそれは自分の告白を上回るほどの想定外であったからだ。
case60. 不意打ちをお返し
ところ変わってここは静岡。国道135号を颯爽と滑る「わ」ナンバーの白いレンタカーには運転席に小五郎。助手席にコナン。そして後部座席に蘭と園子が乗り合わせていた。都心からであればわずか二時間半ほどで到着できる避暑地、伊豆。そこにある鈴木財閥所有の別荘へと、一同はテニスの練習のために向かっていたのである。
「いやあ、悪いねえ! ベルツリー急行で散々な目に逢わせてしまった埋め合わせに、伊豆高原の別荘に招待してくれるとは!」
小五郎はそう言うと、カーステレオの音をかき消すほどの大笑いを繰り出した。それを横目に見て、コナンは失笑する。
話に上ったのは、先日、園子の誘いによって乗り込むことになったベルツリー急行で起こったふたつの事件。いつもの如く、眠りの小五郎はコナンの力によって、アガサ・クリスティによる不屈の名作『オリエント急行殺人事件』中の名探偵ポアロにも匹敵するほどの抜群の推理力を発揮して見事、一等車で起こった殺人事件を無事解決。その後、未だ警察の捜査も虚しく誰が仕掛けたか判明しない爆弾事件も重なって、まさしく散々な目に遭ったというのが妥当だろう。その埋め合わせにと受けた娘の友人の招待とあれば、これはもう仕方がない。レンタカーでも何でも借りて丁重にお連れし、その上で接待を受けるのが筋である。しかし、その表情の裏には別の思惑が明け透けに見えるようで、助手席のコナンは終始呆れていた。
連れて行く見返りとして園子から提示された条件は、テニス場でプレイし放題の権利。それだけなら恩恵としてはやや薄いが、この時期は特に女子大のテニスサークル集団が多いという話を園子から聞いた途端、目の色を変えて簡単に釣られるのがこの毛利小五郎という男。鼻の下を伸ばしてスコート姿の女性を想像し、終始でれでれしているのが不快である。
以前、同じく軽井沢へテニスをしに行ったときも確か同じようなことを言ってたっけ。と、コナンが軽くそのときのことを回想していると、後部座席から蘭と園子の和気あいあいとした会話が聞こえてきた。
「にしても、なまえさん。ちゃんと誘えたかな?」
「頑張れって、メールしてみよっか」
「うん、そうしよう!」
なまえ、という姉の名を聞いてはさすがに黙ってはいられない。コナンはつい後ろを振り返って、何の会話をしているのかをふたりに尋ねることにした。
「なまえ姉ちゃん、どうかしたの?」
「実は昨日ね、すごい話聞いちゃって」
「あの大学院生に、とうとう告られたらしいのよ!」
断るって言うから、とりあえずデートに誘ってみて遊びに行ってから考えるべきだって言ったわけ。園子はそう言いながら、既になまえにメールを打っているらしい。それは蘭も同様で、ふたりしてその内容が被らないように示し合わせているらしかった。
一方、弟としてそんな微笑ましすぎる話を聞いて、コナンは自分の機嫌がすこぶるよくなるのがわかった。たまには園子もいいこと言うじゃねーか、と内心でそう思いながら、今も工藤邸にいるであろう沖矢となまえを全力で応援する。
しかし、唯一、小五郎だけはその話を聞いて、珍しくまったく別の見解を持っていた。
ベルツリー急行の食堂車で工藤なまえを久しぶりに見かけ、相席を誘った後。弟子である安室を紹介しようと思ったのは確かに師匠の威厳を見せつけるためでもあったが、実は探偵の勘が働いて、彼が彼女に似合いそうだと思ったからであった。年齢的にも確か同じはずだし、容姿的にもふたりで並んで歩けばきっと周囲からは騒めきが聞こえるほど目を引くだろう。これで彼らがどうにかくっつけば、自分は仲人としてたんまり謝礼をいただけるだろうなという魂胆もあったのに、いや、実に惜しいことをしたと思う。
にしても、この後、蘭とコナンにはサプライズとはいえその安室に会うことになっているのだが。精々、彼には弟子としての領分をわきまえさせ、決してテニスギャルを盗られないようにしなければ。と、そんな下衆なことを思いながら、いっそう強くアクセルを踏む小五郎。
一行はこうして目的の伊豆高原へとひたむきに向かったのである。
「デート、ですか?」
そのたどたどしい彼女なりの誘い文句は聞き取りにくいながらも確かに届き、さすがの沖矢でも面食らって硬直してしまうほどであった。告白の返事ならわかるが、ただデートを誘うだけでどれだけ緊張しているのだと言ってしまいたくなる。この女、いちいち可愛すぎやしないか。いや、しかしまあ。声が上ずってしまうくらい真剣であることは十分わかったので、そんな彼女を茶化してはいけないと思い直し、にやつきそうになる口元を押さえながら彼は言葉を続ける。
「いいですけど。どちらへ?」
「へ?」
「僕は前も言ったようになまえさんが行きたいところなら、どこでも構いませんけど」
紳士的にそう告げながら、しなやかな指先で眼鏡を押し上げる。しかし、なまえはまたも動揺しているような変な顔をして、再び揺れる目を伏せた。
「どうしよう、行き先までは考えてなかった……」
それにはつい、沖矢は努めて我慢していた笑いを決壊するように吹き出させた。笑われたことでさらに赤面したなまえは、取り繕うように必死で弁解している。園子と蘭に誘ってみろと言われたからだとか、昨日の夜あまり寝ていないだとか。理由になっているような、いないような。どれもこれも曖昧な弁解で、むしろまた笑えた。
堪らず沖矢は彼女に近づき、そして愛おしそうにその毛先を指で遊ばせながら逆にこんな提案をする。
「じゃあ、僕が行き先を考えてもいいですか?」
「え」
「車で少し遠出でもしましょう。当然、ふたりきりで」
仕事の気分転換にもなるでしょうし、日帰りで小旅行なんていいかもしれませんね。それとも美味しいものが食べたい気分なら、海のある街にでも行きますか。なんて、するするとデートプランが出てくる彼のことを、まるで魔法使いみたいだと思ってなまえは見つめた。その表情が意図せず上目遣いになっていて、沖矢は自制ができず彼女を片手で腕の中に招く。最高の朝だな、毎日こうしていたい。
腕の中に捕らえられてまるで小動物のように縮こまっている彼女の耳元で囁くのは、行き先を考える代わりの交換条件。
「その代わり、その日は僕のために緋色のワンピースを着てくれませんか? あれを着たあなたとデートがしてみたいので」
「あ、え、あの、それは構わないけど……」
「まあ、レモン柄も素敵でしたけどね」
沖矢の何気ない一言に、なまえは封じていたはずの安室のことを思い出す。あのワンピースが、実は安室からの貰い物だということを沖矢は知らない。
そして、なまえはもう二度とあれを着ることはないのだと改めて思った。
「あれはもう、着ないよ」
腕の中でそう呟く彼女があまりに切なげで、沖矢は少し訝しげる。しかし、今はこの腕の中にいる暖かい命に酔っていたくて、しばらくは何も気づかないふりをしていたのだった。