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 ベルツリー急行の埋め合わせという名目に誘われ、ようやく伊豆高原のテニス場に到着したコナンたち。さすがは避暑地というだけあって標高が高い分、都心と比べるとあたりは清々しいほどの涼しさに包まれており、まさに気分は爽快。車を降りたコナンは日頃の事件を忘れ、伸びをしながらリフレッシュするよう胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。

 最近は空手の練習にテニスを取り入れているのだという京極との、まだ見ぬ先のテニスデートのために「絶対にいいところを見せなければ」と息を巻いて燃えているのは、ご存知、その恋人である鈴木園子。今回、コナンたちが伊豆に来たのは埋め合わせという名目よりも、その特訓に付き合うためと言った方がしっくりくることだろう。しかしながら、お嬢様育ちでテニス歴も長く、帝丹高校で部活にも所属している園子に教えられるほど誰も達者ではない。そのため、今日は小五郎がスペシャルコーチを呼んでいるというのだが……その相手を知らないコナンと蘭は誰のことだろうと訝しげつつ、さっそく着替えを済ませてテニスコートへと足を運ぶことにしたのであった。が。

 そこにいたのは、想定外すぎる人物。


「っ!?」


 コナンの頬ぎりぎりをかすめ、背後に張られた金網のフェンスに容赦なくボールを直撃させる。そんなプロ顔負けの力強いサーブでギャラリーを沸かせるのは顔立ちの整ったひとりの男。

 先のベルツリー急行の一件でその正体が明らかになったばかりの「バーボン」こと安室透の姿があり、思わずコナンは言葉を失ってしまったのだった。


「すごい! 安室さん!」
「いやあ、中学のとき以来ですからお恥ずかしい」


 なんでこいつがここにいるんだ、と警戒心をむき出しにしたコナンであったが、安室はそんなことを物ともせずに平然と小五郎たちと会話を楽しんでいる風であった。なんでもジュニアの大会で優勝経験があるらしく、ポアロのマスターに紹介されて今回のコーチ役に白羽の矢を立てられたというが、どこまで本当かは定かではない。さらにはそのポアロにも週明けからアルバイトに復帰すると平気で言い放つので、さすがのコナンも驚きで目を見開いてしまう。

 一体、何が目的なんだ、この男。頭の中で、ぐるぐるとその思考は巡る。


「では、サーブからはじめましょうか」
「はいっ!」
「ボール、危ないからコナンくんは下がっててね」
「いや、危ないのはボールじゃなくて……」


 蘭にそう言いかけたのと同時に、安室は血相を変えてコナンに叫ぶ。


「危ないっ!」
「!?」


 その瞬間、突然、隣のコートで試合をしていた女性のラケットが滑って頭に直撃し、コナンは脳震盪を起こして倒れてしまったのであった。



case61. きっと世界中の誰よりも


 一刻も早い処置のために、小五郎たちは距離的に園子のではなく、ラケットをぶつけた女性が所属しているサークルの別荘まで急いでコナンを連れて移動することになった。医者に診てもらったところ、幸い大した怪我ではなく、本人の意識もすぐに戻ってしっかりと応答ができるまでに回復する。女性のサークルメンバーも集まってすっかり大所帯になってしまった一同は、ひとまず少年の無事に胸を撫で下ろし「これも何かの縁」とばかりにミックスダブルスをしに行かないかという話になっていた。

 だが、時刻はちょうど真昼時。空腹も感じてきた頃合いであるし、午前中の汗を一度シャワーで流したいと誰しもが思う時間帯。そこで、まずは「怪我のお詫び」という彼らの好意に甘えて一緒に昼食をとり、十分に休憩をしてから、再び、テニス場に行こうということになったのであった。


「じゃあ、私たちは昼食のお手伝いするから。コナンくんはここで待っててね」


 中腰になって視線を合わせた蘭は、幼い弟のような彼を安心させるようにそう言ってにこりと笑う。一方、先ほど薄れる意識の中で必死に安室から遠ざかるよう呼びかけていたコナンは、この部屋の入り口付近で小五郎と世間話をしている彼の背を一瞥し、気になっていた質問を彼女に繰り出した。


「ねえ。蘭姉ちゃん。僕をここに運んできてくれたのって、もしかして」
「安室さんよ。お医者さんが来るまでの処置も的確で、とても頼もしかったんだから」
「……」


 やっぱり。コナンはそう思い、再び鋭い視線で安室を睨む。

 あのベルツリー急行での一件の後。てっきり自分たちの前からはもういなくなったものと思っていたが、本当にのこのこと再び目の前に現れるとは夢にも思わず、彼が何を考えて行動しているのかはその持ち前の推理力を持ってしてもわからなかった。黒ずくめの組織の一員として、これ以上、毛利小五郎の周りに張りついて探りを入れる理由は何もないはず。なぜなら、彼があんなにも頑なに生きたまま組織に連れ帰りたがっていたシェリーは、偽装とはいえ、彼の目の前で爆発に巻き込まれて死んだように見えているはずなのだから。

 じゃあどうして、と包帯を巻かれた痛む頭で小さな名探偵が懸命に考えるのは、目の前にいる安室透という男の本当の目的。それはおそらくいくつかの複合性を持っているのであろうが、その頭脳を持って数多の可能性を洗いざらい考えてみれば最も嫌な見込みのひとつにすぐぶち当たる。

 それは、自身の姉に関するもの。奴はなまえに接近するために自分たちの傍から離れないことを選んだのではないか、とそんな風に思えたのだ。

 彼が合コンを盾になまえの連絡先を聞き出していたとき、自分もその場にいたが、まるでコンパなど興味があるようには見えなかった。そしてそれ以前にふたりきりで東都水族館にデートに行ったという話から、あの奥手ななまえから誘ったとは考えられず、状況的に安室の方が姉に言い寄っているようにしか思えないのである。恋愛経験の乏しいなまえがそれにほだされてしまうのもある意味では当然で、彼に好意を寄せてしまうのは仕方がない。ただ、自分の弟を薬で小さくした組織の一員である「バーボン」だとわかった今なら、もう絶対、彼に振り向きはしないだろう。

 また、恋愛的な面を度外視しても、なまえはあの来葉峠で発見された赤井秀一の焼死体を解剖した監察医だ。バーボンが赤井の死に疑いを持っているとすれば、聞き出すために近づく理由にもなり得る。

 もちろん、それ以外にも何か気になることがあって、探り屋としての一面を見せつけるように小五郎の弟子として偽り続けているのであろうということは十分に察せられた。しかし、姉に関しては、それが組織としての彼なのか、はたまた男としての彼なのか。ポアロ、探偵、バーボン、という彼がいくつも使い分ける顔のせいで、それがまったく読めない。

 とりあえず、なまえには絶対に近づけさせないようにしなければならないな、と。改めてコナンはそんな風に強く彼を警戒していたのだった。




 部屋でアイスケーキを食べるという石栗という男と、安静にしていたコナンを除いて、一同は協力して昼食の冷やし中華を作っていた。大学のテニスサークルということでメンバー間は互いに仲がよく、恋愛関係にある者はいないようではあるが逆にそこが清い感じもする。ただ、先ほどから男女で甲斐甲斐しく料理をしている後ろ姿を見ると、蘭はついにこにこして「いいなあ」と思ってしまうのであった。


「あら、奥様? 新一くんと一緒にお料理、なんて考えてるんじゃなくって?」
「もうっ、園子ってば!」
「でも、本当こういうのっていいわよね。アタシも真さんと……ふふ、なんてね! まあ、なまえさんみたいに恋人と同棲中なら毎日こんな感じなのかもしれないけど」
「昴さんとなまえさんはまだ恋人同士ってわけじゃないみたいだけどね、って……あ、ねえ、ちょっと園子」


 突如、蘭は声をひそめるようにそう言うと、無理やり園子を引っ張って自分の元に引き寄せる。


「え、何? どうしたの?」
「そういえばあのとき、なまえさんは安室さんと何でもないって言ってたけど……」


 安室さんの方は、もしかしてそうでもないんじゃないの? と、まるで予感のように思っていたことを言いかけた瞬間、ふたりの背後に、ぬっと影が伸びる。


「僕と彼女がどうかしましたか?」
「ひっ! あ、安室さん……!」
「彼女、元気にしてます? あれ以来、お会いしていないもので」


 にこにこといつも通りそんな風に尋ねる安室に、蘭と園子は顔を見合わせて「まだ知らないのか」と思う。それも当然だろう。沖矢がなまえに告白したことは、昨日、自分たちも彼女から聞くまで知らなかったことだし、それになまえを介する以外に沖矢と安室に接点があるとは思えない。

 何と答えればいいかと迷っている蘭に対し、やはりここは園子がずばりと切り込むように大胆にも彼に聞きたいことを尋ねた。


「ちょっとお聞きしたいんですけど。安室さんって、なまえさんのこと……?」


 すると彼は一切の表情を変えず、まるで当たり前のことを言い切るような返事をする。


「好きですよ」
「え……?」
「きっと、世界中の誰よりも。ね」


 それはあまりにも不意打ち的で、蘭と園子の予想を超える回答であった。整った顔立ちに、褐色の金髪というまるでどこかの一国の王子様のような雰囲気さえある彼が、一切、飾ることもなく素直に彼女のことを「好きだ」と言い放ったのである。しかも、推し量るに並大抵の気持ちではない。たとえどんなに好きな相手であったとしても、世界中という最上の言葉をつけて形容することはなかなか難しい。

 その想いの強さを垣間見て、なまえと沖矢の仲を推奨していたはずのふたりは急にそのことを忘れ、食い気味で安室にこの状況のまずさを伝えようと目の色を変えてすがりつく。


「じゃ、じゃあ! 急いだ方がいいですよ! なまえさん、一緒に住んでる大学院生に告白されたって言ってましたから!」
「そ、そうよ! 今ならまだ間に合うかもだし!」


 しかし、それを聞いても焦っているのは蘭と園子だけ。安室は冷静に彼女をたちを落ち着かせると、口角を無理に上げて、切なげにこんなことを言う。


「いえ。僕のは単なる片思いですので」
「……」
「それに、ただ好きという気持ちだけでは彼女を幸せにはできませんから」


 安室はまるで自分に言い聞かせるようにそう言って、納得していた。そうだ。なまえと再会するまでの自分は、ずっとそのことを強く肝に銘じてきたはず。ただ手に入れるためだけなら無理矢理にでも抱いて、我が物として誰の手からも届かないように囲ってしまえばいいだけの話。馬鹿みたいに何もかも話して傷つけた後、その傷を埋めるように愛を与えてやるだけでいいのだから。

 けれど、自分と彼女の間を取り巻く問題はそれだけに止まらない。だからこそ、彼女の幸せについて最良を考えた結果が今なのだ。

 自分の正体を明かすのはやはりすべてに片がついてから。組織の壊滅。それが安室にとって第一義的な目標であることには変わりなく、そのためには、たとえ誰に何を言われようとも自らが「嘘つき」である必要性すら色濃く感じる。


「まずは、僕が彼女にふさわしい自分にならないと」


 奇しくもその発言は、かつて、彼女が渡米を決めたときの発言と同じ。そして、彼女同様、ふさわしい自分になるためには苦しくも長い茨の路を進むと安室は決めていたのでる。

 でも、なぜだろう。そう決めたくせに、あの日、立ち止まってくれなかったレモン柄のワンピースの彼女がいつまでも目の前にちらついて、届かない。追いかけても追いかけても、自分の元から逃げていく。そんな光景を何度も夢の中で見たことを思い出し、安室は弱気にも急にこの場から逃げ出したくなった。


「すみません。昼食の支度は大体終わったので、みなさんは先に食べておいてくれませんか。車に飲み物を忘れたみたいで取りに行ってきます。ついでに昼食のお礼を何か買ってこいと毛利先生から言いつけられているので、少し遅くなるかも」
「あ、わかりました」
「暑いから気をつけてくださいね!」


 元気いっぱいに見送られて部屋を出ると、冷房が届かないせいか蒸し暑さで途端に汗が流れた。安室はひとり駐車場に向かうのではなく、そっとコートの方へと歩き出す。これ以上あの場にいたら、さすがにポーカーフェイスではいられない。ここは少し壁打ちでもして頭を冷やそうと思ったのだ。

 気づいていた。いくら彼女のためと綺麗事を並べたところで、本当は、自分が一番、彼女を傷つけてしまっていることを。


「なまえが幸せなら……」


 諦められるのか? 他の男の隣にいても。そう思った瞬間、よぎるのはやはり、赤井秀一の腕に抱きとめられていた工藤なまえ。その光景を思い出すだけで、安室はやはりその身が裂けるような激しい嫉妬にかられてしまう。警備と呼ばれた高校時代が懐かしくなるほど、可笑しいくらい自分はその当時の気持ちのままだった。


「全然、変わってないな。僕は」


 どれだけ年月を経ても、彼女のことを知らなかった自分がもう思い出せない。

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