62...
その夜、さっそくなまえと沖矢が予定を突き合わせてみると、偶然ながらお互いの休暇が合う日はそれから割にすぐあって、もはや運命的に「その日しかない」と満場一致で出かける日程が決まる。それからふたりしてキッチンカウンターの上に乗ったユルリックマのカレンダーに、仲睦まじく予定を書き込むことにした。ただし、ペンを握っていたなまえは当然「デート」などという自分に似つかわしくないほどの甘い三文字を書くのはどうしても恥ずかしかったので、一瞬でいろいろなことを迷った挙句、絞り出すように「ドライブ」というなんとも無難な単語をそこに書き記す。場所をサプライズ的に沖矢に任せてしまっていたせいで、車で遠出をするらしいということ以外に何も情報がなかったからだ。
そんな様子を見透かした沖矢はくすくすと笑っているようであったが、決してなまえはむっとすることなく、なんだかいちいち些細なことに悩んでいる自分が急に馬鹿馬鹿しく思えて逆に一緒に笑ってしまっていた。沖矢はその顔に少しどきりとしつつ、「ついでに車の絵でも描いとこう!」と息巻いて真剣に下手な絵を描いている彼女の横顔に、キスのひとつでも落としたい衝動に駆られる。当然、そんな彼の心境を、なまえは知らない。
沖矢の頭の中では、彼女と行く目的地はもう既に決まっていた。せっかく好きな女を独占できるいい機会。だからと言って、無謀な誰かと違って泣かせたり、気疲れをさせたりするような真似は絶対にしたくない。そして自分自身も、そろそろ一度、この生活を脱却するように思い切り羽を伸ばしたいと思っていたところでもある。ただ、ベルツリー急行の一件で組織からの魔の手は薄れたとはいえ、決して欠かすことのできない灰原の護衛は、唯一自分の正体を知っているFBIのジェイムズに抜かりなく頼むつもりにはしていた。
「なんなら、場所も書き足しておこうか?」
にこにこした彼女が愛らしくそう言うので、すかさず沖矢は「秘密です」と目を細めて笑った。おそらく自然な風を装って場所を聞き出したかったのだろうが、口を尖らせてカレンダーを元の位置に戻しているあたり、そんな彼女の魂胆は見え見えである。
にしても、カレンダーに書くほどなまえが自分とのデートを楽しみにしてくれているらしいということが今の沖矢には純粋に嬉しかった。告白にもっと戸惑って、振るための言葉を探しているものだとばかり思っていたが、まさか彼女の方からデートに誘ってくるとは。誰の入れ知恵かは知らないが、その人物に深く感謝したい。
これなら、あるいは本当に。期待しても許されるのかもしれないな。なんて。
「昴くん、そんなに楽しみなの?」
「え?」
「だって。さっきからずっとにやにやしてるよ」
悪戯っぽく彼女がそう言うので、沖矢は堪らずくしゃくしゃと彼女の頭を撫でた。そして自分の首元に手をやって沖矢昴の代名詞とも呼ぶべきハイネックをわずかに指先でずらすと、阿笠特製チョーカー型変声機のスイッチを落とす。この俺をからかおうなんて、百年早い。
「それはお前もだろ?」
そう言って、薄く目を開けてみせるのは赤井がよくする勝気な表情。なまえはその表情と声にかあっと赤面しながら、悔しくもまた押し黙ってしまうのであった。
こんなときに赤井さんなんて、ずるい。
case62. 絶好のドライブ日和
約束の「ドライブ」の日は、からりとした太陽が眩しいほどの快晴だった。
「はい、お姉ちゃん。お待ちどうさんっ」
灼熱の鉄板で焼きそばを焼き続ける店主から、なまえは注文の品をご満悦に受け取って顔を輝かせる。隣では沖矢がおつりをもらっていて、なまえは何度も彼に礼を告げた。いいですよ、これくらい、と余裕の笑みを見せる彼は、先ほど自販機で買ったブラックの缶コーヒーを飲んでいる。隆々しい喉仏が、ちょっとだけ見えた。
休憩がてらに立ち寄ったのは比較的小規模な高速道路上のサービスエリア。平日ということもあって人はほとんどおらず、ここまで道が混んでいたということもない。天気もよく、まさに快適な絶好のドライブ日和。なまえは沖矢に買ってもらったソフトクリームを恥ずかしげもなく空に掲げた。
遠くに見える山々のコントラストと対比するように純白のソフトクリームの写真を撮る赤いワンピース姿のなまえは、手に構えているのはスマートフォンであるはずなのにまるで写真家のような鋭い顔つきをしていた。そして撮り終えた後は画面を確認して「よし」と呟いているところを見ると相当いい写真が撮れたらしく、そのままメールで毛利蘭に送るのであろうということは容易に察しがつく。「写真撮ったら見せてくださいね」と言われているらしいのだが、おそらく蘭が言っているのは自分たちのツーショット写真のことだろうなと沖矢は彼女の背を見てぼんやり思っていた。
にしても、それ、今にも溶けるぞ。
沖矢はつい悪戯心から、彼女の手を握って、持っていたソフトクリームの先端をかじりつきながら何気なくその画面を覗き込んだ。「なるほど、確かにいい写真ですね」と呟く彼のあまりの行為に、なまえはついぎょっとしてしまう。その顔の方がよっぽど写真映えしそうだと彼は思った。
「青い空と緑の山を背景にしているからか、まるでソフトクリームが入道雲に見えますよ」
「……昴くんが一番美味しいとこ食べた」
「ああ、すみません。溶けそうだったので、つい」
「いいけど……別に」
昴くんのお金だし、とそう言って食べるのを躊躇しているらしいなまえと一緒に一際目立つカラーリングをしたスバル360まで戻る。それにしても、一番美味しいところって。ソフトクリームの味なんてずっと均一だろうに。
「そろそろなまえさんなら、持ち前の推理力で僕がどこに向かっているかわかったんじゃないですか?」
シートベルトを装着しながら沖矢が気になっていたことを尋ねると、なまえは静かに頷く。
「うん。その理由もばっちりね」
「ほう? では聞きましょう。その名推理」
おどけたように言うなり、彼は再び車を発進させた。通風口から一気に涼しい風が排出されて、なまえはその風に目を細める。ソフトクリームは沖矢の心配通り既に溶け始めていて、垂れそうになる先端部分を赤い舌でなめとった。
あれはいつ頃のことだったか。確か、米花百貨店で爆弾騒ぎがあってしばらくした後。博士が子どもたちを連れて、発明品を買いつけてくれたお得意様である箱根の温泉・湖望旅館に行っていたときのことを思い出す。そのとき、律儀にも灰原がお土産にくれた「箱根まんじゅう」。もちろん、沖矢となまえはふたりして仲よくお茶を入れて食べたのだが、灰原から「焼きたてが美味しかったわよ」という話を聞いていて一度食べてみたいねと話していたのだった。
「だから、もしかしてそれ食べさせてくれるんじゃないかなって思って」
「さすがはなまえさん、半分正解です! まあ、もう半分はその湖望旅館の名物である湖上温泉に浸かってリフレッシュして欲しかったからということもありますが」
「え、温泉入れるの!? 何年ぶりだろう、嬉しい!」
「ええ。日帰り温泉が可能かどうかは湖望旅館に電話して既に確認済みです。さすがに一緒には入れないので、一緒に楽しめる足湯のある場所もリサーチしておきましたよ。よければ後でそこにも行ってみますか」
「行く行く!」
嬉しそうに笑ってくれるなまえに、沖矢は安堵した。そして、横目に見えた溶けかけのソフトクリームを再びひょいと奪ってかじりつく。彼女が食べてると美味しそうに見えるそれも、実際、食べてみれば彼には少し甘すぎる。
「そんなに食べたいならふたつ買えばよかったね」
「ええ、でもそれだと意味ないじゃないですか」
「?」
何がどう意味がないと言うのか。なまえはよくわからず帰って来たソフトクリームを、今度は奪われないように頑張って最後まで食べきってしまう。運転中で触れられない代わりのスキンシップでドキドキさせたいという思いは、あいにく、鈍い彼女には届かない。
湖上温泉とはその名の通り、湖の上に浮かんでいる景観のいい温泉。日本では唯一ここと鳥取の羽合温泉にしかないらしく、湖望旅館ではその美しい波面を眺めながら入浴が楽しめる施設になっている。以前、博士たちがここに訪れたときは確かドラマの脚本家が殺されるという痛ましい事件があったらしいのだが、それを機に少し改修したばかりのようで、内装がとても綺麗でゆっくりと長湯することができた。それに、お湯に浸けると温泉の効能をおしゃべりしてくれる人形がいて、ちょっと気が和む。きっとこれがこの旅館が大量に買いつけたという博士の発明品なのだろう。
温泉から上がって再び沖矢と合流し、次は時間的に食事をすることにした。とは言っても残念ながら、ソフトクリームやら、持ち込んでいたお菓子やらを車内で食べてしまっていたせいかあまり空腹ではなく、がっつりとは食べられそうにない。そこで、沖矢が事前に調べていた「足湯カフェ」というなんとも温泉地らしい場所に入って軽い食事をとることにした。
足湯に浸かりながら食べるのはちょうど食べたいと思っていた、あの「箱根まんじゅう」。まんじゅうという名前から和風っぽいのだが、カステラ生地に白あんなのでなんだか洋風な感じもして。確かに灰原の言う通り、焼きたてはすごく美味しかった。
ぱしゃぱしゃと水音を立てながらふくらはぎまで湯に浸けていたなまえは、ぼうっとリラックスしているらしい隣の沖矢に話しかける。
「ところで、昴くんって結構まめだよね。こういうの調べるのが得意みたいだから、きっと今の仕事を辞めたら旅行雑誌の編集者になれるよ。いつもどうやってリサーチしてるの?」
それは当然、このドライブデートのことも含んでいたのだが、なまえの中では先日、蘭と園子と行ったレモンタルトの店のことも含めて指していたのだった。あのときだって、どうしてなまえがレモン好きだということを知っていたのかはさておき、彼は見事相手の好みに合わせた場所を選ぶことができるように思えたのである。FBIとしては当たり前のスキルなのかもしれないが、こういうことがからっきし駄目ななまえはそれもひとつの才能だと思えた。
しかし、沖矢は眼鏡を押し上げながら平然とこう返す。
「リサーチの方法はネットや雑誌など一般的ですが、その理由はあなたですよ」
「え?」
「一緒にいたいと思う相手がいれば、行きたい場所を探してしまうのは当然でしょう?」
その一言に、なまえは赤面した。つまり、彼はなまえと一緒にいたいと言っているようなものであったからだ。
「昴くん、この前からちょっとずるい……」
「どうして?」
「どうしてって……でも、そうか。きっと私が意識してるからなんだね」
そうひとりごちるなまえに、今度は沖矢が赤面しそうだった。安室と沖矢のデートの違いを理解したなまえは、まず、沖矢を理解するために彼を意識するところから始めてみようと思ったのである。ずるい、と感じられるようになったということは、その効果は少なからず出ているらしい。
一方の沖矢はようやく自分が異性として意識され始めたらしいことを知って、柄にもなく嬉しくなる。そして、彼女のことが改めて好きだと実感した。早く、こっちに振り向いて、と。らしくもないことを言ってしまいたくなる。
「僕には、今のなまえさんの方がよっぽどずるい」
「え?」
「それはそうと、そのシルバーのペンダント。温泉に入る前に外さなかったんですね」
まるで話をすり替えるように言われたその一言に乗ってしまうように、なまえは自分の胸元に視線を下げた。すると、今朝、約束通りこのワンピースを着るからと沖矢につけてもらったハートのペンダントが、いつの間にかすっかり硫化して黒ずんでいる。せっかく有希子から貰い受けたばかりだというのに、アクセサリーをつける習慣がなかったがために温泉で色が変わってしまうことを気に留めることができなかったのであった。
どうしよう、となまえが割に深いショックを受けながらそのペンダントを眺めていると、沖矢はふいに自身のポケットを探る。
「そう言うと思って」
「?」
そして彼女に後ろを向かせ、今朝とは逆に黒くなったチェーンを外した。そして、隠し持っていた「別の」ペンダントを彼女の白い首にまわすと、再び繋ぎ止めるようにチェーンのフックをかける。その行為に、なまえはひどく混乱した。
「シルバーのアクセサリーが黒ずんでしまったのは、温泉ガスの硫化水素と銀が反応するからだそうです。プラチナやゴールドならたとえ温泉に入っても色も変わりません。まあ、この変色してしまったペンダントも表面だけの変化なので、クリーニングに出せばすぐ綺麗な色で帰って来ますよ」
「そうなんだ……って、いうか、これ、何!?」
「ああ、大したものじゃないですけど、僕が贈りたかったので。そのくらい控えめなものだったら、仕事中でも普段使いできるでしょう?」
今日の記念に、とつけられたそれを、なまえは気まずく指先で転がす。ハート型のタグのチャームに、小さな鍵がついた可愛らしいデザイン。うっすらとピンクがかったそれは見るからに高そうで、噛みつくみたいに沖矢に言葉を返す。
「も、もらえないよ……だって、私、昴くんに何も」
「いえ。僕はもう十分、もらってますから」
沖矢はなまえの髪を耳にかけるようにその頬に触れて、誰も見ていないことをいいことに額にキスをする。そして改めて、沖矢昴としても告白するのだ。
もっと、意識して欲しいから。
「好きです、なまえさん」
世界中の誰よりも。そう言うと、彼女の顔が赤く染まる。おそらくその理由は、温泉のせいではない。