63...


 帰りの車に乗り込むなり、なまえは早々、助手席で無防備に眠り込む。その横顔を、沖矢は信号待ちの度に飽きもせず眺めてしまうくらいには終始ご機嫌だった。自分が指定した緋色のワンピースに、最初は返すだの払うだの言っていたペンダントも結局は大人しくつけていて、まるで彼女を自分の色に染め上げていくような感覚に陥ってしまう。こんなに楽しいと思ったのは久しぶりだったし、きっと自分の思いが叶えばこの先ずっとこうして愛しい生活を彼女と続けていくことができるのだと思う。まあ、それには一刻も早く彼女が自分の申し出に頷く必要があるのだが、いくらでも、と考える時間を与えてしまった手前、今さら格好悪く催促することはできそうにない。

 いくら夏で昼間が長いとは言えど、辺りはすっかり夜になってしまっていた。街灯がぐんぐん過ぎていく窓ガラスに頭を預けて眠る、お姫様のような彼女。細い絹糸のような髪を撫でて気合を入れ直した沖矢は、名残惜しさを感じながらも引き続き工藤邸まで運転に集中する。


「おやすみ、なまえ」


 そう言った優しい声の主は沖矢ではなく、赤井秀一。すうすうと寝息を立てる彼女には聞こえていないだろうけれど、いつかは彼女と同じベッドで毎日「おやすみ」を言って眠る間柄になりたいものだと、彼は目を細めるのである。




「ごめん、昴くん!」
「いえいえ。よく寝ていらしたので」

 家に着くなりなまえから謝罪攻撃を受けていた沖矢は、本当に気にしていなかったので何度も笑いながら首を横に振っていた。ドライブデートというものは助手席の者が寝てしまうと途端につまらなくなる、という話をなまえは以前、ファッション誌のコラムか何かで読んだことがある。密室空間にふたりきりというのは、なかなか車以外に日常生活で陥ることがない状況。そんな状況であるからこそ、長時間の運転で疲れている運転手の気持ちを上げるために同乗者は会話で楽しませる必要があるのだ、と。

 そう心得ていたはずだったのに、揺れが心地よくてつい眠ってしまった。まるで赤ちゃんが車で寝るのと、まったく同じ理論で。


「それより、なまえさん。僕とのデートはどうでした? あなたのその口から感想が聞きたいです」
「えっ、感想?」
「なまえさんにとって、何か、いい収穫があればいいんですけどね」


 意味深にそう言う彼に、つい言葉を失くしてしまうなまえ。収穫、という意味はわざわざ聞かなくともわかる。告白の返事に加味する内容であったかどうかを、彼は気にしているのだ。デートの経験が乏しいなまえは失礼ながらもとっさに、比較対象として想起しやすい安室との違いを考えてみることにした。

 安室とのデートは全般的に緊張の色合いが強かった。それはおそらく自分が彼を好きだと強く意識しすぎていたからで、初恋を大切にしすぎていた節もあったのだろう。身内として一番近くで新一と蘭の背を見ていれば、当然、なまえは自分の初恋も叶うものだとばかり思い込んでいた。……けれど、それは結局、泡となって消えたのである。

 一方、沖矢とのデートは、言葉が悪いかもしれないが気持ち的にとても楽だった。緊張したり、無駄に背伸びをしたりして飾る必要がない。最近になって結局赤井とは四つほど年齢差があると判明したのだが、変装中の沖矢に関しては年下であるという錯覚のような思い込みが上手く働いているようである。そして、その楽さが、楽しさなのだ。

 比べてしまうことはいけないことだと思いながらも、なまえはそうした率直な意見を合わせて端的な感想を彼に述べることにする。


「今までで、一番、デートしたなって感じがした」


 それには思わずずっこけそうになる沖矢だったが、まあ、いいだろう。一応、意識していたということには変わりなさそうである。


「あ、そうそう。博士たちへのお土産は明日、昴くんから届けてくれる? 私は仕事帰りに蘭ちゃんのところに持っていくから」
「ええ、構いませんよ」


 そう言って、まとめ買いをしてきた「箱根まんじゅう」を机の上に置き、自宅用に買って来た小入りの箱を開けた。そういえば、今日はつまみ食いばかりで、あんまりちゃんとしたものを食べていないような気がする。こんな日もたまにはいいのかもしれないけれど。

 軽く温めると焼きたて感が味わえるのだと店の人に聞いたので、なまえはさっそく試してみることにした。沖矢のと自分のを、お皿の上にふたつ。ふんわりとラップをかけて電子レンジに入れる。すると沖矢もやってきて、ふたりしてレンジが止まるのを待つことになった。


「昴くん、お腹空いてない? 何か軽く作ろうか?」
「いえ。お気遣いありがとうございます。でも、なまえさんも疲れているでしょうし、今日はちらほら食べているせいかそんなにお腹も空いていないので」
「そう?」


 レンジが鳴るまでの間で、なまえはお茶を入れようとケトルに水を入れる。二杯分だからすぐに沸くだろうとそんなことを考えていると、その様子を見た沖矢がまるで阿吽の呼吸のようにカップを用意し始めるので、なまえは「あ」と急に気がついたように声を漏らした。


「どうかしましたか?」
「ううん。ただなんだか、今気づいたけど。昴くんと私って恋人っていうよりも、もはや家族みたいな感じなのかなって」


 今のそれとか。と、なまえは沖矢が持っていたカップを指差す。お互い一緒にいて楽だということも、恋人というよりは家族という感触の方が近い。緊張したりドキドキしたりすることは少ないが、お互いの思っていることが通じ合っていると確信できる居心地のいい関係。もちろんいい意味である。

 なのに沖矢は突然、悲痛そうな顔をした。その顔に驚く間もなく、なまえはガシャンと紅茶の缶を落としてしまう。

 いや、落としてしまったのは、彼がふいに抱きしめたからだ。


「僕は全然そんな風に思っていませんが」
「……」
「こんなにも、あなたに触れたくて堪らないというのに」


 そう言って、ぎゅっと腕の力を強くする彼。その胸に押し込められるように顔を埋めてしまったなまえは、彼の匂いがする厚い胸板にしばらく黙って抱かれていた。そして、今の自分の言動が、無神経だったと反省する。先日、自分に告白してきた人に対する言葉ではなかった。

 空気を読めない電子レンジが、場違いなほど軽快な音を立てて止まる。すると、それを合図に沖矢はなまえの肩を掴んで解放し、まるでおしおきとばかりに軽く頭突きをするみたいに額を合わせた後、うっすら笑う。


「なんてね」
「え」


 冗談か本気かわからないまま、彼は紅茶の缶を拾って中からティーバックを取り出し、カップにひとつずつ入れる。そしてレンジを開けて、温めた箱根まんじゅうを口に咥えたまま、ちょうど沸いたばかりのお湯を勢いよく注いだ。

 カップをひとつ、こちらに寄越して彼はようやく口を開く。


「では、また次回。今度は赤井秀一とデートしてみてください」


 なまえは目をぱちぱちと瞬かせ、カップ持って出て行こうとする彼を引き止める。


「で、でも。赤井さんは外に出られないんじゃ……?」


 そう言うと、彼は得意げに振り返った。


「ええ、でもベッドの中でならいくらでも」
「!?」
「じゃあ、おやすみ。僕の可愛い人」


 やられた。なまえはそう思いながら、部屋を出ていく彼を黙って見送る。笑ってはいるが、きっと怒らせてしまったのだ。恋人というより家族、なんて言ったから。

 でも、じゃあ。なまえは胸元を抑えながら、悔しさを紛らわせるように暖かいおまんじゅうをもそもそと口に運ぶ。

「今、ここがドキドキしてるのは、何なんだろう……」

 その答えは、やっぱりわからない。



case63. 将来は素敵な家とあと犬がいて


 翌日。しっかりと職場にもお土産を持っていくと、同僚の先生方からは「ついに工藤先生にも一緒に温泉に行くような男が!」と余計なことを詮索をされて無性に苛ついた。ついに、ってどういう意味だ。それに、温泉に行ったからといってどうしてそれが男と行ったということに繋がるというのか。東都監察医務院において最年少の自分がこんなことを言うのもなんだが、監察医としてもう少し論理的な思考と推察力を身につけて欲しいものである。


「……まあ、男と行ったんだけど」


 痛む頭を抱えながら更衣室でそう独り言を呟くと、退勤支度のためになまえはロッカーを開けた。

 小さな鏡の下に貼られているのは一枚の写真。文化祭の楽しい雰囲気を醸し出しているその写真に久しぶりに目が止まって、なまえは止めていたマグネットを外して手に取って眺める。

 実は、あれだけ仲がよかった諸伏と降谷と三人で撮った写真は、手元にたったこれ一枚しかない。彼らと音信不通になった六年前。なぜか諸伏から唐突に電話がかかってきて「自分たちとの写真はすべて捨ててくれ」と言われた。もちろん、そんなことできるわけがなかったので、そのときは冗談を言っているものだと笑って受け流しながら、何故そんなとこを言うのだろうと首を傾げるだけだったのだが、次の長期休暇で日本に帰国したときには冗談でも嘘でもなくアルバムごとすべて失くなっていたのである。どうやら何者かが家族の不在中に部屋に忍び込んでアルバムだけを抜き取って持ち去ったようなのだが、そんなおかしな窃盗犯がいるとは思えない。それに、なまえが帰国するまでそのことに気づかなかったのだから発覚も遅く、いつ、その犯行が行われたかのかもわからなくて被害届も出せなかった。

 その犯人は、きっと諸伏か降谷。しかし、証拠は何も残っていない。

 だから、唯一、この写真だけ気に入ってアメリカに持って行っていたので無事だった、というわけである。なまえは写真を抱きしめて、祈るように目を閉じた。


「ヒロ……、零……」


 会いたいよ、という呟きは、ほどけるように宙に消えた。

 きっと今頃、がむしゃらに仕事して。仲よくその愚痴をお酒を飲みながら話したりして。誰かと恋愛して。もうふたりとも自分の知らぬ間に結婚してしまったかもしれないなと思った。とびきり絵に描いたような幸せな家庭だといい。大きな家を建てて、可愛い奥さんと、子どもと、あと、犬が待っていて。休日は子どもにせがまれて遊園地に連れて行ってあげたりなんかして。観覧車で靴を脱いだ彼らの幼子が「パパ! 見て!」なんて言って、笑って、抱きしめて……ああ。自分は急に、何を考えているんだろう。

 そんな希望を胸に抱いて、なまえは再びマグネットにその写真を貼り直した。そして、疲れたように笑いながら呟く。


「もう待ってなくてもいいのかな。私」


 友達として、ずっと一緒にいることを許されないのなら。ふたりに黙って、誰かのものになっても、いい?

 そんなことを思った瞬間、ポケットに入れていた携帯電話がけたたましく鳴る。わわわ、と声をあげながらとっさに目頭を拭い、画面に目を落とせば登録していない番号からだった。固定電話のようだけど、と思いながら恐る恐る着信を取ってその耳に当てる。


「はい、工藤ですが」
「なまえ先生! 助けてください!」
「?」


 だ、誰? と思いながら再び電話番号を確認してみると、市外局番がうちと同じであることからなまえは相手を推理した。そして、その声色と雰囲気に、ピンとくる人物を弾き出す。


「あ、梓ちゃん?」
「はい! もしもお仕事終わっていらしたら、今からポアロに来てもらえませんか? 至急、ちょっと助けて欲しいことがありまして」
「ポ、ポアロに?」
「はい」


 喫茶ポアロ。その単語を聞くだけで嫌な予感がしてしまう。安室がアルバイトに復帰したという話は新一から連絡が来て知っていたし、悪いが、できれば彼が辞めるまでなるべく近づきたくない場所である。そうした不穏気味な様子がつい声に乗って出ると、ポアロの看板娘・榎本梓はすぐに取り繕うように言葉を続けた。


「はっ! ご心配の安室さんならいません! 今日はシフトお休みなので!」
「でも……」
「この前みたいに来ることは絶対ないですっ。マスターにも聞いて確認しましたから」
「そ、そう……」


 苦笑しながら相槌を打つなまえ。にしても、マスターに確認できるほどの時間があるなら「至急」という緊急性がいまいちないような気がするが、その点はどういうことなのだろうか。

 なまえはロッカーの中に入れていたお土産の「箱根まんじゅう」を一瞥する。偶然ではあるが、今日はこれから仕事の帰りに毛利探偵事務所に寄って蘭にそれを手渡そうと思っていたのだ。だから、その下階にある喫茶ポアロに寄ることは、大して苦にはならない。けれど。


「寄るのは別にいいけど、私は何を助ければいいの?」
「それは……来てからということで……」


 渋るなあ……。なまえはそう思いながらも、梓の頼みなら仕方がないと肩をすくめる。そして、安室がいないならここのところ足が遠のいているポアロのコーヒーも飲みたいし、と思い直して電話口で懇願を続ける彼女に告げた。


「わかった。じゃあ、これから行くね」


 ありがとうございます! という礼を聞いてから、なまえは電話を切った。そして、再び写真の中の親友ふたりの顔を指先でなぞってこう呟く。


「……早く連絡くれないと、私だってすっごく格好いい旦那さん捕まえて、すっごく素敵な家ですっごく大きな犬と、すっごく幸せに暮らしちゃうんだからね」


 さっきまで少し泣いていたはずなのに、そう言った途端、急に元気になってきた。ロッカーの上部に取りつけられた小さな鏡には、沖矢にもらったペンダントが首元で光っている。

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