64...
お土産を渡すために毛利探偵事務所に立ち寄った後、久しぶりに喫茶ポアロの店内に足を踏み入れたなまえは柄にもなく緊張していた。梓からは事前に安室はいないと聞いていたものの、以前のような不意打ちも十分ありうる。前回であればまだその気まずさも少なかったが、彼の正体を知ってしまった今ではそうもいかない。彼は弟の新一の体を小さくした憎むべき黒ずくめの組織の一員。自分が信じる正義とは真反対な存在であるバーボンであったのだから。
それに、そもそもなまえがポアロに呼び出された理由が未だ釈然としないままなのが引っかかる。悪いように捉えれば、安室が梓を使って上手く自分を呼び出し、何らかの話をしようという魂胆であることも可能性としてはないわけではない。
しかし、そんな警戒心は、梓の後ろにいた小柄な女性を見た瞬間に解けてしまった。面識はないが、到底、悪人には見えない。むしろ、人見知りで逆に警戒されているような感じすら受けたのでなまえは思わず首を傾げる。
「なまえさん! 突然呼び出してすみません!」
「ううん。それより、どうしたの?」
待ち構えていた梓にそう尋ねると、彼女が答えるよりも先に背後に隠れていた女性が一歩前に踊り出た。
「そのご説明は直接、私からしたいと思いまして」
「なまえさん、ご紹介します! 彼女は栗山緑さん。妃法律事務所で優秀な秘書として働いていらっしゃるんですよ」
「へえ、妃先生の! はじめまして、工藤なまえです。東都監察医務院で監察医をやっています」
「存じ上げております! 工藤先生の取り扱った事件はまだ取り扱ったことがないのですが、公判記録等で先生のお名前はよく見かけますので。にしても、こんなに素敵な方だったなんて! 私、感激です!」
そう言って、緑はなまえの手を握ると、言葉通り感極まったようにぶんぶんと手を振り回す。その様子が実に可愛らしいのでなまえはうっすら笑いながら、それで肝心の呼び出した理由について彼女に尋ねることにした。
「で。そんな優秀な秘書さんが、私に何か?」
「実は今度、妃先生が受け持っている裁判が終わり次第、ちょっと気が早いんですけど連勝記録更新の祝賀パーティをやることになっているんです。それで今日はポアロにケータリングの注文をしに来たんですけど、私も秘書として妃先生に何か作れたらと思って梓ちゃんに相談したところ、彼女が『なまえさんにレモンパイの作り方を教えてもらえばどうか』と言ってくれて」
「レモンって疲労回復効果があるって言いますし、以前、蘭さんから妃先生もお好きだと聞いた覚えがあったので一石二鳥かと思って!」
まあ、そのときからなまえさんに一度レモンパイの作り方を教えて欲しいなって思っていたんですけどね、とまるで種明かしするように笑う梓に、なまえは目を細める。なるほど、その裏にはポアロでのメニュー化にも余念がないと見た。
「でも、材料は」
「それならさっき買って来ました! お店はマスターにお願いして閉店時間を早めましたし、今日はもう男子禁制なので心置きなくお料理女子会ができますよ!」
「お料理……女子会……?」
あまりにそのパワーワードに圧倒されそうになるなまえであったが、正直、男子禁制というのはありがたい。安室の影に怯えながらここにいるのは何が何でも避けたいからである。
ふたりのお願いについては別段、断る理由がなかった。むしろ最後にレモンパイを作ったときから期間も空いているし、自分の腕を鈍らせないためにはちょうどいい機会でもある。なまえは手早く沖矢に遅くなるという連絡を入れて、エプロンはあるかと梓に尋ねた。了承の、返事代わりとして。
「じゃあ、やろっか!」
お料理女子会、と。なまえはわざと反復するようにそう言って笑う。彼女よりわずかばかり年若いふたりはそれに釣られるように「はい!」と、まるで師を慕う学生のように元気よく返事をしたのだった。
case64. お料理女子会・イン・ポアロ
なまえの得意料理とも言うべきレモンパイは、実はかなり工程数が多く、その下準備からしてかなり根気がいるお菓子作りのひとつである。レモンピール、レモンカード、そしてアーモンドクリームという三種の神器とも言うべきアイテムを作るところからまずは着手しなければならないからだ。しかし、その三つが上手く合わされば最高の美味しさ。好みの問題はあれど、これほど美味しい食べ物はないとなまえは自信を持って断言することができる。
まず、肝心なレモンは塩で擦るように綺麗に磨き、さっと湯がくところから始める。一般的に流通している外国産のレモンは防腐剤の使用量がかなり多いためであると説くと、梓と緑は熱心にメモを取って頷いていた。続いてレモンの皮を薄めに剥き、手慣れたように千切りにする。このとき、皮自体もそれなりに苦いが、白いところは特に苦味や雑味の原因になるので、なるべく薄めに。それから三回ほど湯を変えながら千切りにしたレモンの皮を茹でこぼし、丁寧に苦味を取り除いてゆく。紅茶を入れて一緒に煮ると色づきがよくなるのでおすすめであるが、面倒であればこの手間は省いてもらって構わない、と言いながら、なまえは梓の許可を得て実際にポアロで提供しているティーバックをひとつ拝借して鍋に入れた。最後に、今度は砂糖と絞ったレモン汁一緒にして、焦げないように煮詰めればレモンピールの完成。続いてレモンカードの作業に取り掛かる。
レモンカードとは、イギリス生まれのスプレッドのこと。ジャムと決定的に違う点は、砂糖と果実というシンプルな材料に加えてバターと卵を入れるところだろう。故に、味が濃厚になって美味しいので、レモンパイを作るときはわざと多めに作り置きしてパンに塗ったりもする。ユルリックマのシールのためにパン食に付き合ってくれた沖矢も、以前、そうして食べるのが好きだと言っていた。
作り方もジャムに似ているが、あらかじめすべての材料を均一に混ぜておくことがなめらかさの秘訣。それができたら、直火ではなく湯せんにかけてとろみが出るまでよく混ぜると出来上がり。
最後に取り掛かるのはアーモンドクリーム。これは非常に簡単で、室温に戻しておいたバターに、砂糖と溶き卵、アーモンドプードルを加えてよく混ぜれば完成。
いよいよその三つが揃ったところで、なまえは梓が事前に買っておいてくれた冷凍のパイシートを取り出した。時間があれば、バターを織り込んで一から生地を手作りしてもいいが、今日は短縮バージョン。型に合うよう引き伸ばしてフォークで数カ所穴を開けたら、アーモンドクリームを塗り、レモンカード、レモンピールの順に入れ、その上から再びパイ生地を重ねる。細長く切った生地を編み込んで乗せ、溶き卵を塗れば、あとはオーブンにおまかせ。その手際はやはり相当慣れたもので、いくら工程数が多いとはいえど、まるで本物の料理教室のような雰囲気さえ醸し出していた。
「これだけ料理上手なら、なまえさんの恋人はさぞ幸せ者でしょうね!」
オーブンで焼けるのを待っている間、会話に上る話題はやはり女子らしく恋愛の話。緑が「それに比べ私の女子力は……」とつぶやきながら落ち込んでいるのを見ると、なまえはとっさに大きく首を振る。
「待って。私、恋人なんていないよ」
「でも、確か同棲していらっしゃるって……?」
「蘭さんやそのお友達がポアロでよくお話ししていますよ? 大学院生の彼のこと」
「……」
なまえはそれを聞いて言葉を失くした。いや、わかりきっていたことではあった。自分と沖矢の仲が、そういう間柄であると思われていることは。
しかし、梓は気まずそうに少し間を置いて「でも」と呟く。その様子を不審に思ったなまえが何か言いたげなその表情をまじまじと見つめていると、彼女は苦そうに笑った。
「いえ。ちょっと、安室さんのことで。なまえさんには聞き流してもらえればいいんですけど」
そう前置きをしてから言ったのは、予想通り、最近の安室に関しての話。
「私はその大学院生さんのことを知らないのでよくわからないですけど、安室さんのことなら少しだけ知ってます。彼がなまえさんのこと、好きとか嫌いとか、そういうことを全部度外視しても真剣に想っているんだなっていうことは……なんだか、こっちが見ていてハラハラしちゃうくらいよくわかるんです」
「え……?」
「だから、もしなまえさんがその大学院生さんとちゃんとお付き合いしたとしても、安室さんのことは嫌わないであげて欲しいなって」
「!」
なんて、私が言うことじゃないですよね。と、梓は再び苦笑した。その脳裏には、日々のポアロで見る彼の様子が思い浮かんでしまうのである。蘭や園子がなまえの話をしていれば、気づかれないようにそちらを気にしているような素ぶりであるし、彼からニュースで連日話題になっていたベルツリー急行に乗ったという話を聞いたときには「なまえさんもいたので」と真っ先にそう言われた。それ以外のことを踏まえて考えてみても、安室がなまえのことを好きなのは誰の目から見ても明白であるはずなのに、なぜか彼はその想いを、本人には頑なに口にしない主義を貫き通しているらしいということがわかる。このままではいつの間にか盗られてしまうのでは、と思っていた矢先、なまえが大学院生と付き合っているという話が出てきて、つい人のことなのにまずいと慌てたのだ。
だから、本当になまえのことが好きなのか、と最近、タイムリーにも梓は彼に尋ねたのである。
すると、彼の答えはこういうものだった。
『梓さんは僕なんかよりもずっと名探偵ですね』
その話を聞いて、なまえは言葉を失っていた。そして、椅子に深く腰掛けて俯き、長い睫毛を伏せる。責めるように思うのは、やっぱりあのとき言って欲しかった、ということ。絡めた指を受け入れるように、甘い言葉を囁いて欲しかった。そうすればきっと、地獄の果てまで一緒に落ちた、かもしれない。
よく事情を理解していない緑が空気に耐えかねるように「いい匂いがしてきましたね」と口にした。確かに店中に甘くて幸せになる匂いが充満し始めていて、なまえも気を持ち直したようにオーブンの中を覗き込みに行く。なんとか上手く焼けていることに安堵しているうちに、軽快なタイマー音が鳴った。
緑が焼き上がったレモンパイを取り出すと、梓は手慣れたように戸棚からケーキ皿を出した。いよいよ女子会の醍醐味。お楽しみの試食会である。大きさを均等に切ることが不得手ななまえが代表してパイを切れば、ぱりぱりとその破片が散ってその音すらも美味しい。
上手に切り分けられたものから先に三つを選んで皿に乗せ、三人同時に口を開けば、自ずと感想も揃った。
「ん、美味しい!」
「これなら妃先生もお気に召してくれそうです!」
「よかった」
後は、梓と緑がそれぞれに顔を見合わせて仲よさそうに感想を述べていた。なまえはその様子に再び安堵し、これで自分の役目が終わったことを悟ると、長居は無用とばかりにさっそく帰り仕度をし始める。借りたエプロンを適当に畳んでいれば、気を効かせた梓がケーキ用の持ち帰り箱を取り出して何気なく尋ねた。
「せっかくなので、残った分は大学院生さんに持って帰られますよね?」
しかし、その問いかけにはなまえは首を振って返した。沖矢にはまた作ればいい。そんな風に思って。
「いえ、それは安室さんに」
「え?」
「『大きさ、まちまちですみません』って伝えておいてください」
そう言ってなまえはバイクのヘルメットを持ち、ポアロを後にした。大皿の上には、不恰好にも大小並ぶレモンパイが残る。