65...
清々しいほど快晴の朝。普段通りポアロに出勤した安室は、まるでこちらが自分の本業であるかのように慣れた手つきで開店準備を進めた。まずは看板を出し、鍵を開け、観葉植物すべて丁寧に霧吹きで水をやる。店内の湿度は、人が快適だと感じる五十から六十パーセント内を常に維持。温度は老若男女訪れる喫茶の特性もあって、暑すぎず冷えすぎない二十六度に設定しておく。今日は気温の高い一日になりそうだったので、アイス用の水出しコーヒーは多めに用意しておこうと思いながらバックヤードに置いていた自分のエプロンに手を伸ばしたとき、いつもの畳み方と少し違っているような、そんなわずかばかりの違和感を覚えた。
そういえば昨日、安室はシフトが休みであったためにポアロには来なかったのだが、夕方ごろ梓からメールで「今日はこれから男子禁制なので絶対に来ないでくださいね」とまるで念を押すかのように言われていたことを思い出す。そのとき自分はちょうど本庁にいて、降谷零として忙しく溜まっていた書類整理の仕事をしていたのもあり別段行くつもりもなかったのだが、どうして? と探り屋の性からその理由を尋ねると「お料理女子会なので!」と意味のわからない答えが返ってきたので、それ以上、詮索するのはやめていた。おそらく、何かと仲よくしている妃法律事務所の秘書・栗山緑と一緒にここで料理を作っていたのだと察する。エプロンはそのとき、彼女にでも貸したのだろう。
思い返せば、今日、ポアロに来たとき、ドアを開けた瞬間から何やら甘い匂いがこもっているように思われた。どこかで嗅いだことがあるような、とても懐かしくて好きな匂い。安室は何気なく、ふたりが何を作っていたのか気になって、持ち前の推理力からそれを探ろうとする。
まず確認するのは冷蔵庫。梓と緑が、残ったものや余剰の材料を保存している可能性が高いと思ったからだ。
そして、その予感は見事に一発で的中した。しかし、冷蔵庫の中で鎮座していたその皿を見つめた瞬間、息が止まりそうになる。
「レモン、パイ……?」
「あ。それ、昨日、なまえさんに教えてもらったんですよ!」
突然、背後からそう声をかけられ、振り向けば今しがたやってきたばかりらしい梓がにこにこしながら立っていた。おはようございます、と元気よくされた挨拶も、その事実を聞いては上手く返すこともままならない。
なまえが、ここに。その事実だけで、安室は胸が押しつぶされるくらい苦しくなる自分がいた。なるべく顔を合わせないようにしているのはきっと彼女も自分も同じ。けれど、本音を言えば心の底から会いたいと願っている相手でもある。
そんな彼女がここに来ていた。そして、おそらくこのエプロンは、そのときに彼女が身につけていたものだろうと持ち前の洞察力からそんな風に察するだけで、まるで初心な子どものように安室は平静さを失ってしまいそうになる。苦しい。会いたい。でも、会えない。馬鹿みたいな切なさだ。通称ゼロに所属する自分が、聞いて呆れる。
「一緒に住んでいらっしゃる大学院生さんに持って帰られますか? って聞いたんですけど、安室さんにって言われたんです。よかったら開店前に食べちゃいませんか」
「え、ええ……」
「確かあと二切れだったので、私と安室さんのでちょうどひとつずつですね!」
本当は自分が食べたいだけという思いをひた隠しにしながら、梓はくるりとカウンターの方に回り、安室を差し置いて冷蔵庫の中に保存していたレモンパイを取り出した。そして覆っていたラップを外し、食器かごに入っていた昨日のケーキ皿に乗せようとした瞬間、何かを思い出したように「あっ」と短い声を漏らす。
「そういえば、なまえさんから安室さんに伝言を頼まれていたんでした」
「え……」
「『大きさ、まちまちですみません』って。あんなに手際よく作れるのに、こういうの切り分けるのはすっごく下手なんですって、なまえさん。私より年上なんですけど、そういうところがすごく可愛い人ですよね」
安室はその一言に、射抜かれてしまったかのように動きが止まった。高校時代、一時期は自分たちの……いや、おそらく好きだった諸伏のためにしょっちゅう作って来てくれていた彼女の得意料理であるレモンパイ。あのときの自分はいくら親友だからといって他の男のためを思って作っているというその事実自体が気に食わなくて、つい「いらない」なんてうそぶいて彼女を傷つけてしまい、再び作ってくれるようになったのは高校の卒業式後という随分な時間を要してしまった覚えがある。それ以降は、彼女がアメリカに行ってしまったせいであまり頻繁に食べることはできなくなったが、会うときは必ずと言っていいほど作ってきて、大きさを選ぶために三人でいつもじゃんけんをするのが恒例になっていた。
じゃんけんをするのは、梓の言う通り、あんなに上手に作れるくせになまえの切り分けがいつまでも下手だから。というのは、おそらく建前。いや、確かにそうした理由もあるのだが、きっと何でもそつなくこなせる彼女の場合、最初以降、本当はそうでもなかったのだと推察できる。
孤児院育ちでずっと友達がいなかったという彼女は、わざわざ自分たちとじゃんけんがしたくて、わざと大きさに大小が出るように切り分け、やがてそれが癖になったのではないかというのが諸伏と自分の見解だった。
「……さん、安室さん?」
レモンパイひとつで、あまりに懐かしいことを思い出してしまっていた安室はしばらくその呼びかけに気づかなかった。そんな彼を見て、梓は先輩として仕方ないなとうっすら笑う。
「大きい方と、小さい方、どっちにしますか? ……って、本当は聞かなくてもなんとなくわかっちゃうんですけどね」
彼女はそう言うと、返事を聞く前に見透かして大きいピースが乗った方の皿を安室に差し出し、気を利かせてコーヒーを淹れに行ってしまった。安室はその皿に乗ったレモンパイを眺めて、再び、愛しい日々だった「ふるさと」を回顧する。
思い出すのは、高校の卒業式の日。再び、なまえにレモンパイを作ってくれと、柄にもなくせがんだあの日のことだ。
case65. 明日から僕らは何者になるんだろう
「卒業証書、授与。卒業生代表、降谷零」
「はい」
その日はひときわ寒い日で、三月も近いというのに、灰色をした曇天の空からはぼたぼたと雪が降っていた。積雪による公共交通機関の遅延が相次いでいて、卒業生の中でも数名が来られないという異例を作ってしまった珍しい年。空席がちらほらと目立つ座席の中で、明瞭な返事とともに直立した黄金の髪の少年は、その場に出席した誰しもが神々しく息を飲むほど目立っていた。
颯爽と壇上へと向かう降谷を、会場にいる全員が釘づけになるように見つめていた。しかし、親友である諸伏だけは降谷と目が合うと調子よく親指なんか立ててきたりして、ちょっと、笑いそうになる。成績優秀者で、かつ委員会活動などを通して学校に貢献力の高い降谷が卒業生総代となるのはある意味では当然で、決まった当初から、誰ひとりとして文句をつける者などいなかった。
在校生たちは男女問わずひそひそと、降谷先輩かっこいい、なんて騒めくほどで、その注目度の高さが容姿だけに止まっていないことを物語っている。しかし、降谷が意識しているのは二年前からこの世でたったひとりだけ。視線だけ送った彼女の席は、残念ながら空だった。
工藤なまえは卒業式に来なかった。いや、正確に言えば来れなくなったのだ。アメリカからの帰国便がこの雪で欠航になって、今頃はシカゴの国際空港で缶詰になっていることだろう。メリーランド州にある世界屈指といってもいいほどの名門医療大学を受験し合格が内定していた彼女は、向こうで住む家の手続きや生活の基盤調整、それに四月から秋季入学の時期まで短期で通う語学スクールなどの申し込みのために、先週から両親と渡米していた。
一昨日の夜、国際電話で話をした時点で既に日本の天気が荒れる見込みだというニュースは報じられており、帰れないかもしれないということだったのだが、能天気にも彼女は電話口で降谷にこう言ったのである。
『でも、零が代表してみんなの卒業証書もらってくれるんでしょ? だったら私の分もよろしくね』
ったく、人の気も知らないで。降谷はそんな彼女を思い出した途端、苦い顔になる。
当たり前のことだが、卒業したらもう明日からこの学校に登校する必要はない。諸伏とは同じ大学に進学が決まっているので春休み期間はその準備をしたり入学前課題とやらに取り組んだりする予定ではあるが、アメリカに行ってしまうなまえはもうそこにいないのである。つまり、彼女と恋人でも何でもないただの友人関係である自分にとって、この卒業式という行事自体が、もはや彼女に会う口実がなくなってしまうのだという意味を示す儀式のような気がして。降谷はまるで子どものように嫌な気持ちに浸ってしまうのだ。
その関係を脱却し、個人的に会う口実を作るためには今すぐにでも焦がれるようなこの想いを告白して恋人になるしかない。そんなこと、わかっている。でも、もし断られたりしたら。それこそもう二度と会えないんじゃないかと思うから。
「卒業証書。降谷零くん。あなたは本学所定の全過程を修了したことを……」
校長が読み上げるそれを、降谷は拝聴するふりをして軽く頭を下げながら考えていた。今だけは誰にも顔を見られていない。そんな風に思った彼は、目を閉じて強く彼女を想う。
明日から、自分たちはどんな関係になっていくんだろう。諸伏となまえと三人で一緒に高校生としていられる時間が、このままずっと続けばいいのに。そんなありえもしないことを願ってしまう自分は、きちんとした理想の大人になれるのだろうか。
彼女のことを、一生をかけて守れるような。
「おめでとう」
その言葉を合図に目を開けて、練習通り校長から卒業証書を受け取って一礼した。そしてくるりと踵を返し、一瞬だけ、見えもしない空を仰ぐ。
言われた通りお前の分までもらってやったぞ、なまえ。だから早くその顔を僕に見せてくれないか。明日からも、自分たちは何も変わらないって。そう言ってお前が笑ってくれたら、これから先、どれだけ離れていたって生きていけるような気がするから。
再び見つめた空席に、降谷は彼女の幻影を見た。諸伏と違って隠れるように、誰にもわからないくらい控えめに親指を立てている。そんな幻影を。