66...
卒業式が終わった後、通例であれば校庭に集まるはずの卒業生たちが、雪で外に出られない代わりに校舎内に留まって、それぞれ思い思いの時間を賑やかに過ごしている。泣いている者、笑っている者、そして、これからの進路について期待に胸を膨らませている者。その反応はみんなさまざまで、総代として最後の最後まで教諭に呼び出されていた降谷にはその光景が羨ましく見えた。
そんな折。人気のない昇降口にて、男女ふたりが恥ずかしそうに話をしている影なんかも見かけて。立ち聞きするつもりもないのに、つい、足を止めてしまう。その様子じゃ、どう考えても話の内容はお察しだろう。
「お、俺と、付き合ってください……!」
「……えっと、あの、は、い。私でよければ」
ほら、な。降谷は面識もない彼らの恋を意図せず見届けて、甘ったるい空気から逃げるよう足早に立ち去った。今後の彼らに幸多きことを祈るより他にないが、人のことよりまずは自分のことを気にした方がいいなと自嘲が漏れる。
ただ、思うのは。もしもこの場になまえがいたとして、自分も彼のように勇気を持って告白することができるだろうかということ。
しかし、その自問に降谷は大袈裟なほど首を振ってかき消した。ありもしないことを考えるのはやめよう。現に、なまえはいないのだから。そう思い、降谷は彼女が来られなくなった原因であるぼた雪を窓から忌々しく睨みつける。
「……まるで僕だけが卒業できてないみたいだ」
そうひとりごちた声はあいにく誰にも届かない。
case66. 断金の交わり
「降谷総代ッ、お勤めご苦労様でした!」
ようやく教室のある階に着くなり、待ち構えていたかのようにそう言ってビシッと敬礼されるものだから、降谷は呆れるようにそいつに笑いかける。いつもながらその能天気ぶりは、こちらの毒気さえ簡単に抜いてしまうほどだった。
その人物とはもちろん、諸伏景光。腐れ縁とも言うべき彼の大切な幼馴染である。
お勤めと言われると、それじゃあまるで自分たちが目指している警察官というよりは、真反対な存在であるヤクザとその子分だし。しかも総代ということは刑務所を出たばかりの組長か僕は、とつい律儀に突っ込んでしまう自分がいて、高校最後の日のはずなのに、ふたりは相変わらずの平常運転。そしてその縁は、同じく今後の進学先でも続いていくのである。
「大学に行ってもヒロが一緒だと思うと、僕は嬉しくてつい涙が出そうだよ」
「あ、言ったな? 絶対思ってないな?」
「思ってる思ってる」
「まあ。大学どころかこのままだと職業まで同じになりそうだし、もしかして死ぬときまで一緒だったりして」
「そこまでいくともはや運命だけど。頼むから、ヘマして僕より先に死ぬなよ」
「ゼロの方こそ。で、あとはその運命になまえがいたら完璧なんだけどな!」
急に諸伏の口から「なまえ」の名が出て、降谷は思わず言葉に詰まった。まさか、自分たちが出会った高校生活最後の日に、結局、彼女に会えないままなんて。そう思うと、余計に明日からの自分たちの関係があやふやになってしまうような気がして、柄にもなく滅入りそうになる。これはもう、自分と彼女が運命の人である以外に繋がりを持つ方法がないようにも思えるが、その赤い糸の先が繋がっているのはきっと自分じゃなくて目の前で屈託なく笑うこの男の方。謝罪はとっくに済んでいるはずなのに未だに作ってこないところを見ると、自分が植えつけた二年前のレモンパイ事件のトラウマから彼女は抜け出せていないようだし、それ以外の理由をいろいろ鑑みても、自分は諸伏ほど好かれているわけじゃない。
一方、その当人である諸伏は親友が発する負の空気をいち早く察知して、沈黙したまま微動だにしない彼の横顔を注意深く覗き込んでいた。この顔は絶対になまえのことで悩んでいる顔だ。長く一緒にいるせいで、聞かなくても手に取るようにそれがわかる。
彼女が卒業式に来れないことがきっと寂しいのだろう。そう合点するや否や、諸伏は元気づけるように薄く笑った。
「ほら、そんな暗い顔してないでさ。気を取り直して写真でも撮ろう! 場所どこがいいかな」
そう言って、どこからともなく一眼レフカメラを取り出してきた諸伏は少し首を傾げるように親友に伺いを立てた。すると降谷は面食らって、それ、どうしたんだと尋ねる。趣味や思考は完全に知り尽くしていると思っていたがカメラに興味があったとは知らなかった、と。しかし、そんな降谷の言葉を相棒である彼は柔く否定するように「兄さんのだよ」と補足する。そこでようやく、降谷はその背後から近づいてくるすらりと背の高いスーツ姿の好青年の存在に気がついた。
「この度は、卒業おめでとう。景光が世話になったね」
前に会ったのは確か私が東都大に入学した年だったから、約五年ぶりかな。と、口髭の彼がそう言うと、諸伏の後頭部を無理に押さえて下げさせる。やめてよ、兄さん。なんて言っているが、その本人はとても嬉しそうに見えて、彼のことを兄として慕っていることは目にも明らかだった。
彼の名は諸伏高明。東都大学法学部を首席卒業したのち、ノンキャリアで長野県警に入るという異色の経歴の持ち主で、降谷の幼馴染である景光の実の兄である。幼いときに両親が他界したため、親戚の家にそれぞれ別に引き取られているという事情は聞いて知っていたが、警察官になった彼に降谷が会うのはこれが初めてだった。
「そのカメラは私の私物で、実際の鑑識現場で使われているものと同じ型番の一眼レフカメラ。証拠として残す観点からデータの改ざんや書き換えができない仕様になっていますが、卒業式というイベントなら十分、役に立つことでしょう」
「これなら思い出も改ざんできないってことだな!」
「……」
「せっかくですから写真は私が撮りましょう。景光、それをこちらに」
そう言って高明はカメラに手を伸ばす。だが、その行為にはずっと押し黙っていた降谷が鋭く口を挟んだ。
「いや、写真はいいよ。そんな気分じゃないし」
「え、でも……?」
「なまえも、いないし」
つい口を出てしまいそうになった格好悪い言葉を、降谷はどうにか咀嚼して飲み込んでいく。けれど、内心ではこう思っていた。
なまえがいない卒業式の写真なんて撮ったら、まるで、最初からあいつがここにいなかったみたいだ。だったら写真なんて記録に残るもの、最初から撮らない方がいい。思い出の改ざんもできないカメラと知っていたんじゃ余計に切なくなるだけだから、と。
「なまえ、とは。景光が前から言っている工藤なまえくんのことですか?」
高明がそう尋ねると、降谷が答える前に景光がそれに応じるように頷いて彼女についての補足説明をした。
「ああ。でも、今はアメリカにいて、今日はこの雪で飛行機が飛ばないから来られなくなったみたいだけど。……にしても、兄さんが卒業式に来るならなまえにも会わせてあげたかったよ! あいつ『二年A組の孔明くん!』のファンだから」
「そういえば、そんなこと言ってたな」
「ほう。それは初耳ですが、彼女のことならよく聞いていますよ。すごく愛らしい女の子だということも」
愛らしい。その言葉が妙に大人っぽくて降谷は思わず高明に視線を移す。すると、一瞬、彼が目を細めて、視線を合わせたままからかうようにこんな言葉を続けるのだ。
「それから。君が相当、熱を上げている子だということもね」
「!?」
まるで本物の軍師のように切れ味鋭い指摘をされて、降谷は途端に赤面した。そしてすぐに、その話の出どころである幼馴染の方をじろりと睨みつける。その恐ろしい形相に景光は苦笑いしか出ず、高明との電話の度にほとんど洗いざらい話してしまっているうしろめたさでいっぱいだった。
しかし、それよりももっと驚いたことが起こったのはそれからすぐあとのこと。彼らが話をしているその背後から、突然、あまりに的外れな話をふっかけられたのである。
「え? 熱を上げているって。零、熱あるの?」
そこにいたのは、先ほどまで散々話題に上っていたはずの工藤なまえ。彼女は心底、心配そうな顔で降谷のことを見ており、その手には卒業生の証でもある証書の入った丸筒が既に握られていた。
「なまえ!?」
「本当に、なまえだよな!?」
「うん。ただいま、ふたりとも」
そう言って、天真爛漫に手を振る彼女。まさかここにいるとは夢にも思わず、降谷と諸伏は驚きと嬉しさをない交ぜにして駆け寄るように近づいた。特に降谷の方はその表情にいつもの怒りを含ませており、あまりの威圧感でなまえは一歩、後ろに下がる。どうしてここにいるんだ、と。まるで食ってかかりそうな勢いが目に見えるようであったからだ。
「なんで。飛行機、飛ばないんじゃなかったのか!?」
「父さんが大事な卒業式だからって便を変えてくれて、荒天になる前には日本に帰って来てたの。結局、遅刻しちゃったけど、それはこの雪とバスのせい」
「まさか……」
「バス、間違っちゃって……」
照れ臭そうに笑う彼女に、呆れてしまうふたり。そう言われて自然と思い出すのは、高二の春の終わりのあの日のこと。ゴールデンウイーク真っ只中になまえの弟である「新一くん」に三人で誕生日プレゼントを選びに出かけたときも、確か彼女は盛大にバスを間違えていた。大方、連絡せずに帰って来たのは親友のふたりをびっくりさせようとしたからなのだろうが、結局はそれも叶わず仕舞いだったらしい。
「それより。はじめましてですよね、ヒロのお兄さん! 私、工藤なまえです」
「如何にも。姓は諸伏、名は高明。あだなは名前の音読みでコウメイ。以後、お見知りおきを」
「コウメイ! 私、小橋葵先生の『二年A組の孔明くん!』のファンなんです。血気盛んな隣のクラスの男の子と対決するところが特に」
「その人物にも、もちろん私同様にモデルがいますよ。長野県警にね」
「わあ! ぜひ一度お会いしてみたいです!」
そう言って、きらきらと顔を輝かせるなまえ。そして、そんな彼女とは可笑しいくらい対照的に、せっかくの再会をまるで自分だけが待っていたかのようで面白くない様子の降谷零。どうやらその思いが露骨に顔に出ていたらしく、高明は再び降谷と目を合わせてにこりと笑うと、余裕でかわすように弟からカメラを奪う。
「役者も揃ったことですし、改めて写真を撮りましょう。場所はどこがいいですか?」
「廊下ってのも味気ないし教室は……私たち、三年間で一度も揃って同じクラスになったことないもんね……」
なまえはそう言って、写真を撮るにふさわしい場所を考えている素ぶりを見せたが、その問いに関しての答えはひとつ。同級生のふたりはもう既に悪戯っぽい顔を見合わせて笑っている。
「だったらあそこしかないよな!」
「え?」
「ああ、あそこだな」
「えええ?」
ちょっと? おーい? と声をかけても、一切聞く耳を持たれない。なまえはその場所にピンと来ることがなく、目的の場所へと向かってそそくさと歩き始めた彼らの後ろをただついていくしかできなかった。まるで情けなくなるくらい、泣きそうな声とともに。
そんな三人の様子が、高明にはとても眩しく見えて。そして、ふっと笑いながら彼らの背中に向かって一度、シャッターを押す。
風に揺れるなまえの髪。そこから覗かせる困ったような横顔と、両脇からそれを愛しそうに眺める降谷と景光。弟の話からでしか聞いたことのない三人の距離感がこの一枚にすべて集約され「我ながらいい写真だ」と高明は撮ったばかりの写真を嬉しそうに眺める。そして、改めて弟を呼び止めた。
「景光、すまない。自分から申し出ておいて悪いが、やはり私は表で待っていることにしよう」
「え、兄さん……?」
「これ以上、断金の交わりを持つ君たちの輪に部外者が入っていくのは野暮。それに、今、向かっているその部屋は授業で使用するために階段状になった教室。その段差を利用すれば事前に教えたタイマーの設定方法でいくらでもいい写真が撮れるでしょうから」
「!」
「では、また」
そう言ってカメラを再び弟に託し、踵を返す高明。なまえはぼうっとその後ろ姿を眺めながら、さすがは孔明くん、と憧憬混じりに思っていた。この学校や自分たちの関係を深くは知らないはずなのに、目的地がどこなのかなまえにもわかるくらい鮮やかに推理してしまったからである。まるで、本の中の「孔明くん」のように。
それに、彼が今言っていた「断金の交わり」とは孔明くんらしい三国志からの言葉の引用。きわめて堅い友情で結ばれていることを指すもので、まさに自分たちの仲を表すのにはぴったりのフレーズである。
「ヒロのお兄さん、格好いいね」
「だろ! 自慢の兄さんなんだ!」
「思ってたより、孔明くんのままだった」
「だよな!」
「……」
降谷はその様子を見て、再び顔をしかめていた。にしても、景光しかり高明しかり。彼女はそんなに諸伏家の人間がタイプなのだろうか。なんて。人知れず、そんな馬鹿馬鹿しいことを彼女の横顔に思うのだった。