67...
音楽室と書かれた教室は教諭の閉め忘れか、それとも卒業生用にわざとなのかはわからないが鍵が解放されており、三人はそこに入ってくるくると辺りを見渡した。進路のことがあって三年になってからはあまりこの部屋に立ち寄ることもなくなっていたのだが、雰囲気は何ひとつ変わっていない。教卓の傍に設置されているグランドピアノも、夏場は涼しい風が入り込む窓も、先ほど高明が指摘したように生徒が合唱で並ぶ用途を見越して階段状になった教室の作りも。何もかも。
二年前の初夏、三人はまるで運命に導かれるようにここで出会った。そして、降谷と諸伏はその日のうちに彼女の笑顔に恋をしたのだった。時間が経って、互いにその恋心は変容しながらも、なまえを大切に想う気持ちは今も変わらない。それはおそらく未来永劫、自分たちの命が尽きるまで変わらないのだと思う。
鎮座するグランドピアノの傍で、さっそく三人は写真を撮ることにした。まずは降谷となまえがふたりだけで並び、段差的に何段目がちょうどいい位置なのか諸伏がファインダー越しに覗いてチェックしていく。息遣いひとつで肩が触れ合うほどの距離にいるなまえを降谷は見下げ、いつも通り何とも思っていないらしい彼女の様子をじろりと睨むように見つめていた。これじゃあやっぱり自分だけが意識していることを思い知らされるようだ。そんな悔しさを隠すために、一歩、彼女との間に空白を開けても、すかさず諸伏がその距離を詰めるように注意してくるので思わず舌打ちが出そうになる。その距離を詰めるのは、もちろん無垢ななまえの方だ。
「おっ、ここがちょうどいいっぽいな」
ようやくベストポジションを見つけたらしい諸伏はそう言いながら、椅子を三脚代わりに組み合わせて兄から借りたカメラを慎重に設置していく。降谷はお返しとばかりに、悠長に準備をする彼に対して急かすような声を上げた。
「ヒロ、早くしろよ」
「わかってるよ。せっかちだなあ」
「ゆっくりでいいよ、ヒロ」
「はい。なまえは今日も天使、っと」
そんな短いやり取りで笑うのが彼らの日常。そして、その姿をしっかりと残しておかなくてはならないと改めて全員が思う。明日からは当分、こんな眩しい日は来ないのだから。
「じゃあ、行くぞ。オレはなまえの右隣に行くから」
「わかった」
「タイマーは十秒にセットして……一応、連写にしておくか!」
独り言のようにそう言った諸伏が仕切り直しのように「行きまーす!」と声を上げると、いよいよその指でシャッターボタンが押される。すると、カメラのフラッシュの傍についた赤いライトがゆっくりと点滅し、ピ、ピ、とタイマー特有の電子音が機械的に鳴り始めた。その間隔がだんだんと早くなり、最終的にシャッターが押されるという仕組みであるらしく、降谷となまえは照れたような表情を作って諸伏がこちらに来るのを待つ。当然、彼は急いで段差を駆け下り、宣言通りなまえの隣へと急いだ。が。
「うわっ!」
「えっ!」
「おいっ!」
運悪く最前列の椅子に足を引っ掛けた諸伏の体が、文字通り、宙に飛ぶ。そして、それを支えるためにとっさにふたりとも前に飛び出した。ピーッ、というけたたましい合図の後、無慈悲にも押されるシャッター。それも連写に設定されていたために連続で十数回。カシャカシャと忙しなく鳴り続ける音が、防音の施された音楽室に繰り返し響いていく。
あれほど鳴っていたはずの賑やかな音が一斉に止み、一気に静まり返った教室内で、降谷となまえは未だバクバクとしている胸を撫で下ろす。派手に転んだものの、諸伏が無傷だったのはふたりの手がちょうど重なって、上手く彼の支えになっていたおかげだった。
長い沈黙の後、状況をようやく飲み込めた三人は誰からともなく吹き出してしまう。
「…………プッ、あはは!」
「くっ、ふふふ」
「あははは!」
なんだかその一連の出来事が今の彼らには無性に面白かった。こうして、最後の最後までなんとも三人らしい、見切れもブレも甚だしい写真が出来上がってしまったのである。
撮ったばかりの写真を見返して、げらげらと笑う声はしばらく止まない。結局、撮り直しをすることもなく、ブレブレで何を撮っているのかわからない連続写真を残しておこうという話になってその場は収まってしまう。データの改ざんができないからこそ、こんな世紀の瞬間を残しておきたいと思えたのだった。
「ヒロ。あとで写真のデータ、全部送ってね」
「もちろん!」
「私、こう見えて三人で撮った写真は全部、アルバムに入れて残してるんだよ」
今度よかったら見に来て。寝る前に見返したいから、いつもベッド傍にしまってあるんだ。と、なまえがドヤ顔でそんなことを言うのが、ふたりには嬉しかった。長く友人を持たない生活を続けていたせいで、両親にでさえその存在をどう伝えればよいかわからなかったなまえは、隠すようにそこにしまい込んで大事にしていたのである。まるで、友情と思い出を独り占めするかのように。
余談だが、なまえが隠していたのは写真だけではない。勿体ぶって、彼らの名前さえ教えない娘に見かねた優作と有希子は、いつのまにか降谷のことをAくん、諸伏のことをBくんとアルファベットで呼ぶ癖がついていた。最近では弟の新一でさえそう呼んでいるようで、工藤家にはすっかり定着しているあだななのである。
「あ、そうだ!なまえ! 最後にピアノ弾いてよ。ふるさと!」
突然、諸伏が思い出したかのようにそう言った。なまえはふたつ返事で「いいよ」と返すと、すぐにピアノ椅子に腰掛ける。弾くのは久しぶり。しかし、彼らのためならいつだって、何度だって聞かせてあげたい。
あの日と同じように、指先で数回、調律を確かめるよう無作為に鍵盤を叩く。そして、ペダルに足をかけ、前奏のために指を滑らせた瞬間、なまえはふと少し泣きそうになった。
明日から、この光景が自分のふるさとになる。そんな予感が、あの日には願っていたものであるはずなのに胸に迫って心を切なくさせるのだ。
「なあ、ゼロ」
そんな感傷に浸る彼女に気づかず、演奏が始まってすぐに諸伏がいつも通りに降谷のことを呼んだ。その声はピアノの音にかき消されて、なまえの耳には聞こえていないだろう。ブランクを感じさせない彼女の演奏は、最後に聞いたときとほとんど遜色がない。
降谷は、真剣にピアノを弾く彼女の横顔から、唐突に呼び止めた幼馴染の顔に目線を移した。しかし、その表情は自分が想定していたよりも真剣で、嫌が応にも構えてしまう。何だよ、とぶっきらぼうに牽制すること以外にできることがない。
すると諸伏は、その顔を一気に崩した。いや、崩したとは言っても決してからかい目的などではなく、いつもは絶対に見せない切なげな表情に、である。
「オレは今日で卒業するよ、なまえから」
「えっ?」
「いや、本当はとっくに卒業してたんだ。今までずっと言えなくてごめん。なまえが大切な存在であることには代わりないけど、オレのはゼロとは違う。家族を守りたいとか、そういう気持ちと似てるんだ」
もちろんそれはゼロのことも、同じように思ってるけど。諸伏は、照れ臭くなるような台詞を真顔で言って、降谷の胸を小突くように叩いた。その瞬間、降谷は心臓ごと掴まれたような気がして。絞り出すように「なんで」と呟く。
なまえと初めて出会った日の帰り道。彼女を送っていったあとで、すっかり暗くなってしまった道をよたよたと歩きながら、あの子可愛いな、と言ったのは諸伏の方からだった。笑った顔が、特に。と、まさか親友も同じことを思っているとは思わなかった降谷は、そのときには正直に、そうだな、と返したのである。
それからすぐに諸伏が街灯の下で振り向きざまに、降谷に優しく笑いかけながらこう言ったのだ。
『もしかして、思ってること同じじゃないか? オレたち』
それは彼らの関係が「幼馴染」で「親友」で「腐れ縁」で……というところにつけ足すように、恋愛に関しては「好敵手 」になることを意味していたのだ。
なのに、どうして。なんで、そこから降りるんだ。
諸伏はいつの間にか、あのときと同様、降谷に優しい笑顔を見せていた。それは何もかもを見透かしたように、遥か高みから眺めるような博愛さえ感じる顔つきだったのである。
「なんで、って。そんなの」
「……」
「この地球上どこを探したって、なまえを幸せにできる男は、降谷零、お前以外にいないだろ」
彼がそう言った途端、演奏が止まった。
一瞬、今の話を聞いていたのかと思い、降谷も諸伏も驚いて彼女を見たが、なまえの反応はやけにじっとりとしていて、険しい目でこちらを見ていたのである。そして、恨めしそうにこう言うのだ。
「ねえ、演奏聴いてる?」
「あ、ああ……聴いてる聴いてる」
「上手いなって、話してたんだ……」
「本当かな」
そう言って口を尖らせて続きを弾く彼女に、諸伏は聞いている証拠にと声を張って歌い出す。一歩出遅れた降谷も、なんとか自分を落ち着かせるように一緒になって大声で歌うのだ。三節目の、冒頭から。
case67. こころざしをはたして
「じゃあ、オレは兄さんと帰るから。なまえがアメリカに行くまで一回は集まろうな!」
演奏が終わってしばらくした後、諸伏はそう言って大きく手を振った。それに応えるようになまえも手を振り、うんうんと頷いている。入学前に通う予定にしている語学スクールが始まるのは四月からだし、一ヶ月ほど猶予がある。その間を、彼らと過ごす最後の春休みにしようとなまえは以前から決めていたのである。
「またね、ヒロ!」
「ああ、風邪引くなよ!」
そう言ってふたり取り残された後の音楽室は、ムードメーカーを失って急に静かになってしまった。降谷はそのことを気まずく思いながらも、気の利いた言葉がまったく浮かばない。何しろ、親友から思わぬ言葉を受けたばかりで、その整理で未だ頭の中がいっぱいだったからだ。彼女を狙う男がひとり減って喜べばいいのに、そうもいかない。
まるで、目的地まで向かう道すがらで別れてしまったかのような。そんな気持ちに浸っていたのだ。
「零」
急に呼ばれた名前に、わずかに肩がビクついた。すると彼女は優しく、自分の大好きな顔でこんな提案をする。
「ジュースでも買いに行こっか!」
降谷はそれに、不恰好にも頷くしかできなかった。
食堂の自動販売機。ガコン、という音とともに排出されるレモンスカッシュは指先にも冷たく、買ったことを後悔しそうになるほど冷え切っている。けれど、最後だし、とふたりして示し合わせるようにそれを購入してしまうあたり、青春という名の販売戦略に引っかかっているような気がした。きっと、この自販機には三年間でかなりの売り上げに貢献したことだろう。なまえはそう思い、食堂の窓から外を眺める。
「かなり積もってきたね」
「ああ」
もう校舎内に人も少なくなってきたらしく、この食堂もすれ違いざまに出て行く卒業生数名を見かけただけで、他には誰もいなかった。先ほどまでいた音楽室と比べると、鼓膜に無音が痛いくらいである。昔、優作がなまえと雪道を歩いているときに「空気の振動を吸収してしまうせいで雪の日は静かなんだ」と言っていたことを思い出す。そのとき、頭を撫でてくれた優作の手は、とても暖かだった。
そんな記憶を回想しているなまえの首に、降谷は自分の体温が移ったマフラーを巻く。
「え?」
「してろよ、寒いから」
「いいよ! 零、熱あるんでしょう?」
「………………ないよ」
「ないの?」
「はあ……」
「?」
結局、何が何だかよくわからないが、降谷のマフラーを巻いたなまえは一応礼を告げてそこに顔を埋めた。そんな、何でもない動作なのだが、あまりに可愛いので無理矢理にでも抱きしめたくなる。けれど、そんな勇気もなく。思わず彼女の手を引いて席に座らせると、見下ろしたままその髪をぐしゃぐしゃにした。
あー、もうお前は。そう言いながら、前の席に座る降谷に、髪を整えながらなまえはにこにこと言葉を紡ぐ。
「何笑ってるんだ。もう一回ぐしゃぐしゃにするぞ」
「ううん。ついに卒業しちゃったなあと思って」
「ま、そうだな」
「零はどんな大人になるのかな」
「どんなだと思う?」
「そりゃあ、格好いい刑事さんになるんだと思うよ!」
即答。その言葉が合うほど、彼女はすぐに返事をする。
「ヒロと零でタッグを組んで事件の捜査をして、私が勤務してる病院にまで聞き込みに来たりなんかして。事件が解決したら三人で集まって、お祝いの飲み会でもするのかな。なんだかそう思うと、今とあんまり変わらないね」
レモンスカッシュか、お酒か、その程度の違いしかないんじゃないかな。なまえはそう言いながら、その後もにこにこと嬉しそうに未来の想像について話をしている。降谷はその様子を目を細めながら聞いて、内心では安堵していた。彼女の将来に、きちんと自分がいることを。
「じゃあ、恋愛は?」
「え?」
「なまえも結婚とか、するんだろ」
その質問には、先ほどと違って時間をかける。けれど、逃しはしない。降谷は射抜くように強い視線を向けて、絶対にうやむやにさせはしないという意思を発していた。少しでも彼女と恋愛絡みの話をしなければ、背中を押してくれた諸伏にも顔が立たない。それに、そこに自分が入り込む余地があるのか、今日という日に聞いておきたかったのである。
「……それは、するよ。いつかは」
「……」
「父さんと母さんとは血の繋がりはないけど、感謝しかないから。だから、いつか私も父さんと母さんみたいな夫婦になりたいな。素敵な家で、犬とか飼ってさ。まあ、私は母さんみたいに仕事は辞めないだろうけど」
なまえはそう言うと、一口、レモンスカッシュを飲む。そして、冷たくなった手を組んで温めるその姿がまるで敬虔な修道士のように見えて、降谷は思わず次の質問を胸に収めた。
その夫婦に、僕が相手として選ばれる可能性はどれほどある? なんて。
代わりに降谷は、組んでいた彼女の手を強引にもいきなり掴んだ。そして決死の思いで自分の元に引き寄せて、力を込める。心臓がうるさいほど鳴っていて、息も苦しい。
でも、今、言わないと駄目なんだ。「好きだ」って。あの日みたいに。
「なあ、なまえ。僕が前に言ったこと、覚えてるか?」
「え、前って?」
前に言ったこととは、諸伏とどちらが早くなまえに告白できるか勝負した際に告げた言葉のこと。彼女は眠っていたため聞いていなかったのだろうが、そのとき自分は確かに「好きだ」と彼女に告げていた。本当に覚えていないのか確認したくて、質問を変えてまで尋ねたのに、やはり彼女の反応を見ているとまったく身に覚えがないらしい。
その無垢な表情を見ているだけで「好きだ」の三文字を言えなくなってしまう自分が情けない。こんなにもどうしようもないくらい好きなのに。
「す」
「す?」
「す……」
「す……?」
「す……!」
「す!」
「す……っ、ぱい、あの、お菓子のことだよ! 僕が『いらない』って言ったりなんかして」
「ああ! レモンパイのこと? でも。そんなにあれ、すっぱいかな?」
「それ。レモンパイ。久しぶりにあの味が恋しい」
「!」
「アメリカに行く前に作ってよ」
今度は僕のために。格好悪いことに、それを言うのがもうやっとだった。自分でも身勝手なことを言っていると思うが、その話以外には今できないような気がして。
でも、彼女の作ったものが食べたいというのは紛れもない本心だった。
「……仕方ないなあ、もう」
そんな降谷の不器用さが、なまえはとても好きだった。もちろん、それは友達として。さすがに断ることはできない、大切な友人の頼みだったのだ。
公安に入って初めての違法作業が、無人の工藤邸に入り込んで彼女のアルバムを盗むことになるとは、あの日の誰が思ったことだろう。工藤なまえという人物は公安警察になった降谷零、諸伏景光の事情をあまりに多く知りすぎていた。
絶対に彼女を巻き込みたくなくて。自分たちから遠ざけさせるためと、あの日々の記憶を忘れさせるためにアルバムを盗もうという話になったのは、ふたりの総意。運よくなまえが保管しているアルバムの場所は彼女の口から聞いて知っていたし、なまえが家族の誰にも自分たちの話をしていないことも知っていた。逆にそれが好都合だったのだ。
けれど、結局のところ。諸伏も降谷も音信不通を貫き通すことに対して途方もない罪悪感に苛まれるようになった。一向に電話を取らない自分たちを毎日案じて電話してくるなまえ。そんな彼女の健気さについには折れて、諸伏とふたり、なまえがアメリカから帰ってくるときにはアルバムを返して潔く謝ろうという約束していたのだ。
なのに。
降谷はそう思いながら、今も大切に保管している彼女のアルバムをめくる。その中で、何枚にも渡って撮られた音楽室での写真が目に止まって思わず目を細めた。それから、誰が撮ったかわからない、廊下で撮られた後ろ姿の自分たち。
「こころざしを、はたして」
いつのひにか、かえらん。三節目の冒頭『ふるさと』の歌詞を口にする。志を果たした暁には、いつの日か帰ろう。自分のふるさとへ。そういう決意を歌った詩を。
もう二度と、あの日には戻れないくせに。