68...


 喫茶ポアロにて、梓主催による「お料理女子会」なるものを開催した日から数日が経ったある日。なまえは自宅にて、またも思い出のレモンパイを作っていた。しかも今回はパイ生地を一から作るという気合いの入れようで、沖矢に扮する赤井は時折、その光景を眺めながらカウンター席に座って静かに本を読んでいる。先日、ポアロで作って余った分は、あの安室透に残してきてしまったし。そのせいで結局ルームシェアをしている彼には当たらず、その事実を知らないとはいえ隠しているような形になってしまっていることに、なまえはわずかばかりの罪悪感を覚えていたのである。

 戸棚から一番大きいパイ皿を取り出してきたのは、余った分をまた博士の家に持って行って今度は子どもたちにも食べてもらおうという算段を頭の中で練っていたからだった。元太や歩美、光彦にはまだこの味を披露したことがなかったはず。材料を買う際に立ち寄った会員制倉庫型店で、あのバケツのようなアイスクリームを買ってきていたことだし、それをレモンパイの傍に添えてやれば、まるでお店で出されるデザートのようにきっと彼らは喜んでくれることだろう。そう思うと、つい、口元が緩んでしまう。

 なまえが料理を好きな理由は、作っている最中に食べてくれる人の顔が愛しく思い浮かぶからだった。高校時代から、その思いは何ひとつ変わっていない。新一にだって、今はコナンとして蘭の作った料理を食べる生活の方がいいのかもしれないが、体が元に戻ったらまた一緒に暮らして、お腹いっぱいになるまでご飯を食べさせてあげたい。そんな願いを、姉としてささやかに持ち続けているのである。

 食べてくれる人の、顔。そう思った瞬間、胸を刺すような痛みとともによぎったのは、なまえの初恋の相手でもある安室透の笑顔だった。彼はポアロで、あのレモンパイを食べただろうか。もう何の関係もないはずなのに、未だにそんなことを気にしてしまう。食べたとしたら、どんな感想を持っただろう。きっと、料理が上手だと噂の彼になら、梓と一緒にレシピを再現してポアロの新メニューにでもしまうことだろうな。なんて。


「なまえさん」


 唐突に声をかけられて、なまえは思わず手を止めた。ピケと呼ばれる、パイ生地に空気穴を開ける作業の途中であったためにフォークが指に突き刺さりそうになって少しひやりとする。


「ど、どうかした?」
「いえ。難しそうな顔をしていたので、失敗してしまったのかと」
「いや、大丈夫……」
「そうですか」


 それだけ言うと、沖矢は再び小説に目を落とし、部屋には小気味よく彼がページをめくる音が響いていた。何と短い会話だろう。傍目から見ていればその距離感は絶妙で、そんな短い会話でさえも彼らの関係の居心地のよさを十分に表しているようにも見える。だが、なまえは未だ彼に告白の返事をしてはいなかった。

 それに妙なのだ。特に、先日。一緒に箱根に行ってからの、彼の様子が。


「そういえば。今回もレモンカードは多めに作っているのですか?」
「えっ。ああ、うん。もちろん」


 煮沸消毒した瓶に入れてもう冷蔵庫に入れたよ、と取り繕うような愛想を貼りつけてそう言うと、沖矢は眼鏡を上げてまたも、そうですか、とだけ言った。ほら、やっぱり。となまえは思う。その違和感に、また少し隠れながらも眉をひそめる。

 どこが妙なのかなんて、そんなことを問われても困る。しかし、確かに彼はあの日を境に少し変わってしまったようになまえは感じていた。上手く説明できないくらい些細な違和感ながらも、原因に関してはひとつしか思い浮かばない。


「この近くにある商店街のパン屋が出している食パンが、最近とても美味しくなったと評判で、すぐに売り切れてしまうそうですよ。きっとなまえさんの作ったレモンカードにもよく合うでしょうね」
「へ、へえ……」
「今の時刻は午後二時半。並べば、三時の焼き上がりには間に合うでしょうか」


 壁掛け時計に目を移していた沖矢は、読んでいた本の間にしおりを挟み、おもむろに立ち上がる。そして上着を羽織りながら言った。


「食パンを買うついでに夕食の買い物も済ませてきますよ。何がいいですか?」
「あ、だったら私も一緒に……」
「いえ、あなたはここにいてください」
「え?」
「まだ作業中でしょう? オーブンに入れるまで待っていたら、パンが売り切れてしまうかもしれませんから」
「それもそうだね……」
「では。夕飯の献立も、僕が適当に考えて買って来ますのでご心配なく」


 沖矢はそう言うと、静かに部屋を出て行った。ひとり取り残されたなまえは再び作業に戻りながら、今の彼の言動を踏まえつつ改めて考察する。

 確かに表面上は以前の通り、優しい沖矢昴のままだ。普段通りに話しかけられることから、別段、嫌われているわけでも、避けられているわけでもないのだと思う。だが、からかわれているのではないかと疑うほど囁いてくれた甘い言葉はあの日を境に一切かけられることはなく、隙あらばと触れてきたスキンシップも一度だってなくなっていた。それを指摘すれば、期待しているのかと思われそうで絶対に言えないし、なければないで都合がいい……はずなのだけれど。


「何だかなあ……」


 寂しいと言い切ってしまうことが正しいのかはわからないが、なんとなく、なまえの心は落ち着かなかった。こぼすようについたため息を、打ち消すように大きく首を振る。甘い言葉が欲しいわけでも、触れられたいわけでもない。なのに、一向にこの感情が上手く説明できないのである。

 おそらくもう、彼は飽きてしまったに違いなかった。その原因は、あの日、なまえが言ってしまった一言のせいで。

『昴くんと私って恋人っていうよりも、もはや家族みたいな感じなのかなって』

 好意を寄せてくれている相手に対してはあまりに無神経な発言を今さら謝罪することもできず、自分だけがずっと気まずく引きずったままなのであった。



case68. 思いがけない手がかり


「それはちょっと怪しいわね」

 東都監察医務院まで例のごとく被害者に関する情報を聞き込みにきた佐藤美和子は、長い美脚を組み替えながら女刑事らしい顔つきでそんなことを言ってのけた。とはいえ、話の内容は机上に並ぶ捜査資料のような凶悪事件とはまったく関係がない。仕事の話がひと段落ついたので、コーヒーブレイクとばかりに自販機で買った飲み物をお互いに持ち寄って恋愛話をお茶請け代わりに話していたのである。

 尋ねられたが故に沖矢との最近の生活について話してしまったなまえだったが、まさか告白されたことまで吐かされるとは思っておらず、改めて本庁仕込みの事情聴取が恐ろしいものだと痛感していた。こんなの、たとえ犯人でなくても自供してしまいたくなる気持ちも、正直に言ってわからなくはない。しかし、一方で聞き出した美和子の方はなまえの話に懐疑的な様子を見せて、終始、首を傾げていたのだった。


「話から想像するだけだけど、そんな温厚そうな人が『家族』って言われただけで態度を変えるくらい嫌な気持ちになるかしら。むしろ夫婦的な意味と捉えれば光栄に思いそうなものじゃない。彼がなまえの家に住んでるってことは、あなたの親にも公認なんでしょう?」
「まあ……」
「だから。それって、その言葉が嫌だったんじゃなくて、もっと他に理由が……そう、例えば『浮気』とか。たまたまその日を境になまえが違和感を覚えているだけで、本当はその前後から別の女がいて、そっちに気が行ってるんだったりして」
「え、えええ?」
「大方、前の合コンで一緒に帰った金髪イケメンのことでも気にして、仕返しのつもりで若い女に手出してるんじゃない? 年下だからヤキモチも妬いて欲しい年頃だろうし、甘えたいのよ、きっと。大学に女の子はいっぱいいるし、それでなくても東都大の大学院生なんてキャンパス内ではチヤホヤされがちだろうから」


 それはさすがに、新たな見解すぎた。確かになまえはかつて安室のことを気にかけていたが、それはもう終わった話。彼が組織の一員である「バーボン」である限り、二度と自分の気持ちが復活することはないと思う。もちろん沖矢もそれを知っているので、彼のことを意識して妬かせるには些か時期がずれすぎていて考えられないし。それに、赤井秀一という男が、そういうことをいちいち根に持つようなタイプにも見えない。百歩譲って、レモンパイを安室に残したことを鋭い彼が知り得て嫉妬していたとしても、それでもやはり時期が合わないのである。

 ただ、残念なことに赤井に女がいないとも言い切れないのであった。自分がこうして仕事に出ている間に彼が何をしているのか、なまえはまったくと言っていいほど知らない。ベルツリー急行の一件から、工藤邸に住み始めた理由が隣人である灰原哀を護衛するためであったと察したとはいえ、その彼女も日中は比較的安全な学校にいるし、その間は沖矢昴の経歴に信憑性を持たせるためにも時々は大学に行っているものと思われる。そこには美和子の言う通り、女子大生も多くいて、もちろんその中には彼に惹かれてしまう少女もいるだろう。他に好きな女性ができたとなれば、今の彼に感じる違和にも自ずと説明がつく。

 美和子は広げていた捜査資料を片づけ、代わりに自身のスケジュール帳を取り出すと、何やら指でなぞって自身の予定を確認しているようだった。そしてその指が滑らかに横滑りしていくのを眺めていると、休暇、という文字でピタリと指先が止まり、今度は刑事というよりもまるで探偵のような顔つきで、彼女はとんでもないことを言い放つ。


「この日なら、私、非番だし。何だったら浮気調査してあげてもいいわよ」


 しかし、それにはさすがのなまえも、彼女の暴走を食い止めるより他になかったのである。


「ちょ、ちょっとストップ、美和子……!」
「え?」
「第一、浮気って言うけど。そもそも私はまだ返事してないから付き合ってもいないよ」
「えええ!? 嘘でしょ!?」


 医務院のホールに、彼女の素っ頓狂な声が響く。一気に降り注がれる視線に、やば、と口元を押さえながら美和子はなおも小声でなまえに言った。


「じゃあ、答えはもっと簡単よ。なまえがその返事を保留にしすぎてるから」
「うっ」
「年貢は早いこと納めなさいよ。軽いうちにね」


 それはそうかもしれない。なまえはそう思い、苦笑いを繰り返す。すると、聞きなれない携帯の着信音がすぐ傍で鳴り、美和子はジャケットの内ポケットを探った。


「あ、ごめん。由美からだ。ちょっと出るわね」
「ああ、うん」


 なまえは、一応気を使って顔を背けるように話し始めた美和子の美しい横顔を眺めつつ、手持ち無沙汰にカップ式の自販機で買ったホットコーヒーを一口飲む。ここで美和子と事件についての報告をしているようなふりをして油を売っているが、一応、時刻はまだ勤務時間中。改めて襟を正し、残っている仕事について頭の中で手順を構築していく。

 話半分ながら、美和子は電話口であの宮本由美と飲み会の話をしているようだった。合コンではなさそうだが、何人来るやら、店はどこやらと飲み会を取り仕切る女王から詳しい報告を受けているらしい。

 やがてその電話が終わると、彼女が片手を上げて改めてなまえに笑う。


「ごめん! 本当はもっと話聞きたいのは山々なんだけど、私、そろそろ行かないと。今日、警察学校時代の同期で集まって飲み会なんだよね」


 そうなんだ、となまえは相槌を打った。確か、美和子は由美と大学時代からの同期。卒業後、そのまま一緒に警察学校に入ったのだということも当然として察しがつく。

 にしても、警察学校か。なまえはそう思いながら、自分とは縁遠いその施設について考えを巡らせた。大学卒業者で採用試験に合格した者は、半年ほど在籍することが必須なのだという警察官の養成所。そこに、かつて所属していたはずのふたりの旧友からは確か全寮制だと聞いていて、よくそこの電話機からアメリカまで国際電話をかけてきたっけと思い返しては懐かしくなる。特に降谷が電話をかけてくるときはなぜかいつも外野が騒がしくて、ほとんど何を言っているのか聞き取れないこともあった。

 彼らと美和子は所属年が違うのでおそらく互いの顔も知らないだろう。望み薄ながらも何だか懐かしくて、なまえは彼女に話を聞いてみることにした。


「そういえば、美和子って私より学年ひとつ下だよね」
「ええ、そうなるわね」
「だったら、その警察学校のひとつ上の学年に『降谷零』って人か『諸伏景光』って人がいたかどうかなんて、わかるかな?」


 すると、彼女から返ってきたのは思わぬ答えであった。


「降谷って人は知らないけど、諸伏って人はどっかで聞いたことあるわね」
「え!? どこで!?」
「えっと……?」
「お願い! 知ってること、何でもいいから話して!」


 いつもなら極めて冷静沈着でいることが多い監察医の花、工藤なまえが見せたあまりに鬼気迫る剣幕に美和子は飲まれるようにとても驚いていた。まるで自分を見失っているようで、怒っているというよりは今にも大泣きしてしまいそうな痛みに歪んだ表情をしている。とりあえず落ち着かせるために彼女の肩を軽く撫でながら、美和子は友人としてその訳を尋ねざるを得なかった。


「ど、どうしたのよ。なまえ……? 何か、変よ?」
「え……? ああ、ご、ごめん……」
「そのふたりがどうしたの? 詳しく聞かせて」
「……いや、別に何でもないの」


 そう言って言葉を濁す彼女に、美和子は机の上に置いたままになっていた手帳の空白にボールペンをとっさに滑らせる。フルヤレイ、という名と、モロフシヒロミツ、という名を忘れぬようそこに刻むと、ページを閉じて大事にバッグへとしまった。


「何だかよくわかんないけど、私の方でちょっと調べてみる。だからそんな顔しないで」


 捜査一課、舐めないでよ? とウインクをする美和子は胸元につけた赤バッジを見せつけるように指差した。赤地に金の文字で「s1s」と刻まれているそれは「search 1 select」の略。つまり、バッジをつけた人物が「選ばれし捜査第一課」であることを証明する代物だ。

 高校時代の自分は、その赤バッジをつけた降谷と諸伏に仕事で会うことを夢見ていた。彼らがもし警察学校を無事に出て本当に刑事になっていたとしたら、今、美和子が座っている席にいたのは彼らだったかもしれない。なまえはそんなひどいくらい眩しい想像に胸を締めつけられながら、ありがとう、と彼らに負けず劣らずの頼もしい彼女にくたびれた笑顔を見せるのだった。

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