69...


 調査報告を受けたのは、そのやり取りがあってからあまり日が経たないうちのある夜のこと。既に寝支度を整え、重い体を横たえていたなまえがとりとめのない考え事をしている最中、突然、ベッド脇のナイトテーブル上に置いていた携帯電話が着信音を鳴り響かせながら、規則的なバイブレーションとともに夜を切り裂いたのである。

 電話の相手は当然、佐藤美和子。信頼の置ける彼女の名が表示された画面を見て、瞬時に「諸伏」のことだと察しがついたものの、それがいい知らせばかりではないと思うとつい構えてしまい、なかなか着信を取れないでいた。先日、彼女と会って話したときには、六年間で何も得られなかった手がかりがついぞ手に入るかもしれないと無我夢中で、何でもいいから教えて欲しいと強くせがんでしまったのだが、後々よく考えれば、彼らが何らかの事件に巻き込まれ殉職してしまった可能性もないわけではない。特に諸伏の場合は降谷と違って、既に電話番号が使われていないことがわずかに気がかりだった。

 長いコールが切れるぎりぎりで心を決めてボタンを押し、おずおずと耳元に当てる。ベッドの上で膝を抱えている自分の細い影が月光のせいで浮かび上がって、ひどいほど頼りなく見えた。


「もしもし、なまえ? 遅くにごめん。私だけど、起きてた?」
「うん。それより、もしかして何かわかった?」
「ええ。モロフシって人のことだけど」


 愛しい旧友の名を呼ぶ彼女の声に、一瞬、心臓が大きく脈打つ。この状況で彼に関するバッドニュースを聞いても、平然と受け止められるだろうか。いや、きっと無理だろう。

 電話を持つ手さえ、いつの間にか小刻みに震えていた。不安を悟られないよう声だけは必死で取り繕おうとするも、それも刑事である彼女にはバレているかもしれないと思う。調査している彼らとの関係性について、明かさなくてはならない日も近いかもしれない。

 一方、美和子は一呼吸、間を置いて、その不安にそっと寄り添うように厳かに口を開く。どうやら車内にいるらしく、スピーカーの向こうからは何かの書類をめくる音とともに車の走行音が聞こえた。


「広域関東圏連続殺人事件……」
「……え?」
「なまえが被害者の解剖を担当してたかどうかは知らないけど、ほら、あったじゃない。七夕の夜、東都タワーで犯人が捕まった……」
「……その事件なら知ってる。確か、東京・神奈川・静岡・長野であった連続殺人で、被害者の遺体の傍には必ずアルファベットが刻まれた麻雀牌が落ちてたっていう、あの事件でしょう?」


 なまえはそんな相槌を打ちながら、当時のことを思い出していた。連続殺人の方の被害者は確かに担当しなかったが、その後、東都タワーのメインデッキより上にある作業員用階段で発見された身元不明の外国人男性の変死体を解剖したのは紛れもなく彼女である。創痕から照合した結果、PSG-1というスナイパーライフルで胸部を数発撃たれた末の失血死であったが、後にその人物が「アイリッシュ」と呼ばれる組織の一員であったと弟の新一からは聞かされていた。

 そんな暗い匂いのする事件のことを話題にされ、なまえはふと信じたくない話の全貌を美和子の話よりも先に読んでしまう。まさか、あの諸伏景光が黒ずくめの組織に関わっているのではないかと。そして同時によぎるのは、何の因果か、降谷と同じ顔をした「バーボン」こと安室透のことだった。

 しかし、情報元である彼女が続けたのは彼らのことではなく、その事件についての話の続きである。


「その事件のことで今さらながら二、三確認したい事項があって、今、高木くんと長野県警に出向いてきた帰りなんだけど。そのときに応対してくれた上原さんっていう女性刑事が、偶然、電話で話していたのよ。同じ捜査班の『諸伏』って人と」
「!」
「聞けばその人、もともと県警にいたらしいんだけど、独断専行の荒っぽい捜査で新野署に飛ばされて、最近、また県警に戻ってきた訳ありの刑事らしいの。だから、広域殺人のときは担当じゃなかったみたいなんだけど、東都大首席卒のかなりの切れ者らしくて」


 だから私も聞き覚えがあったのね、とわずかに笑みを含んでそう言う彼女に、なまえはまたも震えが止まらなかった。しかし、心持ちは先ほどとまったく異なる。

 この震えは、今までずっと苛まれていた諸伏や降谷の安否を案じる感情から来ているものではない。むしろその逆で、ようやく彼らに近づくことができる重要な手がかりを見つけたという武者震いが優っていたのである。


「……その人の下の名前って」
「ええ、残念ながらあなたが言っていた『ヒロミツ』っていう名前じゃなかったの。年もなまえより六つ上。名前は確か……」
「コウメイくん……」
「え?」
「美和子、本当にありがとう。このお礼はいつか絶対に返すから」
「あ、ちょっと!? なまえ!?」


 なまえはその電話を切った後、すぐに電話帳から諸伏の名を探し出し、電話をかける。

 当然、流れるのは機械的なアナウンス。おかけになった電話番号は、現在、使われておりません。しかし、そのアナウンスに対して、なまえは勝気な笑顔を見せながらこう言うのだ。


「待っててね、ヒロ。絶対に見つけ出すから」


 だから覚悟していてね。なまえはそう言って電話を切ると、すっかり眠気も冴えてしまった頭で、少し今後のことを考える。そして、はやる気持ちを抑えられず、自室を出て下階へと降りたのだった。



case69. 絶対に君を見つけ出すから


 なまえがその足で向かったのは、一階にある優作の書斎だった。膨大な蔵書数を誇る、まるでミステリーの図書館のような場所。古書の匂いが充満しているそこはまるで孤児院の図書館を思い出させて、彼女にとってはずっと昔から好きな場所のひとつだった。

 もう寝ていると思われる赤井を起こさぬよう、明かりは最小限にして月光を頼りに書棚に近づく。少し肌寒ささえ感じる紺色のサテン地パジャマ姿のままで探し出すのは、当然『二年A組の孔明くん!』という本だった。

 どうして今まで思い出さなかったのだろうかと、なまえは自分のことを責めていた。諸伏に兄がいたこと。高校の卒業式で、たった一度しか会ったことがない人物ではあるが、警察関係者であることはその親友から聞いて知っていた。長野県警であることも、確かにそう言われてみると聞いたような覚えもあって、自慢の兄のことを語る彼の横顔が初夏の音楽室の窓辺を背景に眩しいくらい思い起こされる。その後、何かの折に『二年A組の孔明くん!』という本の主人公が、彼の兄をモデルにしているのだという話を聞いて、なまえは飛びつくように購入したのだ。

 わずかな光の中、まるですがるよう一心不乱にその本を探した。読んでどうこうしようと思っているわけではない。ただ、その本をきっかけにして長野に行けば、会えるかもしれないと思ったのだ。一度きりしか会ったことのない、親友の兄に。

 ただ唯一の難点は、長野に行くためには十分な休暇と絶対に車が必要であることだった。なまえのバイクでも行けなくはないが、愛車であるタイガーは本来、悪路走行に特化したスポーツ型のオフロードバイク。ツーリング目的のオンロードバイクと比べるとシート自体が狭く、長時間の着座が求められる連続運転にはあまり適していない。休憩をこまめに挟めが可能だろうが、ここから長野まで往復するとなれば些か時間がかかり過ぎてしまうことは必至だろう。

 そう思ったときに想起したのは、今も工藤邸の車庫で停まっている沖矢の愛車、スバル360だった。未だ助手席にしか乗ったことはないが、長野までひとりで乗るには十分すぎる。車なら片道三時間半、といったところだろうか。

 しかし、そうなると今度は別の問題が出現してしまう。それは、なまえが「彼」に長野に行く理由を告げることができそうにないことだ。


「こんな時間に探し物か?」


 その瞬間、書斎中が一気に明るくなり、なまえは思わず息を飲んだ。入り口に設置された明かりのスイッチ付近には、ルームメイトである沖矢、ではなく、赤井秀一の方である彼の姿があり、わずかに身を固くする。時間的に夜も遅く、変装を解いていることに何ら不思議な点はないが、なまえはその質問にギクリと肩を揺らし、なるべく彼の顔を見ないように「別に」とうそぶいた。


「眠れなくて。いい本がないか、探していただけです」
「嘘が下手だな」
「!」
「一緒に探した方が効率がいい。だから、探している本のタイトルを教えろ」


 彼はそう言うと、なまえに近づくことなく、反対側の書棚の方へと歩いていった。口調は荒っぽいが決して怒っているわけではない。だが、やはり違和感がある。その様子になまえはやはり、ちくりと胸が痛んだ。


「……『二年A組の孔明くん!』っていう児童書です。十数年前の本だと思います」
「児童書?」
「児童書と言っても、なかなか手の込んだミステリー要素が入っているので。作者は少し前に持病で亡くなってしまいましたが」
「ほう?」


 赤井はそれ以上何も聞かず、本棚の端の方から大人しくその本を探してくれているようだった。なまえはその様子を見て、何となく気まずいような、切ないような気持ちになってしまう。それに気づかないように心に蓋をして、再び書棚に目線を移した。

 おそらく児童書であれば、そんなに高い位置にしまうわけはない。ぱっと見た限りではあるが、上段は分厚い全集ばかりが並んでいるようで、そこにないことは明白である。故に、なまえは先ほどと同様、ひとまず手の届く範囲の棚をしらみつぶしに確認することにした。サイズは確か、四六判。さすがに背表紙のデザインまでは記憶になく、あるのは薄紫色をした表紙と、諸葛亮の羽扇を模したイラストが描かれた装丁だけである。

 しばらく黙々と探したものの、どちらからも見つけたと声がかかることはなかった。そのうちなまえは無言に耐えかねて、先ほど考えていた内容を赤井に尋ねてしまう。


「ねえ、赤井さん」
「何だ?」
「もし、私が『何も言わずに車を貸してください』って言ったら、無条件で貸してくれますか?」


 彼は一瞬、手を止めて、その鋭い眼光でなまえのことを見た。お願い、イエスと言って。そう思うも、その願いは虚しく、彼は再び冷静に本を探す作業に戻りながら「嫌だと言ったら?」と逆に質問で返すのである。


「あの車はそもそもかなり癖が強い。スーサイドドアは、もしも半ドアで走行しようものなら風圧で扉が開きかねないし、お前を信頼していないわけではないが、バイク派故に普段から車に乗り慣れているドライバーではないからな。ひとりで乗せるわけにはいかない。それはわかってくれるだろう?」
「……」
「それに、理由を言わないのはフェアじゃない。違うか?」


 それはそうだ。でも、言えない。これは自分と、彼らだけの問題だからだ。

 なまえは心を落ち着かせるように目を閉じて、心を冷静に保つ。そして聞き分けのいい子どものように、努めて、とても素直に返事をするのだ。……表向きには。


「……わかりました」


 長野という場所も含めて、車を借りたい理由はやはり彼には言えなかった。おそらく赤井はそれを聞き出したかったのだろうと推察されたが、聞けないとあってはもう何も言うことはないといった風に再び固く口を閉ざす。しかし、今回ばかりはなまえの方がもっと冷静だった。

 彼から車が借りられないのなら、レンタカーを借りればいい。休暇も、時間も、同じように作ればいいだけの話だ。それで彼らが見つけ出せるのなら、自分は何だってする。この命が尽きたって、いいくらいに。

 それから、なまえと赤井の間には一切の会話はなかった。本を動かしたり、歩く音以外に部屋に音はない。それは決して距離感がいいと言えるような状況ではなく、気まずさばかりが嵩んでいくようであった。

 結局、階段状になった可動式はしごにまで登って上の棚までくまなくチェックするまでに至ったのだが目当ての本は見つからず、なまえは一番上の段から下にいた赤井に、これ以上迷惑をかけられなくて大きく声をかけることにした。


「もう終わりにしましょう。一緒に探してもらったのに、結局見当たらずで本当にすみません」
「構わない。ちょうど、俺も目が冴えていた」
「明日の朝、いつも掃除してくれている蘭ちゃんに電話して一度聞いてみます」
「そうした方がいいな」


 確かにあったはずの本が見つからないことに、なまえは少なからずショックを受けていた。まるで、この先、彼らを見つけられないことを示唆しているようで。そんな嫌な予感に大きく首を横に振る。諸伏の兄という手がかりを得た今なら、以前よりも一歩進展しているはず。そう思って、なんとか自分の心を必死で励まさざるを得ない。

 階段状のはしごから降りる最中、なまえは六年前から記憶の中だけで止まってしまった諸伏のことを、愛しく懐かしむように思い返していた。いつも大声で名前を呼んでくれる、あの屈託のない表情が好きだった。降谷と並んで張り合うみたいに悪戯っぽく笑ったり、場の空気を読んで優しくフォローする包容力の持ち主。そんな持ち前の明るさで人を元気にするのが得意なムードメーカー。それが彼。頼り甲斐があって、誰よりも正義感が強く、責任感がある。もし仮になまえに兄がいたら彼のようだっただろうと思ったこともあるほどだし、きっと彼も年を同じくした妹のように思っていたはずだった。

 そんなことをいちいち思い出すだけで、息ができなくなるくらい切なくなった。できればずっと一緒にいたかった。降谷と、三人で。

 気が緩めば、涙で滲みそうになる視界のせいで、なまえははしごからつい足を滑らせてしまい、重力に従ってあっという間に体が前のめりに落ちていくことになった。思わず支えに手を伸ばした本も、巻き添えになってゆっくりと落ちていくのが視界の端に見える。まずい、と思ったときにはもう遅い。何事も、そう。


「なまえ!」


 来るであろうと思われた痛みに対してなまえは思いきりきつく目を閉じた。だが、一向に現れない痛みにうっすら目を開けると、まるで身を呈して守るように赤井にきつく抱きとめられていることに気がつく。ばらばらと自分たちの周りに散らばった数冊の古書が、かなりの埃を立てているのが見えた。

 しんと静まる書斎の中央に、重なったふたつの影。熱い体温の赤井に触れられたのは、態度が変わったと思われる、あの日以来のことだった。


「やっぱりお前は危なっかしすぎる」
「え?」
「頼むから、俺に黙ってどこにも行くな」


 彼はそう言うとなまえにそれ以上触れることはなく、黙って書斎を後にした。ひとり取り残されたなまえは落ちた本を片づけるために重ね、口を真一文字に結ぶ。


「……」


 ここのところの自分は、彼にかき乱されてばかりだ。冷たくされたと思ったら急に優しくされたり、本当に何を考えているのか、わけがわからない。ただ、心臓だけがドキドキして苦しいくらいだ。この感情が何なのか、なまえには全然理解できていない。

 ただわかるのは、彼はなまえが傷つく可能性についてことごとく忌避と排除を繰り返し、いつだって傍で力強く守り続けてくれているのだということだけだった。

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