70...
翌日の朝、なまえはコナンが学校に行く前の時間帯を狙って彼に電話をかけることにした。昨日は夜遅くまで一緒に本を探してくれた赤井に対し、掃除のために出入りしている蘭に一度聞いてみると話をしていたのだが、一刻も早く聞きたくとも彼女は朝食作りや朝練でこの時間は忙しいだろうと思うと、つい憚られて。逆にコナンになら、自分の弟なので気兼ねなく聞きやすいし、それに優作の蔵書事情なら彼の方が詳しいこともあるかもしれないと思えたからである。
結論から言えば、その推理は見事に的中した。彼は身支度を整えるために電話口の声をスピーカーにしながら、姉であるなまえにその本の在りかについて話を始める。
「ああ、その本なら蘭の机の上に乗ってるのを二、三日前に見かけたぜ。あいつ、急に電話で読みたくなったなんて話すから『掃除のとき、適当に持って帰っていいぞ』って新一の声で言ってやったんだよ。かなり埃かぶってたみてーだし、別にいいかと思ってなまえには言わなかったんだけど……そんなに必死で探してたんなら悪いことしちまったな」
「ううん、あるならいいの。よかった」
「蘭もさすがに読み終わった頃だと思うし、今夜はあいつらと博士の家に泊まる約束があっから、何時でもいいし呼び出してくれたら持って行ってやるよ。それに、ちょうど俺もなまえに話したいことがあったし」
「話したいこと?」
「それはまた、会ったときな!」
まるでもったいつけるように彼がそう言うと、電話口の遠くから「コナンくーんっ! 朝ご飯、冷めちゃうわよーっ!」というなんとも日常的な蘭の声が聞こえてきて、なまえは少し心が和む。やっぱり、忙しそうな彼女に電話しなくてよかった。そう思って安堵していれば、今度は弟であるコナンが子どもらしい声色にわざと変えて「はーいっ!」と元気よく返事をしだすものだから、さすがにちょっと笑ってしまった。すると、耳ざとい彼がすぐさま照れたように「……笑うなよ」と小声で注意してきたので、もう隠すことなく声に出して笑う。
「んじゃ、また今夜」
「わかった。じゃあね」
そう言って手短に電話を切ると、なまえは目の前にいた沖矢に視線を移す。彼はいつも通り湯気の立つブラックコーヒーを含味しながらなまえに問うた。
「その様子なら、本は無事に見つかったようですね」
「うん。昨日はいろいろありがとう」
「いえ。それより、なまえさん。今日は少し、僕の方が帰りが遅くなると思うので、申し訳ないのですが夕飯はおひとりでお願いします」
「それは構わないけど、何かあったの?」
「ええ、ちょっと。論文の発表が近いので」
くすりと微笑む彼の表情は今ひとつ信頼に欠けた。けれど、なまえはすぐにその詮索をやめて、またも聞き分けのいい子どものように静かに頷く。これはある種の諦めだ。深追いしても、彼の考えていることすべてを知ることはできないという諦観の表れ。
ただ、思い出してしまうのは、先日、脅かすように言われた美和子による一言だった。
『大学に女の子はいっぱいいるし、それでなくても東都大の大学院生なんてキャンパス内ではチヤホヤされがちだろうから』
女の子、か。もし今の彼の言葉が女絡みの予定を隠すためについた嘘であったとしても、自分たちは単なるルームメイト。告白されたからと言って、何ら咎められるような間柄ではなかった。なのに、なまえはまたしてもそれを思うと、自分の感情がよくわからなくなってしまう。結局は有希子のことだったとはいえ、以前、この家に沖矢が女を連れ込んでいるかもしれないという証拠を見つけたときと気持ち的には似ているはずなのに、それとはどこかが根本的に違うような気がして困惑してしまうのだ。寂しい? 悲しい? 疎外感? そのどれもに当てはまらない。上手く説明できない自分がほとほと嫌になる。
「じゃあ、私、行くね」
「ええ、気をつけて」
バイクの鍵とヘルメットを手に、なまえは普段通り家を出た。けれど、その胸のうちは、気がかりになっている諸伏のこととも相まって、非常に雑然としていたのだった。
一方。そんな彼女の背中を見つめていた沖矢は、声色を赤井のものに戻し、何やら深く考え込む。そして吐き捨てるように、こう言うのだ。
「そろそろ潮時だな」
その意味は、彼のみぞ知る。
case70. 限界突破
終業後。医務院の玄関を出たところで、なまえはさっそく携帯電話を取り出し、再び履歴から阿笠邸にいるであろうコナンに連絡を入れていた。おおよその到着時刻を伝えるのと、子どもたちの差し入れは何がいいかを尋ねるための電話であったが、みんな博士のゲームに夢中らしく「別に、そんな気を使わなくてもいいんじゃねえか?」とまったくいつもの調子で言われてしまう。しかし、そうは言っても彼はなまえにとって大切な弟。アメリカ暮らしの両親に代わって、彼が日頃世話になっている小さな友人たちに感謝の意を表すためには、お菓子やらジュースやらを買い込んで差し入れするのが筋である。
だが、今日のなまえには、いまひとつそうする余力が残っていなかった。諸伏の行方に繋がるかもしれない本のことと、コナンが言っていた「話したいこと」の内容が気になって、別にいいと言われた言葉に甘えることを彼に告げると、すぐさまバイクにまたがる。そして、寄り道をせずまっすぐ帰宅することを決めてセルを回したのだった。
流れて行く景色を見つめながら頭の中をよぎっていくのは、珍しくも赤井のことだった。彼の告白を受けてからもう既にかなりの時間を浪費してしまっているが、さすがにそろそろ返事をしなければまずいとは思う。ただし、今の状況でできる返事はやはり「NO」。彼がなまえのことを以前とは違う風な態度で接していることが気がかりなままでは、考えられるものも考えられない。
けれど、返事を「NO」と決めた今でも、それが正しいのかはやはりわかりかねた。いたずらに好意を寄せてしまった安室とは違って、赤井は絶対になまえを傷つけないという信念が固い。いつだって辛いときは傍にいて、理由も聞かずにその腕で暖かく抱きしめてくれる。きっと彼に愛されることこそが自分にとっての至上の幸福であり、ベルツリー急行乗車後に誓ってくれた「一生をかけて大切にする」という約束が本物になるということも頭ではよくわかっていた。
だったら、といっそ容易になびいてしまいそうになる自分の考えは浅はかすぎるだろうか。そんな自嘲を見せながら、なまえは吹き飛ばすように一段階、タイガーの速度を上げる。葛藤は既に限界寸前だった。
約束した時間の通り到着すると、工藤邸の前で小さな名探偵と落ち合った。電気がついていない屋敷を珍しそうに眺めて「赤井さん、今日はいないのか」と尋ねる彼に対し、なまえはバイクを押しながら頷く。そして、論文発表が近いんだって、と言うとコナンは呆れたように笑った。
「論文って。大学院生は単なる口実じゃねえか」
「え?」
「大学院の在籍証明なんてもちろん身元を隠すための偽造だよ。……って、赤井さん、このことなまえに話してなかったのか?」
いつまで経っても無言の姉に対し、コナンはとっさにまずいという表情をして一気に顔を青ざめさせていた。先日の合コン暴露の件と同様の、明らかな失言。あのときは電話越しということもあり、ベルツリー急行での一件も挟んだおかげで何とかうやむやにできたものの、今回ばかりはどうしようもない。怒りの矛先は赤井本人とはいえ、一発、旧友仕込みの右ストレートが頭をかすめてもおかしくはない状況である。
しかし、一方のなまえはと言うと、珍しくどういう反応をすればいいかわからず、ただ顔を背け、黙ったまま工藤邸の鍵を開けていた。そして玄関の電気をつけるや否や、コナンとは一切顔を見合わせないまま冷たく言い放つ。
「キッチンに来て。お茶出すから」
「お、おう……」
これはかなり怒っているときのなまえだ。長年の勘からコナンはそう悟ると、恐る恐る彼女の顔をその身長差を駆使してバレないように覗き見た。だが、予想していた怒りというよりは、むしろこちらが切なくなるくらい悲痛な目をしていて、コナンは自責の念から余計に心が強く締めつけられる。その顔は、残念ながら弟として一番させたくない顔だった。
ダイニングテーブルの上に暖かいレモンティーが入ったカップがふたつ置かれたところで、コナンは改めて粛々と持参した本を差し出した。そして、彼女に伺いを立てるよう、努めて慎重に口を開く。
「これだろ? オメーが言ってた本」
「ありがとう。それで、話って?」
「その前に、さっきのことだけど……。赤井さんの保身のために言っとくが、あの人はなまえをいろいろ巻き込みたくなくて黙ってるだけで、それってすげー大切にされてるってことだから……」
「わかってるよ、新ちゃんに言われなくても」
それも、痛いほどね。まるで皮肉のようになまえはそう言って、痛む胸をわずかにさするように手を当てた。だって、それ以外に彼が自分のことを隠す理由がない。何者も不幸から遠ざけたがる、彼がやりそうなことだ。
それに、大切にされているということは、昨日のあの発言からも、体温の心地よさからも十分すぎるくらい伝わっていた。態度を変えた理由は未だわからないけれど、きっと彼なりの何かわけがあるに違いない。
対して、姉のその言い方がまるで突き放すように感じられたコナンは思わず少しむっとしてしまった。故に、じゃあ聞くけど、と無遠慮にも最も問われたくないであろう質問をナイフ代わりに突き立てるよう鋭く彼女に指摘する。
「告白の返事、ちゃんと赤井さんにしたのか?」
「……まだだけど」
「はあ……だと思ったよ」
「でも。今は彼の方が私に近づいてこないから」
「え?」
「ねえ、名探偵。私はやっぱり相変わらず恋愛がよくわからないみたい。一体、何をどうしたらいいのか、自分で、自分が、わからないの」
「!」
そう言った途端、思いがけないことに、テーブルの上にはぼたぼたと彼女の目から大粒の涙が落ちた。これにはさすがのコナンも、そして当人であるなまえでさえも予想外のことで、ふたりしてしばらく焦ったように涙を止めようと躍起になる。しかし、いつも通りなまえが自分の感情を必死で抑圧しようとするも、自体は一向に快方せず。拭っても拭っても、その指の隙間からは涙があふれてくるのだった。
親友がふたりも行方不明になったときでさえ泣かなかったはずの気丈な姉が泣くところを見たのはそれが初めてのことで、コナンは少なからずショックを受けていた。諸伏の影にかき乱されていることは知らないながらも、赤井との関係が上手くいっていないことは、その涙からも十分に察しがつく。しかし、その涙の止め方はたとえ名探偵であってもわからない。
「な、泣くなよ……!」
「私だ、って、こんなの、泣きたくて、泣いてるわけ、じゃ、なくて」
「……」
「全部に説明ができなくて、勝手に、ひとりで、苦しい、だけ、だ、からっ……もう、お願い、だ、から、放っておいてよ……っ!」
それを聞くと同時に、コナンは息を飲む。ふと頭の中に思い浮かんだ言葉で彼女の涙が止まるかはわからない。だが、その悩みに対する解決方法なら、彼は探偵として自信があった。
「なまえ。俺は……いや、これから話すのは父さんと母さんも総意だと思って聞いてくれていい」
「やだっ、聞きたくないっ……!」
「もう何も考えず、ただ素直に赤井さんの手を取っちまえばいいんだよ。甘えでも、利用でも、この際、何だっていいじゃねえか」
「……」
「その方がなまえは絶対に幸せになれる。俺が断言するんだから、信じられるだろ? 俺の正体が工藤新一だってことは、オメーが一番よく知ってるんだから」
彼のその声は、確かに新一と重なって聞こえた。いつの間にかひどく泣きじゃくるなまえの視線は、よく考えろ、とだけ言って部屋を去る弟の背中も追えない。手元に残ったのは返された本と、大好きなレモンが浮かぶまだ熱い紅茶だけ。
ひとりになった後も、なまえはその場でしばらく泣き続けていた。反芻する弟の言葉を何度も噛み締めて熟考し、ある意味で占い師よりも信ぴょう性のある名探偵に断言された自分の幸せな未来をできるだけ多く想像してみようとする。それから、今まで傍にいてくれた沖矢ことも、赤井との楽しい思い出も。……安室との悲しい決別も。
考えに考えを重ねた結果、なまえはようやく決心を固めた。それはもちろん、待たせ続けていた赤井の告白に対する返事しようという決心である。